室町幕府の将軍を一覧で紹介!系図や補佐、覚え方も紹介

七代:足利義勝(よしかつ)

足利義勝
出典:Wikipedia

義教の子。父の義教が嘉吉の変で暗殺されてしまったため、わずか9歳で将軍に就任。とは言え、この年齢では政治権力があるはずもなく、実権は有力家臣が握っていました。

しかし、将軍になってからわずか8ヶ月で急死。死因は一般的に病死とされていますが、暗殺説、落馬説などの説も存在しています。

八代:足利義政(よしまさ)

足利義政
出典:Wikipedia

義教の子で義勝の弟。本来は将軍になる予定ではなかったため出家していましたが、六代の義教が暗殺され、七代の義勝が早世したため、8歳で次期将軍候補とされ、約6年の空位期間を経て将軍になりました。後に義政自身の後継者候補を巡って、妻の日野富子と意見が対立。これが約11年にも及ぶ応仁の乱の大きな引き金となったのですが、当事者の義政は乱の最中にも遊興にふけり、何一つ有効な解決策を見出せませんでした。

以上のことから、将軍としての評価は極めて低い人物ですが、一方で文化面では偉大な足跡を残し、質素なものに美を見出す「わび・さび」の価値観を創出しました。これを「東山文化」と言い、現代の茶道や華道、日本庭園などにも多大な影響を与えています。その東山文化の代表が、義政の隠居所で、現在も多くの人々に愛される名所、世界文化遺産「銀閣寺」です。

九代:足利義尚(よしひさ)

足利義尚
出典:Wikipedia

義政の子。義政と日野富子には男子がなく、義政の弟である義視(よしみ)を将軍後継に指名していましたが、後に富子が懐妊し義尚が生まれました。これにより、義政は義視を支持、富子は義尚を支持する立場となり、これに室町幕府の有力守護大名の家督争いが絡み、応仁の乱へと発展していきました。

結果的には義尚が九代将軍となりますが、わずか9歳だったため、政務は家臣が中心となって行いました。成長した後は、応仁の乱で衰退した幕府権力を取り戻すため奮起しますが、やがて酒に溺れるようになって政治や軍事を顧みなくなったとされ、近江の陣中で没しました。25歳でした。

十代:足利義材(よしき)/義植(よしたね)

足利義材
出典:Wikipedia

八代 義政の弟。先代 義尚の急逝に伴い将軍職に就きましたが、幕府の権力者である管領家の細川政元と後に対立。明応2年(1493年)に義材は将軍職を剥奪され、新たに義澄が擁立されました。この政変は「明応の政変」と呼ばれ、将軍権力の失墜を示すとともに、戦国時代の幕開けを告げる事件のひとつとされています。

なお、義材は後に義澄を追い落として将軍職に復帰。名を「義稙」と改めました。鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の中で、将軍職に2回就いたのは義材(義植)だけです。

十一代:足利義澄(よしずみ)

足利義澄
出典:Wikipedia

八代 義政の異母兄(政知)の子。細川政元のクーデター「明応の政変」によって義材を将軍職から引きずり下ろし、十一代将軍として擁立されました。しかし、実権は細川政元に握られており、やがてそれを良しとしない義澄は政元と対立しました。

その後、政元が暗殺されて細川家の内紛が発生(永正の錯乱)。翌年には先代の義材(この時は義尹と名乗っていた)が有力守護大名である大内氏の援護を得て将軍に復帰し、義植と名を改めました。これにより義澄は京都から追われてしまいます。その後も将軍復帰を目指しましたが叶わず病死しました。

十二代:足利義晴(よしはる)

足利義晴
出典:Wikipedia

義澄の子。父の義澄が京都を追放され、義稙(義材)が将軍に返り咲きましたが、義稙に不満を抱く家臣もおり、その代表格である細川高国によって、わずか10歳で将軍に擁立されました。しかし、名ばかりの将軍で実権はほとんど無かったとされています。

細川家の一人 細川晴元や、下克上の風潮で台頭してきた三好長慶といった実力者に翻弄され続け、京都に返り咲いては逃亡を繰り返し、嫡男の義輝に将軍職を譲った後、逃亡先の近江で亡くなりました。

十三代:足利義輝(よしてる)

足利義輝
出典:Wikipedia

義晴の嫡男。織田信長や豊臣秀吉と同世代。父の義晴と同じく京都への復帰を目指しましたが、三好長慶に翻弄され入京と逃亡を繰り返しました。あくまで将軍権力の復帰を強く志しましたが、それ良しとしない三好の家臣らによって襲撃を受け暗殺されました(永禄の変)。

義輝は剣豪としても知られており、襲撃を受けた際には自ら刀を振るって次々と刺客を斬り伏せたと伝わっています。しかし多勢に無勢で、畳を盾とした刺客たちに四方から槍で突き刺されたとも、倒れたところを槍で串刺しにされたとも言われ、壮絶な最期を遂げたました。

十四代:足利義栄(よしひで)

足利義栄
出典:Wikipedia

十一代 義澄に次男である足利義維(よしつな)の子。永禄の変で十三代の義輝暗殺を企てた三好三人衆によって擁立された将軍です。

しかし、後に十五代将軍となる足利義昭が、織田信長に担がれて上洛の動きを見せたため、三好三人衆はこれに対抗するも敗北。義栄は一度も入京できないまま、阿波(諸説あり)で病死しました。

十五代:足利義昭(よしあき)

義輝の弟で室町幕府最後の将軍。もともとは出家していたのですが、永禄の変で兄の義輝が暗殺された後に僧侶を辞め、織田信長の助力を得て上洛し将軍となりました。しかし、後に信長と不仲になり、有力大名と手を組み信長包囲網を形成するも敗北。その後も幕府再興を目指しましたが叶うことはなく、元亀4年(1573年)京都から追放され、室町時代は終焉しました。

なお、追放された後も義昭が将軍だったことには変わりがなく、豊臣秀吉の天下統一が目前に迫った天正16年(1588年)、将軍職を辞し再び出家。京都(山城国槇島)に1万石の領地をもらい、秀吉の良き話し相手として余生を過ごしました。

足利義昭とはどんな人?生涯・年表まとめ【信長や光秀との関係、子孫も紹介】

室町幕府の将軍15人の覚え方

足利将軍の邸宅「花の御所」
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室町幕府の歴代将軍は初代の尊氏を除き、名前の一文字目が「義」であり2代~15代までは「足利義」が共通です。なので、名前の二文字目(尊氏のみ一文字目)を順番に「尊詮満持量教勝政尚稙澄晴輝栄昭」の並びで覚えるのが主流です。

もしくは、「明日秋満つ。モカの釜ヒタヒタね、澄んで晴れてる、ひでー秋」(あした(足利尊氏)あき(義詮)みつ(義満)。モ(義持)カ(義量)の(義教)か((義勝)ま(義政)ヒ(義尚)タヒタね(義稙)、すんで(義澄)は(義晴)れてる(義輝)、ひで(義栄)ーあき(義昭))といった語呂合わせで覚えるパターンもあります。

室町幕府の将軍の補佐役はなんて言う?

管領の細川政元
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室町幕府将軍の補佐を担う役職を「管領(かんれい)」と言います。将軍に次ぐNo.2の地位であり、幕府の政治や重要な行事などを取り仕切っていました。

管領には誰でもなれるわけではなく、足利義満が定めたとされる細川、畠山、斯波の三家が交代で担っていました。この三家を「三管領」と呼びます。

室町幕府歴代将軍に関するまとめ

室町時代は期間だけ見れば、200年以上続いた長い時代区分です。将軍の数も15名と江戸時代と変わりません。しかし、その多くが動乱期であり、歴代将軍たちも歴史の波に翻弄されながら将軍職を担ってきました。このような時代背景から、室町時代は非常にややこしく、初代の尊氏、三代の義満、八代の義政、十五代の義昭以外は、あまり知られていない印象です。

ですが、室町幕府の歴代将軍は非常に個性的で、理解が進むほど面白い時代であることに気付きます。日本の歴史の中でも人気の戦国時代に直接繋がっている室町時代とその将軍たち。今回の記事が室町時代の入門になれば幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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