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卑弥呼の死因は戦死?暗殺?有力説や墓、その後の邪馬台国についても紹介

卑弥呼の死因は?」
卑弥呼はいつ死んだの?」
卑弥呼の墓はある?」

本記事を読んでいる方はこのような疑問をもっているのではないでしょうか?卑弥呼は3世紀初頭、鬼道と呼ばれる呪術のような力を用いて国をまとめ、邪馬台国の女王として君臨した人物です。しかしその生涯についてはほぼ謎に包まれており、生年や死没年などもわかっていません。

邪馬台国の女王卑弥呼
出典:滋賀県立近代美術館 公式ブログ

卑弥呼の最期はいつ、どのようなものだったのでしょうか。また、彼女の墓は存在するのでしょうか。

この記事では、諸説ある卑弥呼の死因のほか、墓やその後の邪馬台国の状況についてもあわせてご紹介します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

未だ謎に包まれる「卑弥呼以死」とは

邪馬台国のことを記述している魏志倭人伝
出典:Wikipedia

卑弥呼の死については、中国の史書「魏志倭人伝」に「卑弥呼以死」という記述があるだけで、死んだ年や死因について触れられていません。この「卑弥呼以死(卑弥呼以って死す)」は、「そして卑弥呼は死んだ」または「卑弥呼は以て(こういう理由で)死んだ」、「卑弥呼はすでに死んだ」などの解釈があり、卑弥呼が死んだという事実を伝えています。

ただし、卑弥呼の死んだ時期については、中国の北朝の史書「北史」に「正始年間(240~249年) 卑弥呼死亡」という記録があります。さらに「魏志倭人伝」の前後の記述と照らし合わせて、今では242年~248年、とくに247年か248年に死亡したとする説が有力です。

卑弥呼が死んだ240年代の邪馬台国は狗奴国(くなこく)と戦っていました。しかし形勢が悪くなった邪馬台国は魏に支援の要請をします。247年、魏は張政(ちょうせい)という使者を日本に派遣しました。その前後に卑弥呼は亡くなったと推測されています。

卑弥呼の死因は?有力説を紹介

1.老衰説

邪馬台国説もある佐賀県の吉野ケ里遺跡
出典:Wikipedia

卑弥呼の死因は普通に考えれば、老衰または病死でしょう。卑弥呼は倭国大乱が続いた後、180年代半ばに邪馬台国の女王になったと考えられています。それから240年代まで約60年余りの間、卑弥呼は女王として国を治めてきました。そのため卑弥呼が10代で即位したとしても、240年過ぎには80歳近かったはずです。

「魏志倭人伝」にも、魏の使者が240年に謁見した卑弥呼のことを「年、長大(高齢)」と記録しています。当時の平均寿命については諸説ありますが、長くても40代だったと推察されています。そんな時代において、80歳近い卑弥呼はかなりの高齢です。卑弥呼が老衰で亡くなった可能性は高いと言えます。

2.狗奴国との戦いで死んだ戦死説

邪馬台国は狗奴国と戦闘
出典:Wikipedia

「卑弥呼以死」を「ある原因で卑弥呼は死んだ」と解釈して、卑弥呼は老衰や病死といった自然死ではなく、何かの理由で死んだとも推測されました。そのひとつが狗奴国との戦いにおける戦死説です。

240年代半ば、邪馬台国は狗奴国(くなこく)と争っており、卑弥呼は魏に支援を要請し、それを受けた魏から張政という使者が派遣されてきました。「魏志倭人伝」ではこうした記録のあとで、突に「卑弥呼以死」としています。

戦争関連の記事のあとすぐに卑弥呼の死が書かれていることから、狗奴国との戦況が悪化し、その戦いの中で卑弥呼も戦死したと考えられたのです。または、邪馬台国が狗奴国との戦いに敗れて卑弥呼は狗奴国に殺されたという説もあります。

狗奴国との戦いの結末については、どちらの勝利だったのか、和睦したのかなど様々な説があり、明らかになっていません。ただし卑弥呼の死後、彼女のために大きな墓が建てられていることを考えると、大敗して女王が敵国に殺されたと考えるよりは、戦いのさなかに戦陣に倒れた可能性のほうが高いといえます。

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