何人いた?徳川家康の子供・妻を家系図と共に紹介【家康の子供時代も解説】

五男:信吉

信吉の移封後に廃城となった小金城の跡は今も残されている(千葉県松戸市大谷口付近)。

1583年に信吉は家康の五男として下山殿が出産しました。母の養父である甲斐武田家一門・穴山信吉(梅雪)の死後、名跡を継ぐために武田信吉となります。1590年に木下勝俊(秀吉の正室である高台院の甥)の娘である天祥院を娶りました。

1590年に下総国小金3万石を与えられ、1592年には佐倉4万石に移封、1602年には水戸15万石の領主となりましたが、1603年に皮膚疾患で亡くなったといわれています。実子がいなかったため、遺領は弟の頼宣が引き継ぎ、信吉の家臣たちも頼宣に召し抱えられました。

六男:忠輝

家康が疎んじたと言われる松平忠輝だが、信長から秀吉、家康へと受け継がれた野風(乃可勢)という一節切(縦笛)を家康は形見として忠輝に託した。

1592年に生まれた忠輝は、母が茶阿局です。1599年、伊達政宗と手を結ぶという家康の意向を受けて、政宗の長女である五郎八姫と婚約します(結婚は1606年)。1610年に越後高田60万石の城主となるも、1616年に兄の秀忠に改易を命じられ、伊勢の朝熊(あさま)に配流となります。その後諏訪高島城に移されますが、1683年まで命を長らえました。

七男:松千代

長沢松平家の居城長沢城は、東海道を見下ろす交通の要衝にあった(愛知県豊川市長沢町古城)。

1594年に忠輝の同母弟として誕生します。1592年に忠輝と双子として生まれたとの説もありますが、定かではありません。生まれて間もなく長沢松平家を継いだものの、1599年に亡くなりました。長沢松平家は兄の忠輝が引き継ぎました。

八男:仙千代

家康は平岩親吉に厚い信頼を寄せており、息子がおらず平岩家の断絶を惜しんだ家康が仙千代を養子にさせたといわれている。

京都石清水八幡宮の社人清水宗清の娘であるお亀の方が1595年に出産したのが仙千代です。徳川十六神将の一人である平岩親吉(ちかよし)の養子となるも、1600年に亡くなりました。

四女:松姫

松姫は伏見城で生まれた(洛中洛外図屏風屏風より)。

1595年に家康の四番目の娘として生まれたのが松姫です。母は後北条氏の家臣として知られる間宮康俊の娘である普照院(お久)、もしくは茶阿局と言われています。1598年に夭折してしまいました。

九男:義直

徳川義直は兄家光と仲が悪く、度々衝突していたという。

1600年に生まれたのが初代尾張徳川家を興す義直です。仙千代の同母弟で、1603年に甲斐25万石を与えられます。1607年に松平忠吉の遺領を受け継ぎ尾張清洲城主となりました。1610年に名古屋城を築城し、清洲から移ります。1614年の大坂冬の陣で初陣を飾りました。1650年、中風で亡くなっています。

義直は武芸に力を入れたほか、儒学を奨励し、尊皇思想を強く持っていました。この義直の遺訓が幕末の尾張藩の行動に大きな影響を与えます。

十男:頼宣

徳川頼宣は名所旧跡は新田開発しないよう命じるなど、景観も重要視する現在の都市計画に通じる意識を持っていた。

紀州徳川家初代となる頼宣は1602年に生まれました。母は勝浦城を本拠地に活躍していた正木頼忠の娘であるお万の方(養珠院)です。1614年の大坂冬の陣で初陣を飾りました。はじめは水戸、その後に遠江を与えられ、1619年に55万5000石の紀州藩主となります。

正室には加藤清正の娘である八十姫(瑤林院)を迎えました。1671年に亡くなるまで、法典整備といった政治的な活動のほか、稲作以外にもみかん栽培など諸産業の発展に力を入れ、紀州藩の発展の基礎を作りました。8代将軍徳川吉宗の祖父にあたります。

十一男:頼房

頼房は53年もの長期にわたって水戸藩主を務め、新田開発や城下町の建設など水戸藩の基礎を築いた。

1603年に生まれた頼房は、頼宣の同母弟です。出生後には、聡明だったとして名高いお梶の方が養母となりました。兄の頼宣が遠江に移封になったため、その後を継いで1609年に水戸25万石の城主になりました。

3代将軍家光とは1つ違いの年齢差ということもあり、家光は何かにつけ頼房を頼りにしたことから「副将軍」と言われるようになります。1661年に食道癌で亡くなりました。水戸藩の2代目を継いだのが「水戸黄門」で知られる光圀です。

五女:市姫

市姫は家康の祖母の菩提寺である華陽院に葬られている(静岡市葵区鷹匠二丁目)。

1607年、家康が66歳の時に生まれた末子が市姫です。母はお梶の方(英勝院)で、太田氏もしくは遠山氏といった関東地方の名門出身と言われています。名前は織田信長の妹であるお市の方にあやかって「市姫」と名付けられたようです。しかし1610年に夭折してしまいました。

家康はどんな幼少期を送ったのか?

徳川家康が生まれた岡崎城

松平広忠の嫡男として誕生

大樹寺にある松平広忠の墓(愛知県岡崎市鴨田町)

徳川家康は1542(天文11)年12月26日に三河岡崎城主松平広忠の嫡男として生まれました。母は刈谷城主で水野忠政の娘である於大の方(伝通院)です。当時の三河は、周囲の大名たちからいつ攻め込まれてもおかしくない状況でした。今川義元のバックアップでなんとか三河を治めていましたが、非常に不安定な情勢でした。

幼くして父母に生き別れる

於大の方は徳川家康が天下を獲ったことを見届けて1602年に亡くなった。

1544年、母である於大の方が離縁されました。これは実家の水野家が松平家の敵方であった織田方についたためです。家康が母と晴れて再会を果たすのは、1560年の桶狭間の戦いで今川義元が他界してのちのこととなります。そして1547年、家康は父である松平広忠の判断で人質に出されることになりました。6歳で父母と別れることになったのです。

織田家の人質

徳川家康は織田方に人質として連れていかれた那古野城は、今は石碑のみ残っている(名古屋城二之丸内)。

今川家へ人質として駿府に送り届けられるはずの家康でしたが、途中で織田家に通じた者の裏切りにより、尾張の織田信秀の元へ連れていかれたと考えられています。近年の研究では、松平広忠が織田方へ降伏した証として家康を人質に出したという説もありますが、この頃の広忠の置かれた状況についてはまだ議論が分かれています。

今川家の人質

徳川家康が人質として連れて行かれた駿府城は、家康が大御所時代に大修築して晩年を過ごした場所となった。

1549年、父である松平広忠が亡くなります。家臣による暗殺や病死などさまざまな説がありますが、明確なことはわかっていません。

そしてこの年、今川軍が織田方の安祥城を攻め、織田信広を生捕にします。今川は織田に、織田信広と家康の人質交換を求め、家康は駿府へ送られることとなりました。家康はここからおよそ10年間、今川家の人質生活を駿府で送ることになるのです。

徳川家康の子供に関するまとめ

徳川家康の子供たちは、家康の血を引いているが故に、数奇な運命をたどった人も少なくありませんでした。しかしながら、彼らがいたからこそ、江戸幕府は250年もの長きにわたって政権を維持し続けることができたと言っても過言ではないでしょう。

結城秀康は、豊臣秀吉から徳川家康の時代への橋渡しには必要な人材でした。徳川秀忠は武勇には優れなかったかもしれませんが、2代目将軍としては素晴らしい仕事を成し遂げました。徳川頼房の支えがあったからこそ、徳川家光は3代将軍として幕藩体制の基礎を作る仕事が出来たとも言えます。

兄弟がいることで諍いが生まれることも事実です。しかし視野を広げて徳川将軍家として考えてみれば、子供が多いからこそ磐石な基盤が出来たわけで、多くの子供を残したことは徳川家康の大きな功績の一つとも言えるかもしれません。

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