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豊臣秀吉はどんな性格?歴史的背景をもとに性格が変貌した理由も交えて解説

豊臣秀吉はどんな性格?」
「秀吉と信長、家康それぞれの性格の違いって何?」

豊臣秀吉は、「明るい」や「人たらし」といった性格のイメージが強いです。しかし歴史的背景や有名な俳句「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」からも性格が垣間見えるのです。

豊臣秀吉の肖像画
出典:Wikipedia

貧しい家に生まれ、天下人にまでのし上がった日本史上最大の出世頭 豊臣秀吉は一体どのような性格だったのか疑問のはず。

そこでこの記事では、豊臣秀吉の性格、その性格に至った経緯、ホトトギスの詩なども交えて、わかりやすく解説していきます。また、豊臣秀吉との関係が深い、織田信長や徳川家康との性格の違いも紹介。

豊臣秀吉はどんな性格だったのか?

豊臣秀吉の生誕地に建つ石碑
出典:Wikipedia

豊臣秀吉の性格を最も象徴する言葉が「人たらし」です。秀吉は、人の心を見抜いたり、人に注目されたりする人心掌握術に長けた性格でした。人がやりたがらない仕事を進んで引き受けたり、人に対して物腰柔らかに接したり、時には盛大にお金を使って人々の心を掴み出世していったのです。

その他にも「度量の大きさ」や「女性が好き」といった側面も持っていました。また、天下統一を成し遂げた後には、「暴君のような恐ろしい一面」を見せたことでも知られています。

これら秀吉の性格が表れているエピソードを順に見ていきましょう。

人たらしな性格がわかるエピソード

金ヶ崎の戦いで織田軍を裏切った浅井長政
出典:Wikipedia

まずは、秀吉の性格を最も象徴する「人たらし」な側面をご紹介します。前述の通り秀吉は、人の心を見抜いたり、人に注目されたりする人心掌握術に長けていました。人の心を掴むのが上手だったからこそ、大出世が成し遂げられたのです。

例えば、元亀元年(1570年)金ヶ崎の戦いでは、同盟者の浅井長政に裏切られ危機に陥った際、主君の織田信長を逃がす為、部隊の最後尾で追撃してくる敵と戦いました。こうして織田信長は無事、領国に帰還できたのです。

賤ケ岳の戦いを描いたもの
出典:Wikipedia

この他、賤ヶ岳の戦いでは、敵味方問わず猛暑の中で負傷した兵たちに笠を被せ、暑さを和らげてあげたと言います。小牧長久手の戦い(蟹江城合戦)では、秀吉の水軍を率いていた九鬼嘉隆(くきよしたか)が敗北。嘉隆が命からがら帰還した際に、秀吉は敗北を責めず、無事に生還できたことを喜びました。また、新たに傘下となった大名の警戒心を説くため、盛大な接待でもてなすなどの心遣いも得意だったと伝わっています。

上記ように、秀吉は人の心を掴む行動が自然とできる「人たらし」な性格だったのです。

度量の大きい性格がわかるエピソード

秀吉に屈服した長宗我部元親
出典:Wikipedia

秀吉は度量の大きい人物としても知られていました。その性格が最もよく表れているのが、敵だった者への対応です。

天正10年(1582年)本能寺の変で信長が倒れた後、秀吉がその覇業を受け継ぎ、各地の有力大名たちを傘下に組み込んでいき、その度量の大きさを見せました。素直に降伏してきた敵に対しては、自らの配下に組み入れていき、敵の当主を処刑したり、全ての領地を没収したりといった厳罰は課さなかったのです。

また、降伏した敵の当主 島津義久や伊達政宗らと二人きりになり、刀を与えるなどの粋な計らいも見せました。ついこの前まで敵だった者に対しても、真正面から向き合ってくれる秀吉の度量は、彼らの心をかっちりと掴んだことでしょう。このエピソードには、人たらしな性格も表れていますね。

切腹を命じられた北条氏政
出典:Wikipedia

なお関東の北条氏のみは、秀吉の要求に対し対応が後手後手だったため、追放や切腹などの厳しい処罰を受けています。こういった厳しい一面も持っていましたが、多くの場合は敵だった者を味方として受け入れる度量の大きさで、天下統一を成し遂げたのです。

女性好きな性格がわかるエピソード

秀吉の正室 ねねの肖像画
出典:Wikipedia

秀吉は「女性が大好き」で女癖の悪さでも有名な性格でした。秀吉の正室である「ねね(おね)」は、秀吉の浮気性に悩まされていたと言います。

秀吉には側室が十数名いたとされ、しかも身分の高い女性を好んで選りすぐっていました。また、50歳を超えても秀吉の女性好きは留まるところを知らず、各地の城にお気に入りの女性を置いておくなどしていたようです。

長崎にあるルイス・フロイス記念碑
出典:Wikipedia

これに対し、当時来日していた宣教師のルイス・フロイスに「極悪の欲情」を持った男とまで言われています。ただし、この発言の裏には、宗教的な価値観の違いや、秀吉が布教を禁じてした歴史があるため(バテレン追放令)、その辺を差し引いて捉える必要はありますが、秀吉が多くの女性に囲まれていたのは事実なのでしょう。

上記ように、秀吉は女性好きな性格だったのです。

天下統一後は恐ろしい性格に変わってしまった豊臣秀吉

関白になった秀吉が築造した政庁兼邸宅「聚楽第」(じゅらくてい/じゅらくだい)
出典:Wikipedia

秀吉の性格は、天下統一後の晩年に大きく変化したことでも知られています。これまでの人たらしで度量の大きかった秀吉とは打って変わって、自分の意に沿わない人物を切腹させたり、外国へも軍を差し向けるなど残忍で暴君のような性格になってしまったのです。

なぜこんなにも性格が変わってしまったのかは、秀吉の大きな謎であり様々な憶測が飛び交っています。以下より晩年の秀吉の恐ろしい側面を見て行きましょう。

千利休を切腹に追い込んだ残忍な性格

千利休の肖像画
出典:Wikipedia

秀吉の恐ろしさが顕著なエピソードのひとつが千利休を切腹させた事件です。茶の湯の達人として有名な千利休。戦国武将の弟子も多く、政治的にも大きな影響力を持っていました。そんな利休は天正19年(1591年)、豊臣秀吉から突然切腹を命じられたうえ、晒し首となりました。なぜこのような事態になったのか、はっきりした理由はわかっていませんが、なにかしらの理由で秀吉の怒りをかってしまったと考えられています。

千利休の屋敷跡
出典:Wikipedia

茶人の頂点に君臨し、戦国武将たちにも大きな影響力を持っていた利休を切腹させたのは、かなりの暴挙であり、秀吉の残忍な性格が見えた大事件と言えるでしょう。

後継者の一族を粛清した暴君のような性格

豊臣秀次の肖像画
出典:Wikipedia

さらに秀吉の恐ろしさがわかるエピソードしてよく挙がるのが、豊臣秀次一族の粛清事件です。秀吉には実子が無かった為、甥っ子の秀次が後継者とされていました。しかし、側室の淀殿が子を産んだため、秀次は強制的に出家させられた後に切腹を命じられ晒し首となりました。さらには、秀次一族も粛清されるほどの凄惨な事件だったと伝わります。

粛清された秀次一族の法名を記した名簿
出典:Wikipedia

この事件の原因は、秀次に何かしらの悪行があったからと言われている他、多くの説が提唱されていますが詳細はわかっていません。また、秀吉に実子が生まれたために、後継者に指名していた秀次が邪魔になったとも考えられます。変貌した秀吉の暴君らしさが出ている事件ではないでしょうか。

明へ攻め込もうとした独裁的な性格

文禄の役を描いたもの
出典:Wikipedia

晩年の秀吉の暴挙として名高いのが文禄・慶長の役です。秀吉は明(みん)を征服するため海を渡って軍を派遣、その道中の朝鮮半島で明に味方した朝鮮と戦いになりました(文禄・慶長の役)。海を越えての戦いには大きな反発もあったと言います。

なぜ秀吉がこのような行為に及んだのかに関しても、様々な説が錯綜していますが、他国に攻め込んだこと自体は、性格が変わってしまった秀吉を象徴する出来事と言えるでしょう。

文禄・慶長の役時の明の皇帝「万暦帝(ばんれきてい)」
出典:Wikipedia

なお、かつては征服欲に眩んだ秀吉の暴挙といった説も根強かったですが、昨今ではその見方が修正されつつあり、一概に秀吉の暴挙とも言えない可能性も出てきています。

ホトトギスの詩からわかる秀吉、信長、家康の性格の違い

ホトトギス
出典:Wikipedia

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康それぞれの性格を表現したホトトギスの詩は有名です。秀吉は「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」と詠われています。この詩からわかる秀吉の性格と、信長と家康の性格も合わせて確認していきましょう。

「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」と詠われた秀吉の性格

豊臣秀吉の墓
出典:Wikipedia

秀吉は「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」です。貧しい身分の家に生まれ、天下人にまで上り詰めた秀吉は、難しい局面でもそれを打開するための行動力を持っていたからこそ、このような大出世を実現できたのでしょう。この不可能を可能した行動力ある性格が「鳴かぬなら鳴かせてみせよう」に表されています。

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」と詠われた信長の性格

宣教師によって描かれたとされる織田信長の肖像画
出典:Wikipedia

一方、織田信長は「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」と詠われています。信長の性格に関しては様々な意見がありますが、裏切り者や部下に対しての容赦ない姿勢や、比叡山延暦寺を焼き払い老若男女問わず皆殺しにした逸話などから、独裁的で残忍な性格とされる場合が多いです。その冷酷な性格を「殺してしまえ」と端的に表現しているのでしょう。

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」と詠われた家康の性格

徳川家康の肖像画
出典:Wikipedia

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」と詠われた徳川家康。幼少期を人質として過ごし、成人してからも織田信長や豊臣秀吉の傘下に組み込まれ、耐え忍ぶ日々を過ごしていました。そして、信長や秀吉亡き後に、好機を逃さず関ヶ原の戦いに勝利し、日本を天下太平の世へと導きました。この辛抱強さが「鳴くまで待とう」と詠われた理由です。

豊臣秀吉の性格に関するまとめ

壮年期には持ち前の人心掌握術で、出世街道をばく進していった豊臣秀吉。しかし、天下を統一して以降は、権力を振りかざす暴君に変わってしまいました。なぜ秀吉の性格が変わってしまったのかについては様々な憶測が飛び交っており、今も定説はありません。

しかし、人の性格とは必ずしも一定で無いのは現代も同じです。その時々の状況、接する人々などによって人の考えや性格は変わります。また、人の性格は一側面では語れませんし、年月が経てば変化する場合もあります。そういった意味では、信長の家臣だった頃と天下人になってからでは、性格に大きな変化があったとしても不思議ではないのかもしれませんね。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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