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徳川家康の性格とは?逸話や失敗談も交えて解説

260年もの時代を築いた江戸幕府を開き、天下統一を果たした徳川家康。御三家の始祖であり、三英傑の1人ともうたわれています。

天下統一した徳川家康

歴史に疎い人でも彼の名前を聞いたことが無い人はいないでしょう。

しかし高い名声の一方で、実際に家康がどんな性格だったのかはあまり知られていないのではないでしょうか。また、「徳川家康の名前や天下統一を果たした功績は知っているけど、実際どんな人だったかは知らない…」という人もいるはず。

そこで今回は、「徳川家康の性格」について解説します。家康の性格はもちろん、人柄を象徴する逸話や功績・名言も紹介するので、この記事で家康の性格や人柄は漏れなく理解できるでしょう。

名実ともに歴史へ語り継がれし家康の性格をのぞきに行きましょう。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

徳川家康はどんな性格だった?

若い頃は短気だった家康

家康が生まれた岡崎城

「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」

上記の歌で知られる家康は、ここぞというタイミングまで焦らず待つような気の長い性格かと思われますが、意外にも若い頃の家康は短気な性格だったそうです。

「切腹」「討ち死に」というような物騒な言葉を普通に使い、周りの家臣に止められていたのだとか。家臣の反対を押し切って襲撃した「三方ヶ原の戦い」では、武田信玄の誘いに乗るも、大敗北に終わります。

また、戦中に少しでも形成が悪くなったり、自分の思い通りにならなかったりすると、自分の爪や軍配うちわを嚙んだり、激高していたそうです。

冷静なイメージのある家康ですが、このような短気な一面もあったと思うと意外ですね。

壮年期は忍耐強い気性の持ち主

家康を人質にとった今川義元の浮世絵

壮年期の家康は、忍耐強い性格でした。幼少期、今川の家で人質のような生活を送っていた家康。今川氏討死後は織田信長に仕えますが、豊臣秀吉が優勢になると豊臣氏側の勢力に加わります。

「我先に」とぐいぐい行くのではなく、周りをよく見て我慢すること、タイミングを見計らうということができる性格だったようです。

実は多趣味だった家康

鷹狩りなどの趣味があった家康

囲碁や将棋、鷹狩り、能楽など、家康は多趣味だったことでも有名です。

また、家康は歴史上の人物の中でも勉強熱心でした。読書をたくさんしており、特に「日本史」は自分で学んでいたそうです。日本史というと、現代の私たちが学校で習うもの、というイメージが強いですよね。家康のような昔の偉人でも、日本史を勉強していたと思うとびっくりです。

さらに、剣や馬術、水泳といった運動も、かなりの実力だったとのこと。家康は人に自慢したり見せつけたりすることなく、丁寧に周囲の人に教えてくれたそうです。

家康には健康オタクな一面もあった

家康は医者顔負けの知識を持っていたとされる

家康は、現代でいう「健康オタク」の一面もあったと知られています。医療の分野にも深く精通していた家康は、自分で薬を調合し、内蔵系に良い薬や精力剤を作り飲んでいたそうです。

かなり健康には気を遣っており、食事の栄養バランスや生薬に関する知識もかなり持ち合わせ、医者顔負けだったとか。

家康が病気にかかった際にも、医者の見立てと自分の意見が食い違い、自分で薬を調合し完全に病気を治したそうです。家康は75歳まで生き、江戸時代ではかなりの長生きでした。彼の健康オタクな一面が、長生きを叶えたのかもしれません。

医学にも精通していた家康は、たとえ天下統一していなくても、医者として活躍できていたのではないでしょうか。

他者の失敗を教訓にする聡明さを持っていた家康

明治時代に作成された本能寺の変の絵

家康は自分の失敗だけでなく、他人の失敗から学べる人でした。

たとえば、「本能寺の変」では織田信長は明智光秀に殺されてしまいます。これは織田信長が嫡子の織田信忠と一緒にいたからだとされています。もし織田信忠が殺されることなく生きていれば、豊臣秀吉に天下を取られることはなかったでしょう。

この教訓を生かして家康は、秀吉の死後、後継者の徳川秀忠を江戸まで行かせます。秀吉の死によって混乱が起こり、万が一家康自身が討たれることになっても秀忠が生きていれば徳川家は安心できます。

このようにして、家康は他人の失敗さえも自分の糧にしていたのです。

徳川家康の性格がわかる2つの逸話

逸話1:「桶狭間の戦い」で織田信長に敗れ今川氏を見限る

桶狭間の戦いの絵

武士というと、「義理人情」のイメージが強いでしょう。しかしそんな一般的な武士のイメージとは裏腹に、家康は薄情な性格でした。

「壮年期は忍耐強い」の段落でも少し触れましたが、家康は今川家の人質として過ごしていました。しかし、今川氏が「桶狭間の戦い」で織田信長に破れると、今川氏を見限り織田氏側につきます。そして織田信長が「本能寺の変」で破れると、豊臣秀吉に従いますが、秀吉の死後は豊臣家をないがしろにします。

勢力がなくなるとためらうことなく切り捨て、力の強い方へと向かう。家康は「情」といった感情に流されることなく理論的に考えて動いたからこそ、天下統一を成しえたのかもしれません。

逸話2:着れなくなるまで着物を使い古した

若かりし頃の家康像

家康がケチだったというエピソードもいくつかあります。

同じ着物を使い回し、それを周りに指摘されると「倹約している」と言っていたとか。また、少し黄ばんできた下着でも、そこまで汚れが目立たなければ繰り返し使う、ということもあったそうです。

他にも、女中がよくご飯のおかわりをするので、漬け物の味付けを塩辛くさせ、食事が進まないようにしたというエピソードも。自分だけでなく周りの人にも倹約させていたことからも、かなりのケチだったことがうかがえます。

「そこまで倹約したお金を一体何に使うのか?」と疑問に思う人もいるでしょう。

実は家康をはじめとする武士たちは、倹約することで幕府の蓄えを増やしていました。その蓄えで贅沢したり散財したりするというわけではなく、いざという時にドンと使うのです。

たとえば、伊勢神宮の「式年遷宮」です。これは天武天皇・持統天皇の時代から進められていましたが、15世紀には資金難で中断を余儀なくされていました。その後、遷宮が再開されたのは123年後の織田信長の時代です。彼が資金を寄進したことによって再開されたのです。

そのようにして家康は幕府の蓄えを増やし、何かあったときのために備える心がけをしていたのです。そう考えると、家康は先のこともしっかりと考えられる堅実な人であり、むやみにケチケチしていたわけではないということが分かります。

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