卑弥呼の死因は戦死?暗殺?有力説や墓、その後の邪馬台国についても紹介

3.暗殺・謀殺説

戦争の責任を取らされた?

卑弥呼の霊力が衰えた?
出典:Wikipedia

卑弥呼は国内の人々に殺害されたという説もあります。狗奴国との戦争に勝てず長期化した責任を取らされて、殺されたというのです。宗教的権威で国を治めていた当時、天候不良や敗戦は神の声を聞き間違えた王の責任と考えられました。そして中国などでは霊力を失った王は処分されることもあったようです。

じつは魏から派遣された使者は、「王である卑弥呼を殺害したい」という日本側の要望を認めるために来日したともいわれています。その証として、正始元年に魏使から遣わされた詔書は「倭王」宛だったものが、正始8年には「難升米(なしめ)」(魏への使者を務めたことのある卑弥呼の家臣)宛になっていることをあげる専門家もいます。これはすでに卑弥呼を女王とみなしていなかったためともいえるでしょう。

ただし、失政をおかした王が殺害される風習が当時の日本に存在したのかどうか不明です。また、魏からの宛先が難升米だったのは、すでに卑弥呼が老衰などで亡くなっていたからとする説もあり、暗殺説は憶測の域をでません。

日食が原因だったという説も

247年ごろに日食が起きた?
出典:Wikipedia

卑弥呼の死因を日食と結びつける専門家もいます。現代の調査で、日本では247年に九州で、248年に大和で日食が起きていたことが分かっています。

当時の人々は、太陽が隠れてしまう日食を天変地異として恐れたことでしょう。狗奴国との戦局悪化や2年続けて起きた天変地異に対して、人々が鬼道(呪力)で国を治めていた卑弥呼の霊力が弱まったと考えても不思議ではありません。そして卑弥呼を生けにえに差し出すことで、太陽を呼び戻したいと考えたのではないかと言われています。

ただし、邪馬台国の所在地が判明していない以上、邪馬台国において本当に日食を見ることができたのかという疑問もあります。場所によっては部分日食、あるいはほとんど見えなかったともいわれており、日食と卑弥呼の死因の関連性についてはわかっていません。

4.【異説】箸が原因で死んだ?

日本側の史料には、邪馬台国と卑弥呼の存在を示すものがほとんどないため、日本の歴史の中に卑弥呼に比定される人物がいるのではないかと、何人もの候補者が挙げられてきました。

そのひとりが7代孝霊天皇の皇女で、「日本書紀」10代崇神天皇の時代に登場するヤマトトトヒモモソヒメです。彼女は数々の予言を行なうなど巫女的な存在で、奈良県桜井市にある箸墓古墳に埋葬されたとされています。

じつはこの墓が卑弥呼の墓ではないかと目され、卑弥呼=ヤマトトトヒモモソヒメとする説があります。

大物主神は三輪山の神とされる
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そんなヒメの死因はじつはかなり変わったものでした。彼女が夫の大物主神(おおものぬしのかみ)の神体である蛇の姿を見て驚いたため、大物主神は恥をかかされたと去ってしまいます。ヒメは悔いて腰を落としたひょうしに箸が陰部に刺さって死んでしまいました。

これはあくまでも伝承ですが、万が一卑弥呼の正体がこのヒメであったならば、その原因は箸になりますよね。

卑弥呼の墓

箸墓古墳

卑弥呼の墓という説もある箸墓古墳
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卑弥呼の墓については「魏志倭人伝」に、「大いにつかをつくる。径百余歩なり。殉葬する者、奴婢百余りなり」とあり、150メートルにも及ぶ大規模な墓を作り、100人余りの男女が卑弥呼とともに葬られたことが記されています。

卑弥呼は60年余りも国をよく治めた偉大な女王でした。戦死や老衰で亡くなったのであれば、その死をいたんで大きな墓を作ったでしょう。また、国内の人々が卑弥呼を暗殺した場合においても、偉大な卑弥呼の功績に対して一定の敬意をはらって墓を築造したと思われます。

この大きな墓がある場所については、邪馬台国の所在地ともかかわる問題のため、昔からさまざまな説が唱えられてきました。

この墓の候補のひとつが、奈良県桜井市にある巨大な箸墓古墳(はしはかこふん)です。卑弥呼の墓と推測される理由は、卑弥呼に比定されるヤマトトトヒモモソヒメが葬られていること、巨大な古墳であること、卑弥呼の時代と墓の築造年代が近いことなどがその理由です。

それ以外の墓の候補

卑弥呼の墓の候補ともされる平原遺跡
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ただし卑弥呼の墓は円墳と推測されるため、前方後円墳の箸墓古墳ではないという反論もあります。

また、これはあくまでも邪馬台国が大和にあったという前提に立ったもので、邪馬台国が九州に存在した場合、箸墓古墳が卑弥呼の墓ではありえません。

九州説では福岡県の祇園山古墳や石塚山古墳、平原王墓などが卑弥呼の墓の候補地にあげられていますが、いずれも確定にはいたっていないのが実情です。

邪馬台国のその後

邪馬台国は魏に朝貢していた
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「魏志倭人伝」には卑弥呼の死んだ後の邪馬台国についても記されています。それによれば、男の王が立ちましたが、内乱が起こり、1000人もの死者を出します。そこで卑弥呼の一族の台与を女王にしたところ、内乱が収束し平和を取り戻しました。

この台与も魏に使者を送り、卑弥呼の親魏倭王の称号を受け継ぐことを認められます。そして266年に魏の次の王朝、晋王朝にも女王が使者を送ったことが「晋書」に記されています。しかしこれを最後に中国の史書から邪馬台国および台与と思える記述が姿を消しました。

邪馬台国がヤマト朝廷につながったのか、全く別物なのかそのあたりについてはいまだ謎のままで、今後の解明が待たれています。

卑弥呼の死因に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?卑弥呼の死因について諸説紹介しました。卑弥呼の死因については老衰説、戦死説、暗殺説など諸説ありますが、いまだ確定には至っていません。

卑弥呼は生涯を全うして死んだのでしょうか。それとも呪力で国を治めていただけに、その霊力が衰えると用済みとして断罪されたのでしょうか。もしそうだとすれば恐ろしいですよね。

卑弥呼の死因を巡ってこれだけいくつもの説があるのは、卑弥呼の生涯がベールに包まれているからでしょう。今後、発掘が進んで新たな事実が明らかになれば卑弥呼の死因についてもはっきりしたことが分かるかもしれません。この記事をきっかけに、卑弥呼や邪馬台国についてより興味を持ってもらえれば幸いです。

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