天下統一後は恐ろしい性格に変わってしまった豊臣秀吉
秀吉の性格は、天下統一後の晩年に大きく変化したことでも知られています。これまでの人たらしで度量の大きかった秀吉とは打って変わって、自分の意に沿わない人物を切腹させたり、外国へも軍を差し向けるなど残忍で暴君のような性格になってしまったのです。
なぜこんなにも性格が変わってしまったのかは、秀吉の大きな謎であり様々な憶測が飛び交っています。以下より晩年の秀吉の恐ろしい側面を見て行きましょう。
千利休を切腹に追い込んだ残忍な性格
秀吉の恐ろしさが顕著なエピソードのひとつが千利休を切腹させた事件です。茶の湯の達人として有名な千利休。戦国武将の弟子も多く、政治的にも大きな影響力を持っていました。そんな利休は天正19年(1591年)、豊臣秀吉から突然切腹を命じられたうえ、晒し首となりました。なぜこのような事態になったのか、はっきりした理由はわかっていませんが、なにかしらの理由で秀吉の怒りをかってしまったと考えられています。
茶人の頂点に君臨し、戦国武将たちにも大きな影響力を持っていた利休を切腹させたのは、かなりの暴挙であり、秀吉の残忍な性格が見えた大事件と言えるでしょう。
後継者の一族を粛清した暴君のような性格
さらに秀吉の恐ろしさがわかるエピソードしてよく挙がるのが、豊臣秀次一族の粛清事件です。秀吉には実子が無かった為、甥っ子の秀次が後継者とされていました。しかし、側室の淀殿が子を産んだため、秀次は強制的に出家させられた後に切腹を命じられ晒し首となりました。さらには、秀次一族も粛清されるほどの凄惨な事件だったと伝わります。
この事件の原因は、秀次に何かしらの悪行があったからと言われている他、多くの説が提唱されていますが詳細はわかっていません。また、秀吉に実子が生まれたために、後継者に指名していた秀次が邪魔になったとも考えられます。変貌した秀吉の暴君らしさが出ている事件ではないでしょうか。
明へ攻め込もうとした独裁的な性格
晩年の秀吉の暴挙として名高いのが文禄・慶長の役です。秀吉は明(みん)を征服するため海を渡って軍を派遣、その道中の朝鮮半島で明に味方した朝鮮と戦いになりました(文禄・慶長の役)。海を越えての戦いには大きな反発もあったと言います。
なぜ秀吉がこのような行為に及んだのかに関しても、様々な説が錯綜していますが、他国に攻め込んだこと自体は、性格が変わってしまった秀吉を象徴する出来事と言えるでしょう。
なお、かつては征服欲に眩んだ秀吉の暴挙といった説も根強かったですが、昨今ではその見方が修正されつつあり、一概に秀吉の暴挙とも言えない可能性も出てきています。
ホトトギスの詩からわかる秀吉、信長、家康の性格の違い
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康それぞれの性格を表現したホトトギスの詩は有名です。秀吉は「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」と詠われています。この詩からわかる秀吉の性格と、信長と家康の性格も合わせて確認していきましょう。
「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」と詠われた秀吉の性格
秀吉は「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」です。貧しい身分の家に生まれ、天下人にまで上り詰めた秀吉は、難しい局面でもそれを打開するための行動力を持っていたからこそ、このような大出世を実現できたのでしょう。この不可能を可能した行動力ある性格が「鳴かぬなら鳴かせてみせよう」に表されています。
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」と詠われた信長の性格
一方、織田信長は「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」と詠われています。信長の性格に関しては様々な意見がありますが、裏切り者や部下に対しての容赦ない姿勢や、比叡山延暦寺を焼き払い老若男女問わず皆殺しにした逸話などから、独裁的で残忍な性格とされる場合が多いです。その冷酷な性格を「殺してしまえ」と端的に表現しているのでしょう。
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」と詠われた家康の性格
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」と詠われた徳川家康。幼少期を人質として過ごし、成人してからも織田信長や豊臣秀吉の傘下に組み込まれ、耐え忍ぶ日々を過ごしていました。そして、信長や秀吉亡き後に、好機を逃さず関ヶ原の戦いに勝利し、日本を天下太平の世へと導きました。この辛抱強さが「鳴くまで待とう」と詠われた理由です。
豊臣秀吉の性格に関するまとめ
壮年期には持ち前の人心掌握術で、出世街道をばく進していった豊臣秀吉。しかし、天下を統一して以降は、権力を振りかざす暴君に変わってしまいました。なぜ秀吉の性格が変わってしまったのかについては様々な憶測が飛び交っており、今も定説はありません。
しかし、人の性格とは必ずしも一定で無いのは現代も同じです。その時々の状況、接する人々などによって人の考えや性格は変わります。また、人の性格は一側面では語れませんし、年月が経てば変化する場合もあります。そういった意味では、信長の家臣だった頃と天下人になってからでは、性格に大きな変化があったとしても不思議ではないのかもしれませんね。最後まで読んでいただきありがとうございました。
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