豊臣秀吉はどんな性格?歴史的背景をもとに性格が変貌した理由も交えて解説

豊臣秀吉はどんな性格?」
「秀吉と信長、家康それぞれの性格の違いって何?」

豊臣秀吉は、「明るい」や「人たらし」といった性格のイメージが強いです。しかし歴史的背景や有名な俳句「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」からも性格が垣間見えるのです。

豊臣秀吉の肖像画
出典:Wikipedia

貧しい家に生まれ、天下人にまでのし上がった日本史上最大の出世頭 豊臣秀吉は一体どのような性格だったのか疑問のはず。

そこでこの記事では、豊臣秀吉の性格、その性格に至った経緯、ホトトギスの詩なども交えて、わかりやすく解説していきます。また、豊臣秀吉との関係が深い、織田信長や徳川家康との性格の違いも紹介。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

豊臣秀吉はどんな性格だったのか?

豊臣秀吉の生誕地に建つ石碑
出典:Wikipedia

豊臣秀吉の性格を最も象徴する言葉が「人たらし」です。秀吉は、人の心を見抜いたり、人に注目されたりする人心掌握術に長けた性格でした。人がやりたがらない仕事を進んで引き受けたり、人に対して物腰柔らかに接したり、時には盛大にお金を使って人々の心を掴み出世していったのです。

その他にも「度量の大きさ」や「女性が好き」といった側面も持っていました。また、天下統一を成し遂げた後には、「暴君のような恐ろしい一面」を見せたことでも知られています。

これら秀吉の性格が表れているエピソードを順に見ていきましょう。

人たらしな性格がわかるエピソード

金ヶ崎の戦いで織田軍を裏切った浅井長政
出典:Wikipedia

まずは、秀吉の性格を最も象徴する「人たらし」な側面をご紹介します。前述の通り秀吉は、人の心を見抜いたり、人に注目されたりする人心掌握術に長けていました。人の心を掴むのが上手だったからこそ、大出世が成し遂げられたのです。

例えば、元亀元年(1570年)金ヶ崎の戦いでは、同盟者の浅井長政に裏切られ危機に陥った際、主君の織田信長を逃がす為、部隊の最後尾で追撃してくる敵と戦いました。こうして織田信長は無事、領国に帰還できたのです。

賤ケ岳の戦いを描いたもの
出典:Wikipedia

この他、賤ヶ岳の戦いでは、敵味方問わず猛暑の中で負傷した兵たちに笠を被せ、暑さを和らげてあげたと言います。小牧長久手の戦い(蟹江城合戦)では、秀吉の水軍を率いていた九鬼嘉隆(くきよしたか)が敗北。嘉隆が命からがら帰還した際に、秀吉は敗北を責めず、無事に生還できたことを喜びました。また、新たに傘下となった大名の警戒心を説くため、盛大な接待でもてなすなどの心遣いも得意だったと伝わっています。

上記ように、秀吉は人の心を掴む行動が自然とできる「人たらし」な性格だったのです。

度量の大きい性格がわかるエピソード

秀吉に屈服した長宗我部元親
出典:Wikipedia

秀吉は度量の大きい人物としても知られていました。その性格が最もよく表れているのが、敵だった者への対応です。

天正10年(1582年)本能寺の変で信長が倒れた後、秀吉がその覇業を受け継ぎ、各地の有力大名たちを傘下に組み込んでいき、その度量の大きさを見せました。素直に降伏してきた敵に対しては、自らの配下に組み入れていき、敵の当主を処刑したり、全ての領地を没収したりといった厳罰は課さなかったのです。

また、降伏した敵の当主 島津義久や伊達政宗らと二人きりになり、刀を与えるなどの粋な計らいも見せました。ついこの前まで敵だった者に対しても、真正面から向き合ってくれる秀吉の度量は、彼らの心をかっちりと掴んだことでしょう。このエピソードには、人たらしな性格も表れていますね。

切腹を命じられた北条氏政
出典:Wikipedia

なお関東の北条氏のみは、秀吉の要求に対し対応が後手後手だったため、追放や切腹などの厳しい処罰を受けています。こういった厳しい一面も持っていましたが、多くの場合は敵だった者を味方として受け入れる度量の大きさで、天下統一を成し遂げたのです。

女性好きな性格がわかるエピソード

秀吉の正室 ねねの肖像画
出典:Wikipedia

秀吉は「女性が大好き」で女癖の悪さでも有名な性格でした。秀吉の正室である「ねね(おね)」は、秀吉の浮気性に悩まされていたと言います。

秀吉には側室が十数名いたとされ、しかも身分の高い女性を好んで選りすぐっていました。また、50歳を超えても秀吉の女性好きは留まるところを知らず、各地の城にお気に入りの女性を置いておくなどしていたようです。

長崎にあるルイス・フロイス記念碑
出典:Wikipedia

これに対し、当時来日していた宣教師のルイス・フロイスに「極悪の欲情」を持った男とまで言われています。ただし、この発言の裏には、宗教的な価値観の違いや、秀吉が布教を禁じてした歴史があるため(バテレン追放令)、その辺を差し引いて捉える必要はありますが、秀吉が多くの女性に囲まれていたのは事実なのでしょう。

上記ように、秀吉は女性好きな性格だったのです。

1 2

コメントを残す