今も伝わる生存伝説
以上のように、光秀は本能寺の変後に山崎の戦いで敗れ、その敗走中に落ち武者狩りに襲われ亡くなりました。その一方で、光秀は山崎の戦い後も生きていたとする生存伝説も残されています。その代表格が「天海説」と呼ばれるもので、徳川家康の側近だった僧侶「南光坊天海(なんこうぼう てんかい)」が、生き延びた光秀と同一人物なのではないかとも言われているのです。
- 家康が祀られている日光に『明智平』という地があり、その地名は天海が名付けたとされている
- 光秀の孫が、大阪の陣で豊臣方に味方したにも関わらず処罰された記録が無い
- 天海のお墓が、光秀の居城であった『坂本城』の近くにある
などが根拠となり、「明智光秀=南光坊天海」といった説が唱えられているのです。ですが、決定的な証拠があるわけではなく、信憑性は低いとされています。
光秀の母 お牧の方の死因とは
明智光秀の母を「お牧の方」と言います。一説によると、お牧は壮絶な最期を遂げたとされており、今も語り継がれています。ここでは、光秀の母 お牧の死因を見て行きましょう。
磔にされ処刑
お牧は磔の刑に処され、槍で突き刺されて亡くなったと言われています。織田家と敵対していた波多野秀治を攻めていた光秀は、降伏すれば波多野家の領地を安堵すること、波多野一族を助命することなどを条件とし、その担保として母親のお牧を敵に差し出すことになったのです。とは言え、この人質は一時的なもので、波多野氏が降伏すればお牧はすぐに戻ってくるはずでした。
この作戦が功を奏し、波多野は降伏します。しかし、主君である織田信長が非情な判断をくだしました。光秀の意向を無視し、秀治を始めとする波多野一族の粛清を命じたのです。この命令は覆ることなく、波多野一族の主だった面々は処刑されてしまいました。
これにより、光秀が約束を破ったことになり、怒り狂った波多野氏によって、人質となっていたお牧の方は殺害されてしまったのです。この悲劇が本能寺の変の遠因になったとも言われています。
処刑は後世の創作?
このように、お牧はかなりショッキングな最期を遂げているのですが、これは後世の創作とも言われています。お牧の壮絶な処刑に関する記述は、江戸時代になってからの史料でのみ確認でき、同時代の史料に見られないことが創作とされる主な理由です。
また、光秀の城攻めによって波多野氏はかなり追い込まれており、城内もかなりの飢餓状態にあったとされ、わざわざ母親を人質に差し出す理由がない、といった見解もあり、お牧処刑は創作とされているのです。
光秀の妻 煕子の死因とは
戦国時代きってのオシドリ夫婦としても知られる光秀とその妻 煕子(ひろこ)。光秀は生涯側室を持たなかったとされ、煕子を愛し続けました。そんな煕子は本能寺の変が起こるよりも前に、病で亡くなっています。以下より詳しく紹介します。
看病疲れによる病死
煕子の死因は病死とされています。天正4年(1576年)夫の光秀が病に倒れました。そして、煕子の看病もあって光秀は回復したのですが、入れ替わるようにして今度は煕子が発病。光秀は妻の病気が治るよう神社の神主に祈祷を依頼したりしています。
その甲斐あって、煕子は一時的に回復しましたが再び容体が悪化し、天正4年(1576年)11月7日に息を引き取りました。光秀への必死の看病による疲労がある中で、煕子にも病気がうつってしまったと言われています。
明智光秀の死因に関するまとめ
本能寺の変の首謀者として、とにかく有名な明智光秀。ドラマなどでも頻繁に描かれるため、その最期も比較的有名なのかなと感じます。とは言え、本能寺の変を起こした理由が、通説のように信長への恨み(怨恨説)だとするならば、光秀の死自体はとても切なく悲劇性の強いものといえるでしょう。
日本の歴史において、悲劇的な最期を遂げた人物には、必ずと言っていいほど生存説が存在します。源義経、真田幸村、西郷隆盛などなど。そういった意味では、光秀の生存説をもっと深掘りするもの面白いですし、光秀の最期を偲ぶとともに、彼が本能寺の変へと突き進んでいった動機なども、いろいろと考えてみるのも歴史の楽しみの一つなのかなと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。
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