260年もの時代を築いた江戸幕府を開き、天下統一を果たした徳川家康。御三家の始祖であり、三英傑の1人ともうたわれています。
歴史に疎い人でも彼の名前を聞いたことが無い人はいないでしょう。
しかし高い名声の一方で、実際に家康がどんな性格だったのかはあまり知られていないのではないでしょうか。また、「徳川家康の名前や天下統一を果たした功績は知っているけど、実際どんな人だったかは知らない…」という人もいるはず。
そこで今回は、「徳川家康の性格」について解説します。家康の性格はもちろん、人柄を象徴する逸話や功績・名言も紹介するので、この記事で家康の性格や人柄は漏れなく理解できるでしょう。
名実ともに歴史へ語り継がれし家康の性格をのぞきに行きましょう。
徳川家康はどんな性格だった?
若い頃は短気だった家康
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
上記の歌で知られる家康は、ここぞというタイミングまで焦らず待つような気の長い性格かと思われますが、意外にも若い頃の家康は短気な性格だったそうです。
「切腹」「討ち死に」というような物騒な言葉を普通に使い、周りの家臣に止められていたのだとか。家臣の反対を押し切って襲撃した「三方ヶ原の戦い」では、武田信玄の誘いに乗るも、大敗北に終わります。
また、戦中に少しでも形成が悪くなったり、自分の思い通りにならなかったりすると、自分の爪や軍配うちわを嚙んだり、激高していたそうです。
冷静なイメージのある家康ですが、このような短気な一面もあったと思うと意外ですね。
壮年期は忍耐強い気性の持ち主

壮年期の家康は、忍耐強い性格でした。幼少期、今川の家で人質のような生活を送っていた家康。今川氏討死後は織田信長に仕えますが、豊臣秀吉が優勢になると豊臣氏側の勢力に加わります。
「我先に」とぐいぐい行くのではなく、周りをよく見て我慢すること、タイミングを見計らうということができる性格だったようです。
実は多趣味だった家康

囲碁や将棋、鷹狩り、能楽など、家康は多趣味だったことでも有名です。
また、家康は歴史上の人物の中でも勉強熱心でした。読書をたくさんしており、特に「日本史」は自分で学んでいたそうです。日本史というと、現代の私たちが学校で習うもの、というイメージが強いですよね。家康のような昔の偉人でも、日本史を勉強していたと思うとびっくりです。
さらに、剣や馬術、水泳といった運動も、かなりの実力だったとのこと。家康は人に自慢したり見せつけたりすることなく、丁寧に周囲の人に教えてくれたそうです。
家康には健康オタクな一面もあった

家康は、現代でいう「健康オタク」の一面もあったと知られています。医療の分野にも深く精通していた家康は、自分で薬を調合し、内蔵系に良い薬や精力剤を作り飲んでいたそうです。
かなり健康には気を遣っており、食事の栄養バランスや生薬に関する知識もかなり持ち合わせ、医者顔負けだったとか。
家康が病気にかかった際にも、医者の見立てと自分の意見が食い違い、自分で薬を調合し完全に病気を治したそうです。家康は75歳まで生き、江戸時代ではかなりの長生きでした。彼の健康オタクな一面が、長生きを叶えたのかもしれません。
医学にも精通していた家康は、たとえ天下統一していなくても、医者として活躍できていたのではないでしょうか。
他者の失敗を教訓にする聡明さを持っていた家康

家康は自分の失敗だけでなく、他人の失敗から学べる人でした。
たとえば、「本能寺の変」では織田信長は明智光秀に殺されてしまいます。これは織田信長が嫡子の織田信忠と一緒にいたからだとされています。もし織田信忠が殺されることなく生きていれば、豊臣秀吉に天下を取られることはなかったでしょう。
この教訓を生かして家康は、秀吉の死後、後継者の徳川秀忠を江戸まで行かせます。秀吉の死によって混乱が起こり、万が一家康自身が討たれることになっても秀忠が生きていれば徳川家は安心できます。
このようにして、家康は他人の失敗さえも自分の糧にしていたのです。
徳川家康の性格がわかる2つの逸話
逸話1:「桶狭間の戦い」で織田信長に敗れ今川氏を見限る

武士というと、「義理人情」のイメージが強いでしょう。しかしそんな一般的な武士のイメージとは裏腹に、家康は薄情な性格でした。
「壮年期は忍耐強い」の段落でも少し触れましたが、家康は今川家の人質として過ごしていました。しかし、今川氏が「桶狭間の戦い」で織田信長に破れると、今川氏を見限り織田氏側につきます。そして織田信長が「本能寺の変」で破れると、豊臣秀吉に従いますが、秀吉の死後は豊臣家をないがしろにします。
勢力がなくなるとためらうことなく切り捨て、力の強い方へと向かう。家康は「情」といった感情に流されることなく理論的に考えて動いたからこそ、天下統一を成しえたのかもしれません。
逸話2:着れなくなるまで着物を使い古した
家康がケチだったというエピソードもいくつかあります。
同じ着物を使い回し、それを周りに指摘されると「倹約している」と言っていたとか。また、少し黄ばんできた下着でも、そこまで汚れが目立たなければ繰り返し使う、ということもあったそうです。
他にも、女中がよくご飯のおかわりをするので、漬け物の味付けを塩辛くさせ、食事が進まないようにしたというエピソードも。自分だけでなく周りの人にも倹約させていたことからも、かなりのケチだったことがうかがえます。
「そこまで倹約したお金を一体何に使うのか?」と疑問に思う人もいるでしょう。
実は家康をはじめとする武士たちは、倹約することで幕府の蓄えを増やしていました。その蓄えで贅沢したり散財したりするというわけではなく、いざという時にドンと使うのです。
たとえば、伊勢神宮の「式年遷宮」です。これは天武天皇・持統天皇の時代から進められていましたが、15世紀には資金難で中断を余儀なくされていました。その後、遷宮が再開されたのは123年後の織田信長の時代です。彼が資金を寄進したことによって再開されたのです。
そのようにして家康は幕府の蓄えを増やし、何かあったときのために備える心がけをしていたのです。そう考えると、家康は先のこともしっかりと考えられる堅実な人であり、むやみにケチケチしていたわけではないということが分かります。
徳川家康の性格がわかる2つの失敗談
失敗談1:短気な気性が裏目に出て「三方ヶ原の戦い」で大敗北

自分が戦いで勝った様子を描いた絵はたくさんありますが、負けた絵というのはあまりありません。自分が負けた様子は恥ずかしいので隠したくなりますが、それを描かせるのはすごいことです。失敗をしっかり反省して、次に活かせる人だったことがよく分かります。「若い頃は短気」の段落でも触れた、「三方ヶ原の戦い」は大敗北をしています。短気だったがゆえに、勢いだけで挑んだ戦だったのでしょうか。
相手の軍の攻撃が怖すぎて脱糞したというエピソードもあります。ただこれは諸説あり、後世で作られたうその話ではないかという見解も。
家康はこの三方ヶ原の戦いでの失敗を胸に刻むため、そして後世に反面教師として残すために、自分が失敗している姿を絵に描かせています。
失敗談2:故意に食い逃げ犯になった家康
同じく三方ヶ原の戦いでの失敗談ですが、こちらは意外な失敗です。
戦いに負けた後、家康は浜松城へ逃げ帰りますが、戦いの後ということもありかなりの空腹でした。そこで近くの茶屋で小豆餅を食べることに。すると、なんと敵軍が追いかけてきて家康はあわてて逃げたので、茶屋の代金を支払わなかったのです。
あの徳川家康が食い逃げをしたとは意外なものです。ちなみにその後、茶屋の店主のおばあさんが追いかけて家康を捕まえ、しっかりと支払わせたそうです。
徳川家康の性格がわかる名言

堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え
我慢することが無事に長く栄えることのできる基礎で、怒りは敵と思いなさい
これは忍耐力のある家康をよく表しています。気を急いたりイライラしたりすることは、命取りになるとして胸にとめていたのですね。
得意絶頂のときこそ、隙ができることを知れ
物事がうまくいく時ほど隙ができるものだから、用心しなくてはならない
こちらも用心深い家康がにじみ出ています。家康は天下統一し、絶頂を迎えてからも慎重に事を運ぶようにしていました。
実は家康には20人以上の側室、16人の子どもがいました。これを見ると一見女好きに思えますが、手当たり次第に関係を持っていたわけではないようです。
容姿端麗な女性だと周りからひがみを受け、面倒になるから性格を気に入れば良しとする。また、健康に気を使っていたため、リスクのある女性とは関係を持たないなど。そのため出産経験のある女性を選んでいたとか。
このようにして、天下統一後も長く繫栄させるためにいろいろと考えていたことが分かります。
己を責めて、人を責むるな
失敗した時は、自分を責めるべきで、他人を責めてはいけない
この名言も、失敗を真っ直ぐにとらえて反省する家康そのものです。彼は周りの家臣たちなどのせいにすることなく、いつも自分の行動を省みていました。自分の失敗だけでなく、周囲の人の失敗さえも自分ごととしてとらえて教訓にしたほどです。
およそ人の上に立って下のいさめを聞かざる者の、国を失い、家を破らざるは、古今とも、これなし
人の上に立つ者で、部下の諫めを聞かない人は、国を失い滅亡する。今も昔もそれは変わらない
「部下の意見に耳を傾けない者は、国を滅亡させる」という意味。
家康は冷静で賢いイメージが強いので、家臣たちともあまり交流していなかったと思われがちですが、実際にそんなことはなく家臣たちの言葉をしっかりと聞いてくれたようです。
ちなみに、「歴史上の偉人が上司なら誰が良いか」というランキングでも家康は上位にランクインしています。この名言は特に、社会でも役に立ちそうな言葉ですね。
徳川家康の性格に影響を与えた人物
父の松平広忠などの家族
徳川家は、もともと短気な家系だったそうです。祖父や父の松平広忠、長男はみな短命でした。短気は命取りになると感じた家康は短気にならないようにと肝に銘じていたのです。若い頃は短気でしたが、年を重ねるにつれて短気ではなくなりました。
武田信玄
武田信玄は、家康の宿敵として知られています。その信玄は天下統一目前で病死してしまうのです。
せっかく力があっても死んでしまっては元も子もないので、家康は「健康であること」を重要視するようになりました。出産経験のある女性を選んでいたのも、感染症予防のためだったそうです。

織田信長

「失敗談2」でも触れましたが、織田信長は嫡子と一緒にいたがために暗殺されてしまいました。家康は、織田信長の二の舞にならないように、抜かりなく行動するようにしていました。
家康の名言にもあるように、「調子の良いときは隙ができるので用心すべき」という考え方は織田信長などの他者を見て学んだのでしょう。
徳川家康に関するまとめ
今回は、徳川家康の性格について解説しました。
彼は戦国武将の中でも特に人気があるというわけではありません。しかし、常に隙を作らないように用心深く、さらに自分や他者の失敗を教訓にしていた努力家な家康は、天下統一するにふさわしい人物だったといえるのではないでしょうか。
華々しさやきらびやかさはないかもしれませんが、家康のようにしっかりとした中身のある人になりたいものです。