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何人いた?徳川家康の子供・妻を家系図と共に紹介【家康の子供時代も解説】

徳川家康には子供が16人もいました。妻も20人近くいて、家康が艶福家であることは結構知られていますよね。しかし、将軍の座を引き継いだ秀忠や、御三家を築く義直、頼宣、頼房以外の子供については、養子に入って名字が変わっていたり、若くして亡くなってしまったりと、さまざまな事情で歴史に埋もれている人も少なくありません。

江戸幕府を開いた徳川家康(1542〜1616)

この記事では徳川家康の子供たちについて、家系図を見ながらその生母や功績を紹介していきます。日本史上で有名な事件や人物が、家康の子供たちと繋がっていることも多く、この記事を通して珍しい日本史の横顔を覗くことができるはずです。

家康の子供を家系図とともに紹介

徳川宗家の家系図

子供は16人

3代将軍徳川家光は幕藩体制の基礎を確立し鎖国を完成させた。

徳川家康は実子が16人、養子を含めると40人近くの子供がいたと言われています。またこれ以外にも、家康のご落胤と噂されている子供も複数いました。

一番代表的なのは3代将軍家光でしょう。母は家光の乳母であった春日局とのこと。一方、春日局の出身である稲葉家には、2代将軍徳川秀忠と春日局との間に生まれたのが家光であるとする資料があります。果たして何が真実なのでしょうか?今も真相は藪の中です。

妻は18人

豊臣秀吉は家康を取り込むため、44歳の妹の朝日姫を家康の継室として送りこんだ。

徳川家康には正室が2人いたことははっきりしていますが、側室の人数については記録にあるだけでも16人はいたようです。歴代の徳川家の将軍を見ても、この側室の数に匹敵するのは11代将軍家斉ぐらいのものです。息子の秀忠が側室は1人だったのは、正室の江との関係もあるでしょうが、この点では家康が反面教師だったのかもしれませんね。

子宝に恵まれなかった女性もいた一方で、家康の子供を3人以上産んだ女性は史料上では確認されていません。これは、家康が出産経験がある女性を好んでいたこと、そして特に晩年は若い女性を寵愛したことにも理由があるようです。

徳川家康の子供16人を紹介

徳川家康の子供16人の一覧

長男:松平信康

今川に所縁の深い築山殿と、織田信長の娘である正室の徳姫との不仲が、松平信康切腹に至るきっかけとの説もある。

信康は1559年に家康の嫡男として生まれました。母は今川義元の姪である正室の築山殿です。武勇にも優れた優秀な息子だったようですが、武田勝頼との内通の疑いを受け、1579年に家康の命で切腹させられました。享年21歳でした。信康殺害命令は、家康と同盟関係にあった織田信長によるものとも言われています。

長女:亀姫

亀姫は家康の娘の中では最も長寿であった。

亀姫は1560年に家康と築山殿の長女として生まれました。1576年、旧武田家家臣で三河新城の城主奥平信昌に嫁ぎます。亀姫は1622年に起きた、本多正純が2代将軍徳川秀忠暗殺を狙ったとされる宇都宮釣天井事件の黒幕という噂もあります。1625年に老衰により亡くなりました。

次女:督姫

再嫁した督姫であったが、池田輝政とは円満な夫婦仲であったという。

督姫は1565年に今川家家臣鵜殿氏の娘である西郡局(にしのこおりのつぼね)が家康の次女として出産します。1583年、甲信地方をめぐる争いの和睦の条件として北条氏直に嫁ぎました。北条氏滅亡後、豊臣秀吉の仲介で1594年に池田輝政の継室となり、5男2女に恵まれました。1615年に疱瘡により他界しています。

次男:結城秀康

結城秀康は黒田官兵衛と親しかったとされ、二人を描く小説も多く出版されている。

結城秀康は1574年に築山殿の奥女中であった於万の方(小督局)が出産した双子のうちの一人と言われています。1584年に小牧・長久手の戦いの和睦の証として秀吉の養子に迎えられました。年齢順で言えば次男の秀康は徳川家の後継ですが、三男秀忠の母の身分が高いことから、家康はこの時点ですでに秀忠を後継にする腹づもりだったと考えられます。

1590年には結城晴朝の養子となり、下総の豪族である結城氏を相続します。関ヶ原の戦い後には松平姓に戻り、福井藩67万石を支配しました。1607年、34歳で亡くなります。死因は梅毒とも言われています。

三男:秀忠

秀忠は凡庸な2代目とも言われるが、家康の政治路線を軌道に乗せた功績は大きい。

秀忠は1579年にお愛の方(西郷局)が家康の三男として出産しました。1590年に豊臣秀吉に拝謁した際、諱を与えられて「秀忠」を名乗るようになります。関ヶ原の戦いに遅れて家康に怒られるなど失敗もありましたが、1605年に家康の後を継いで江戸幕府2代目将軍に就任しました。継室は浅井長政の娘である江です。

武家諸法度や禁中並公家諸法度などを定め、幕政確立に務めます。1632年に亡くなりました。死因は胃がんと考えられています。

四男:忠吉

忠吉は実子がいないまま28歳という若さで亡くなったので、遺領は弟の義直が引き継いだ。

秀忠の同母兄弟となる忠吉は1580年に生まれました。1581年に東条松平家の家督を継ぎます。1592年には井伊直政の娘を正室に迎え、関ヶ原の戦いでは岳父とともに島津勢を追い詰めるなど活躍します。家康からは戦功として尾張清洲城主となり52万石を与えられましたが、関ヶ原で負った傷がもとで1607年に亡くなりました。

三女:振姫

振姫は死後に京都の金戒光明寺に葬られた(のちに広島の正清寺に回葬)。

1580年に生まれた振姫は、母は下山殿(於都摩の方)もしくはお竹と言われ、どちらも甲斐武田氏旧臣の娘です。1598年に豊臣秀吉の命令で会津若松城主の蒲生秀行に嫁ぎますが、1612年に死別。1616年には紀州国和歌山藩2代目浅野長晟(ながあきら)に再嫁しましたが、息子の光晟を出産後、亡くなりました。

蒲生家の振姫の遺児たちは若くして亡くなりますが、光晟は父の長晟が移封された安芸国広島藩の藩主の座を継ぎました。浅野家は明治維新まで広島藩を治めることになります。

五男:信吉

信吉の移封後に廃城となった小金城の跡は今も残されている(千葉県松戸市大谷口付近)。

1583年に信吉は家康の五男として下山殿が出産しました。母の養父である甲斐武田家一門・穴山信吉(梅雪)の死後、名跡を継ぐために武田信吉となります。1590年に木下勝俊(秀吉の正室である高台院の甥)の娘である天祥院を娶りました。

1590年に下総国小金3万石を与えられ、1592年には佐倉4万石に移封、1602年には水戸15万石の領主となりましたが、1603年に皮膚疾患で亡くなったといわれています。実子がいなかったため、遺領は弟の頼宣が引き継ぎ、信吉の家臣たちも頼宣に召し抱えられました。

六男:忠輝

家康が疎んじたと言われる松平忠輝だが、信長から秀吉、家康へと受け継がれた野風(乃可勢)という一節切(縦笛)を家康は形見として忠輝に託した。

1592年に生まれた忠輝は、母が茶阿局です。1599年、伊達政宗と手を結ぶという家康の意向を受けて、政宗の長女である五郎八姫と婚約します(結婚は1606年)。1610年に越後高田60万石の城主となるも、1616年に兄の秀忠に改易を命じられ、伊勢の朝熊(あさま)に配流となります。その後諏訪高島城に移されますが、1683年まで命を長らえました。

七男:松千代

長沢松平家の居城長沢城は、東海道を見下ろす交通の要衝にあった(愛知県豊川市長沢町古城)。

1594年に忠輝の同母弟として誕生します。1592年に忠輝と双子として生まれたとの説もありますが、定かではありません。生まれて間もなく長沢松平家を継いだものの、1599年に亡くなりました。長沢松平家は兄の忠輝が引き継ぎました。

八男:仙千代

家康は平岩親吉に厚い信頼を寄せており、息子がおらず平岩家の断絶を惜しんだ家康が仙千代を養子にさせたといわれている。

京都石清水八幡宮の社人清水宗清の娘であるお亀の方が1595年に出産したのが仙千代です。徳川十六神将の一人である平岩親吉(ちかよし)の養子となるも、1600年に亡くなりました。

四女:松姫

松姫は伏見城で生まれた(洛中洛外図屏風屏風より)。

1595年に家康の四番目の娘として生まれたのが松姫です。母は後北条氏の家臣として知られる間宮康俊の娘である普照院(お久)、もしくは茶阿局と言われています。1598年に夭折してしまいました。

九男:義直

徳川義直は兄家光と仲が悪く、度々衝突していたという。

1600年に生まれたのが初代尾張徳川家を興す義直です。仙千代の同母弟で、1603年に甲斐25万石を与えられます。1607年に松平忠吉の遺領を受け継ぎ尾張清洲城主となりました。1610年に名古屋城を築城し、清洲から移ります。1614年の大坂冬の陣で初陣を飾りました。1650年、中風で亡くなっています。

義直は武芸に力を入れたほか、儒学を奨励し、尊皇思想を強く持っていました。この義直の遺訓が幕末の尾張藩の行動に大きな影響を与えます。

十男:頼宣

徳川頼宣は名所旧跡は新田開発しないよう命じるなど、景観も重要視する現在の都市計画に通じる意識を持っていた。

紀州徳川家初代となる頼宣は1602年に生まれました。母は勝浦城を本拠地に活躍していた正木頼忠の娘であるお万の方(養珠院)です。1614年の大坂冬の陣で初陣を飾りました。はじめは水戸、その後に遠江を与えられ、1619年に55万5000石の紀州藩主となります。

正室には加藤清正の娘である八十姫(瑤林院)を迎えました。1671年に亡くなるまで、法典整備といった政治的な活動のほか、稲作以外にもみかん栽培など諸産業の発展に力を入れ、紀州藩の発展の基礎を作りました。8代将軍徳川吉宗の祖父にあたります。

十一男:頼房

頼房は53年もの長期にわたって水戸藩主を務め、新田開発や城下町の建設など水戸藩の基礎を築いた。

1603年に生まれた頼房は、頼宣の同母弟です。出生後には、聡明だったとして名高いお梶の方が養母となりました。兄の頼宣が遠江に移封になったため、その後を継いで1609年に水戸25万石の城主になりました。

3代将軍家光とは1つ違いの年齢差ということもあり、家光は何かにつけ頼房を頼りにしたことから「副将軍」と言われるようになります。1661年に食道癌で亡くなりました。水戸藩の2代目を継いだのが「水戸黄門」で知られる光圀です。

五女:市姫

市姫は家康の祖母の菩提寺である華陽院に葬られている(静岡市葵区鷹匠二丁目)。

1607年、家康が66歳の時に生まれた末子が市姫です。母はお梶の方(英勝院)で、太田氏もしくは遠山氏といった関東地方の名門出身と言われています。名前は織田信長の妹であるお市の方にあやかって「市姫」と名付けられたようです。しかし1610年に夭折してしまいました。

家康はどんな幼少期を送ったのか?

徳川家康が生まれた岡崎城

松平広忠の嫡男として誕生

大樹寺にある松平広忠の墓(愛知県岡崎市鴨田町)

徳川家康は1542(天文11)年12月26日に三河岡崎城主松平広忠の嫡男として生まれました。母は刈谷城主で水野忠政の娘である於大の方(伝通院)です。当時の三河は、周囲の大名たちからいつ攻め込まれてもおかしくない状況でした。今川義元のバックアップでなんとか三河を治めていましたが、非常に不安定な情勢でした。

幼くして父母に生き別れる

於大の方は徳川家康が天下を獲ったことを見届けて1602年に亡くなった。

1544年、母である於大の方が離縁されました。これは実家の水野家が松平家の敵方であった織田方についたためです。家康が母と晴れて再会を果たすのは、1560年の桶狭間の戦いで今川義元が他界してのちのこととなります。そして1547年、家康は父である松平広忠の判断で人質に出されることになりました。6歳で父母と別れることになったのです。

織田家の人質

徳川家康は織田方に人質として連れていかれた那古野城は、今は石碑のみ残っている(名古屋城二之丸内)。

今川家へ人質として駿府に送り届けられるはずの家康でしたが、途中で織田家に通じた者の裏切りにより、尾張の織田信秀の元へ連れていかれたと考えられています。近年の研究では、松平広忠が織田方へ降伏した証として家康を人質に出したという説もありますが、この頃の広忠の置かれた状況についてはまだ議論が分かれています。

今川家の人質

徳川家康が人質として連れて行かれた駿府城は、家康が大御所時代に大修築して晩年を過ごした場所となった。

1549年、父である松平広忠が亡くなります。家臣による暗殺や病死などさまざまな説がありますが、明確なことはわかっていません。

そしてこの年、今川軍が織田方の安祥城を攻め、織田信広を生捕にします。今川は織田に、織田信広と家康の人質交換を求め、家康は駿府へ送られることとなりました。家康はここからおよそ10年間、今川家の人質生活を駿府で送ることになるのです。

徳川家康の子供に関するまとめ

徳川家康の子供たちは、家康の血を引いているが故に、数奇な運命をたどった人も少なくありませんでした。しかしながら、彼らがいたからこそ、江戸幕府は250年もの長きにわたって政権を維持し続けることができたと言っても過言ではないでしょう。

結城秀康は、豊臣秀吉から徳川家康の時代への橋渡しには必要な人材でした。徳川秀忠は武勇には優れなかったかもしれませんが、2代目将軍としては素晴らしい仕事を成し遂げました。徳川頼房の支えがあったからこそ、徳川家光は3代将軍として幕藩体制の基礎を作る仕事が出来たとも言えます。

兄弟がいることで諍いが生まれることも事実です。しかし視野を広げて徳川将軍家として考えてみれば、子供が多いからこそ磐石な基盤が出来たわけで、多くの子供を残したことは徳川家康の大きな功績の一つとも言えるかもしれません。

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