「明智光秀の死因は?」
「光秀の母 お牧の方の死因は?」
「光秀の妻 煕子の死因は?」
などの疑問を持っていませんか?織田信長を自害に追い込んだ本能寺の変の首謀者として名高い明智光秀。彼は変の後にどのような運命をたどり、どのような最期を迎えたのでしょうか?また、光秀の身近な存在である母や妻はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、そんな明智光秀の死因やその前後の状況、今も語り継がれる光秀生存伝説、そしてその母と妻の死因などをご紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
明智光秀の死因とは?
明智光秀の死因は、合戦に負けて敗走している最中に落ち武者狩りに襲われて亡くなった、あるいはその時に重傷を負って満足に動けなくなったため自害したと伝わっています。本能寺の変からわずか11日後のことでした。
光秀が亡くなるまでの経緯
なぜ光秀は上記のような非業の最期を迎えたのか?その経緯をお伝えしていきます。
本能寺の変
明智光秀は、本能寺の変の首謀者としてよく知られています。天正10年(1582年)6月2日の早朝、光秀は軍勢を率い本能寺を襲撃しました。少ない供回りと本能寺に宿泊していた織田信長は抗し切れずに自刃。天下平定を目前にしていた信長を討ち、天下の情勢は光秀有利に傾くかに思われました。
しかし、光秀は親交の深かった有力武将たちの味方を得られず、変後の目論見が大きく外れます。そんな中、中国地方で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、毛利と急遽和睦を結び、信長の弔い合戦を挑むため、大軍を率い京都に引き返してきました。これが世に名高い「中国大返し」です。
山崎の戦い
こうして天正10年(1582年)6月13日、光秀は秀吉と激突(山崎の戦い)しました。しかし、秀吉軍約4万人に対し、光秀軍は約1万数千人(兵数は諸説あり)。頼りにしていた武将たちからの援軍を得られず兵数で圧倒的に劣っていたうえに、秀吉の軍勢が想像以上に早く中国地方から引き返してきたため、光秀はあえなく敗北。
光秀の軍勢は撤退を始め、光秀は自身の居城である坂本城を目指しました。しかしこの敗走中に、光秀最期の瞬間がやってきてしまうのです。
落ち武者狩りにあい死亡
敗走する光秀はその道中(現在の京都府京都市伏見区小栗栖あたりの山中)で落ち武者狩りに襲撃されました。竹槍(錆びた槍とも)で腰のあたりを突き刺され重傷を負い、その傷が元でそのまま亡くなったとも、逃げることが不可能と判断し自害したとも言われています。
介錯(かいしゃく)はともに敗走していた明智家の重臣の溝尾茂朝(みぞおしげとも)が務めました。そして、光秀の首は近くの竹薮の溝に隠したと伝わります。しかし後に首は発見され、晒し首となりました。なお、光秀終焉の地と伝わる小栗栖の藪の中は、現在「明智藪」と言われています。