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明智光秀の死因は?経緯や生存説、光秀の母、妻の死因も紹介

明智光秀の死因は?」
「光秀の母 お牧の方の死因は?」
「光秀の妻 煕子の死因は?」

などの疑問を持っていませんか?織田信長を自害に追い込んだ本能寺の変の首謀者として名高い明智光秀。彼は変の後にどのような運命をたどり、どのような最期を迎えたのでしょうか?また、光秀の身近な存在である母や妻はどのような最期を迎えたのでしょうか?

明智光秀の肖像画
出典:Wikipedia

この記事では、そんな明智光秀の死因やその前後の状況、今も語り継がれる光秀生存伝説、そしてその母と妻の死因などをご紹介します。

明智光秀の死因とは?

明智光秀の像
出典:Wikipedia

明智光秀の死因は、合戦に負けて敗走している最中に落ち武者狩りに襲われて亡くなった、あるいはその時に重傷を負って満足に動けなくなったため自害したと伝わっています。本能寺の変からわずか11日後のことでした。

光秀が亡くなるまでの経緯

なぜ光秀は上記のような非業の最期を迎えたのか?その経緯をお伝えしていきます。

本能寺の変

本能寺の変を描いたもの
出典:Wikipedia

明智光秀は、本能寺の変の首謀者としてよく知られています。天正10年(1582年)6月2日の早朝、光秀は軍勢を率い本能寺を襲撃しました。少ない供回りと本能寺に宿泊していた織田信長は抗し切れずに自刃。天下平定を目前にしていた信長を討ち、天下の情勢は光秀有利に傾くかに思われました。

しかし、光秀は親交の深かった有力武将たちの味方を得られず、変後の目論見が大きく外れます。そんな中、中国地方で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、毛利と急遽和睦を結び、信長の弔い合戦を挑むため、大軍を率い京都に引き返してきました。これが世に名高い「中国大返し」です。

山崎の戦い

山崎の戦いの古戦場に建つ石碑
出典:Wikipedia

こうして天正10年(1582年)6月13日、光秀は秀吉と激突(山崎の戦い)しました。しかし、秀吉軍約4万人に対し、光秀軍は約1万数千人(兵数は諸説あり)。頼りにしていた武将たちからの援軍を得られず兵数で圧倒的に劣っていたうえに、秀吉の軍勢が想像以上に早く中国地方から引き返してきたため、光秀はあえなく敗北。

光秀の軍勢は撤退を始め、光秀は自身の居城である坂本城を目指しました。しかしこの敗走中に、光秀最期の瞬間がやってきてしまうのです。

落ち武者狩りにあい死亡

明智光秀の首塚
出典:Wikipedia

敗走する光秀はその道中(現在の京都府京都市伏見区小栗栖あたりの山中)で落ち武者狩りに襲撃されました。竹槍(錆びた槍とも)で腰のあたりを突き刺され重傷を負い、その傷が元でそのまま亡くなったとも、逃げることが不可能と判断し自害したとも言われています。

明智光秀終焉の地 明智藪
出典:ニッポン旅マガジン

介錯(かいしゃく)はともに敗走していた明智家の重臣の溝尾茂朝(みぞおしげとも)が務めました。そして、光秀の首は近くの竹薮の溝に隠したと伝わります。しかし後に首は発見され、晒し首となりました。なお、光秀終焉の地と伝わる小栗栖の藪の中は、現在「明智藪」と言われています。

今も伝わる生存伝説

明智光秀と同一人物とされる南光坊天海の肖像画
出典:Wikipedia

以上のように、光秀は本能寺の変後に山崎の戦いで敗れ、その敗走中に落ち武者狩りに襲われ亡くなりました。その一方で、光秀は山崎の戦い後も生きていたとする生存伝説も残されています。その代表格が「天海説」と呼ばれるもので、徳川家康の側近だった僧侶「南光坊天海(なんこうぼう てんかい)」が、生き延びた光秀と同一人物なのではないかとも言われているのです。

天海が名付けたとされる明智平の眺望
出典:旅色
  • 家康が祀られている日光に『明智平』という地があり、その地名は天海が名付けたとされている
  • 光秀の孫が、大阪の陣で豊臣方に味方したにも関わらず処罰された記録が無い
  • 天海のお墓が、光秀の居城であった『坂本城』の近くにある

などが根拠となり、「明智光秀=南光坊天海」といった説が唱えられているのです。ですが、決定的な証拠があるわけではなく、信憑性は低いとされています。

光秀の母 お牧の方の死因とは

明智光秀の母を「お牧の方」と言います。一説によると、お牧は壮絶な最期を遂げたとされており、今も語り継がれています。ここでは、光秀の母 お牧の死因を見て行きましょう。

磔にされ処刑

光秀が攻めていた波多野氏の居城 八上城がある高城山遠景
出典:Wikipedia

お牧は磔の刑に処され、槍で突き刺されて亡くなったと言われています。織田家と敵対していた波多野秀治を攻めていた光秀は、降伏すれば波多野家の領地を安堵すること、波多野一族を助命することなどを条件とし、その担保として母親のお牧を敵に差し出すことになったのです。とは言え、この人質は一時的なもので、波多野氏が降伏すればお牧はすぐに戻ってくるはずでした。

この作戦が功を奏し、波多野は降伏します。しかし、主君である織田信長が非情な判断をくだしました。光秀の意向を無視し、秀治を始めとする波多野一族の粛清を命じたのです。この命令は覆ることなく、波多野一族の主だった面々は処刑されてしまいました。

波多野秀治の居城 八上城跡の石碑
出典:Wikipedia

これにより、光秀が約束を破ったことになり、怒り狂った波多野氏によって、人質となっていたお牧の方は殺害されてしまったのです。この悲劇が本能寺の変の遠因になったとも言われています。

処刑は後世の創作?

波多野秀治の肖像画
出典:Wikipedia

このように、お牧はかなりショッキングな最期を遂げているのですが、これは後世の創作とも言われています。お牧の壮絶な処刑に関する記述は、江戸時代になってからの史料でのみ確認でき、同時代の史料に見られないことが創作とされる主な理由です。

また、光秀の城攻めによって波多野氏はかなり追い込まれており、城内もかなりの飢餓状態にあったとされ、わざわざ母親を人質に差し出す理由がない、といった見解もあり、お牧処刑は創作とされているのです。

光秀の妻 煕子の死因とは

戦国時代きってのオシドリ夫婦としても知られる光秀とその妻 煕子(ひろこ)。光秀は生涯側室を持たなかったとされ、煕子を愛し続けました。そんな煕子は本能寺の変が起こるよりも前に、病で亡くなっています。以下より詳しく紹介します。

看病疲れによる病死

明智家の菩提寺 西教寺にある煕子の墓
出典:Wikipedia

煕子の死因は病死とされています。天正4年(1576年)夫の光秀が病に倒れました。そして、煕子の看病もあって光秀は回復したのですが、入れ替わるようにして今度は煕子が発病。光秀は妻の病気が治るよう神社の神主に祈祷を依頼したりしています。

その甲斐あって、煕子は一時的に回復しましたが再び容体が悪化し、天正4年(1576年)11月7日に息を引き取りました。光秀への必死の看病による疲労がある中で、煕子にも病気がうつってしまったと言われています。

明智光秀の死因に関するまとめ

本能寺の変の首謀者として、とにかく有名な明智光秀。ドラマなどでも頻繁に描かれるため、その最期も比較的有名なのかなと感じます。とは言え、本能寺の変を起こした理由が、通説のように信長への恨み(怨恨説)だとするならば、光秀の死自体はとても切なく悲劇性の強いものといえるでしょう。

日本の歴史において、悲劇的な最期を遂げた人物には、必ずと言っていいほど生存説が存在します。源義経、真田幸村、西郷隆盛などなど。そういった意味では、光秀の生存説をもっと深掘りするもの面白いですし、光秀の最期を偲ぶとともに、彼が本能寺の変へと突き進んでいった動機なども、いろいろと考えてみるのも歴史の楽しみの一つなのかなと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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