「室町時代の将軍はどんた人たちだった?」
「全15代の将軍の覚え方は?」
「室町幕府の将軍の補佐役はなんて言う?」
などの疑問を持っていませんか?室町時代を通し、将軍職を務めてきた足利(あしかが)一族。室町時代は、南北朝時代と戦国時代を含めると約237年続き、その間全部で15代の個性豊かな将軍が登場しました。
この記事では、そんな室町幕府の歴代将軍15名を、家系図や一覧、それぞれの簡単な略伝を交えご紹介します。また、全将軍の覚え方や、将軍の補佐役にも触れていきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
室町幕府の将軍15人の家系図
上記が室町時代の将軍15人の系図になります。「室町」とは、三代 義満が造営した将軍の邸宅「花の御所」が京都の室町通り沿いに建っていたことに由来しています。室町時代は西暦1336年から1573年までの約237年の長きに渡り続きました。
しかし、その初頭は南北朝時代、後期は戦国時代にあたり、将軍の威厳が絶頂だったのは三代の義満から六代の義教くらいまで。ゆえに、多くの期間が動乱期だったのも室町時代の大きな特徴です。
室町幕府の将軍15人を紹介
室町幕府歴代将軍の一覧
以下が室町時代の将軍一覧です。カッコ内の西暦は将軍職の在任期間です。
- 初代:足利尊氏(1338年~1358年)
- 二代:足利義詮(1359年~1367年)
- 三代:足利義満(1369年~1395年)
- 四代:足利義持(1395年~1423年)
- 五代:足利義量(1423年~1425年)
- 六代:足利義教(1429年~1441年)
- 七代:足利義勝(1442年~1443年)
- 八代:足利義政(1449年~1474年)
- 九代:足利義尚(1474年~1489年)
- 十代:足利義材/義植(1490年~1493年/1508年~1522年)
- 十一代:足利義澄(1495年~1508年)
- 十二代:足利義晴(1522年~1547年)
- 十三代:足利義輝(1547年~1565年)
- 十四代:足利義栄(1568年)
- 十五代:足利義昭(1568年~1588年)
初代:足利尊氏(たかうじ)
室町幕府の初代将軍です。後醍醐天皇に従い、新田義貞らとともに鎌倉幕府の倒幕に貢献しました。その後、後醍醐天皇が始めた政治(建武の新政)に多くの武士が反発。尊氏はその中心となり後醍醐天皇の政権を打倒しました。こうして尊氏が室町幕府が樹立し、室町時代が始まるのです。その後、観応の擾乱では弟の直義(ただよし)を失脚させ、足利将軍家の礎を築きました。
戦場でも笑みを絶やさず勇猛果敢に戦う豪快な人物、気前が良くて度量の大きい人物として伝わる一方、気分の浮き沈みが激しい性格だった節があり、双極性障害(躁鬱病)だったのではないかとも言われています。
二代:足利義詮(よしあきら)
尊氏の嫡男。鎌倉幕府倒幕の際には、幼いながらも足利家家臣に連れ出され新田義貞の軍勢に合流、京都で戦っていた父 尊氏の名代として鎌倉攻めに参加しました。建武の新政では、尊氏が後醍醐天皇から離反すると父とともに南朝と対立、主に鎌倉で関東を統治しました。
南北朝時代を描いた古典「太平記」では無能な二代目とされていますが、政治や軍事でも一定の活躍を見せており評価が別れる人物です。また、連歌や和歌を多く残しており、父の尊氏と同様に文化人としても評価されています。
三代:足利義満(よしみつ)
義詮の子で三代将軍。南朝と北朝に分裂していた朝廷をひとつにまとめ(明徳の和約)、南北朝時代を終わらせるとともに、明(みん)との勘合貿易を積極的に行い、大陸文化へ傾倒した人物として知られています。室町幕府の権力は義満の時代に絶頂を極め、一説には皇位の乗っ取りを目論んでいたとも言われています。しかし、乗っ取り目前で急死し、計画は頓挫しました。
義満が隠居所として造営した北山山荘は「金閣寺」の名で知られ、国内外問わず人気の名所として、平成6年(1994年)にユネスコの世界文化遺産に登録。公家文化と武家文化を融合し、伝統的な寝殿造りや、禅宗寺院の様式を融合した優美な建築様式に代表される文化は「北山文化」と呼ばれています。
四代:足利義持(よしもち)
義満の子。大陸文化へ傾倒した父のやり方を刷新するため、明への従属(冊封関係)を解消した将軍。先代の義満と、実質的な後継となった6代の義教(5代の義量は早世)の個性が強いため影に隠れがちですが、動乱に明け暮れた室町時代の中にあって、比較的安定した政権を築いた将軍であり、義持の将軍の在職期間28年は歴代室町将軍の中で最長です。
晩年には出家し将軍職を息子の義量に譲りましたが、義量が急逝。義持には他に息子がおらず、義量にも子がなかったため、再び義持が将軍とみなされました。しかし、後継者を明確にしないまま義持自身も亡くなってしまったため、この後に、有名な「くじ引き将軍」が誕生するのです。
五代:足利義量(よしかず)
義持の嫡男。父の義持に溺愛され、義持が外出する時にはいつも同行させていたと言います。17歳で将軍職を譲られましたが、実権は義持が握ったままでした。
義量は先天的に身体が弱かったにも関わらず、義持に戒められるほどの大酒飲みだったとされ19歳の若さで急逝。義量には子がいなかったため、義持が再び将軍とみなされました。
六代:足利義教(よしのり)
義満の子で義持の弟。先代の義量が早世、兄の義持も後継を決めないまま死去し、将軍職は約4年間空位となりました。そのため、出家していた義持の弟たちの中からくじ引きで次期将軍を選ぶこととなります。このことから、義教を「くじ引き将軍」と呼ぶこともあります。将軍をくじで決めるとは随分いい加減とも思えますが、昔は今と違い、くじ引きは神託(神の意思)とされていたため、適当に決めたわけではないのです。
義教は日本の歴史上でも特筆すべき暴君で、その恐ろしさは「万人恐怖」と称され、「お酌が下手な侍女を殴打し出家させた」、「口うるさい僧侶の頭に灼熱の鍋をかぶせ舌を切った」といった恐怖のエピソードが数多く残っています。しかし、その横暴が禍し、宴の最中に家臣に襲撃され亡くなりました(嘉吉の変)。