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石田三成に子供・子孫はいる?現在活躍している有名人も家系図付きで紹介

石田三成に子孫っているの?」
「子孫がどの地域にいたのか知りたい!」
「現代で活躍する石田三成の子孫って誰?」

石田三成は、豊臣秀吉を長年傍から支えた人物です。秀吉の死後には天下をかけ徳川家康と争うものの、敗れ処刑されました。有名な「天下分け目の戦い」ですね。

石田三成
出典:Wikipedia

歴史上でも有名な石田三成の最期ですが、気になるのは子孫の存在。石田三成が処刑されこの世を去った後、子孫がどうなったのか、その行方が知りたい方も多いのではないでしょうか?また、石田三成の血を引き現代でも活躍する子孫がいるのか気になっている方もいるはず。

そこで今回は、石田三成の子孫についてご紹介。子供の詳細はもちろん、所在や現代で活躍している子孫も紹介します。

石田三成の子孫がどのような生涯を送ったのか、その行方に迫っていきましょう。それでは参ります。

石田三成に子孫はいるのか

石田三成家系図

結論から伝えると、石田三成の子孫は、存在しており、現在も活躍しています。関ヶ原の戦い後、三成は処刑されました。

しかし、子供たちは出家していたり、他家に匿われたり、すでに他家に嫁いでいたことによって3男3女全員が生き延びていました。

下記からは関ヶ原の戦い後、三成の子供たちがどのようにして生き延びたのか見ていきましょう。

石田三成の6人の子供を紹介

長男:石田重家

石田重家を可愛がった徳川家康
出典:Wikipedia

石田三成の長男・石田重家は天正11年(1583)ごろ、生まれたとされています。慶長4年(1599)に三成が加藤清正や福島正則など7人の武将に襲撃され、五奉行の座を退くと、重家は父に代わって豊臣秀頼に奉仕。また、意外なことに徳川家康に可愛がられていました。

重家は関ヶ原の戦い時、秀頼のいる大坂城にいました。そして、三成が敗北すると、京都にある妙心寺で出家。名前を済院宗享と改めました。

重家は妙心寺の住職・伯蒲慧稜(はくほえりょう)が幕府に助命嘆願した尽力とまだ10代だったことから、処刑されませんでした。その後、妙心寺内の寿聖院を受け継ぎ、貞享3年(1686)に104歳で亡くなりました。

次男:石田重成

石田重成の主君・豊臣秀頼
出典:Wikipedia

石田重成は石田三成の次男で、豊臣秀頼の小姓を務めていました。関ヶ原の戦い後、大坂城にいた重成は同じ小姓の津軽信健に匿われ、津軽地方(現在の青森県西部)へ落ち延びます。

重成はその地で杉山源吾と名前を変え、津軽家に手厚く保護されました。

死亡年に関しては諸説あり、慶長15年(1610)に若死にしたとも、寛永18年(1641)に53歳で亡くなったともいわれています。

三男:石田佐吉

石田佐吉の祖父で三成の父・石田正継
出典:Wikipedia

関ヶ原の戦い時、石田三成の三男・石田佐吉は兄たちとは違い佐和山城にいました。佐和山城にいた西軍は東軍の包囲に耐えきれず、開城交渉を行います。

その最中、援軍の裏切りにより東軍が攻めてきてしまい、佐吉の祖父で三成の父・石田正継と三成の兄・石田正澄は自害を余儀なくされました。

この事態に怒った正澄の家臣・津田清幽(つだ-きよふか)は徳川家康に直談判。出家を条件に佐吉の命を救いました。

その後、木食応其(もくじきおうご)のもとで仏門に入り、佐吉は命の恩人・津田清幽にあやかって名前を深覚坊清幽(しんかくぼうせいゆう)としました。

長女:山田勝重の妻

山田勝重の主君となった松平忠輝
出典:Wikipedia

石田三成の長女は、関ヶ原の戦いの前に三成の家臣・山田勝重に嫁いでいました。

関ヶ原の戦いの敗北で石田家が衰退すると、勝重は徳川家康の側室・茶阿局の甥だったので、茶阿局が生んだ松平忠輝(家康の6男)に仕えます。

しかし、忠輝が慶長20年(1615)の大坂の陣での失態で改易される(諸説あり)と、勝重は妻の妹・辰姫を頼り150石の領地をもらいました。

次女:小石殿

小石殿は会津、若狭と住む場所を転々としました。

小石殿は石田三成の次女で、長女同様に関ヶ原の戦いの前には蒲生家家臣・岡重政のもとにいました。関ヶ原の戦い後は、重政と蒲生家の新しい領地会津(現在の福島県)に移り住みます。

そして、重政が蒲生家中の対立に巻き込まれ切腹をすると、小石殿は会津を離れ若狭(現在の福井県)に身を置き、亡くなりました。

小石殿は自身の子・岡吉右衛門を若狭へ連れて行かず、重政の補佐役だった町野幸和に託します。吉右衛門は幸和の娘・於多阿(おたあ)と結婚し、江戸で暮らしました。

三女:辰姫

辰姫の夫・津軽信牧
出典:Wikipedia

石田三成の三女・辰姫は天正20年(1592)に生まれ、慶長3年(1598)には豊臣秀吉の正室、高台院の養女となっていました。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで三成が敗北すると、津軽信健によって次男・重成と津軽へ逃れます。

辰姫は慶長15年(1610)に弘前藩2代藩主の津軽信牧(つがる-のぶひら)の正室となりました。2人の仲は良好でしたが、慶長18年(1613)に徳川家康は自身の養女・満天姫(まてひめ)を信牧に嫁がせます。

津軽信牧の正室となった満天姫
出典:Wikipedia

信牧は家康にはばかって、満天姫を正室に、辰姫を側室にしました。また、辰姫は飛び地だった上野国大舘(現在の群馬県)に移され、その地に住んだことから大舘御前とも呼ばれています。

辰姫のことを忘れられなかった信牧は、参勤交代の時には必ず辰姫のもとへ訪れました。そして、元和5年(1619)に津軽信義を産むと、4年後の元和9年(1623)に32歳で亡くなりました。

石田三成の子孫はどの地方にいたのか

石田三成の子供たちが生きていたことにより、三成の血は脈々と受け継がれていきました。ここからは、三成の子孫たちがどの地方にいたのか、人物と地方で見ていきましょう。

もしかしたら、知っている人物もいるかもしれません。

津軽信義:弘前地方(現在の青森県)

暗君と呼ばれていた津軽信義
出典:Wikipedia

津軽信義は先ほど紹介した辰姫の子で石田三成の孫にあたります。元和5年(1619)に辰姫が亡くなると、江戸の弘前藩邸に引き取られました。

辰姫が側室でしたので、本来信義は家督相続できない身ですが、父・津軽信牧の熱意により家督を相続。寛永8年(1631)に弘前藩3代目藩主となりました。

しかし、まだ13歳だった信義に対して不満を持つ者が後を絶たず、寛永11年(1634)には船橋騒動と呼ばれるお家騒動に発展しました。

さらに、正保4年(1647)には、信義を強制隠居させ、信義の異母弟・津軽信英(つがる-のぶふさ)を新藩主にする未遂のクーデターが起きました。

津軽信英の性格や学問に秀でた点は、幕府や大名間でも良い評判を受けていました。
出典:Wikipedia

幾度となく家中の対立を招いた信義ですが、新田の開発や牧場の開拓などの功績を残しています。

また、信義は祖父・三成の頑固だった性格を引き継いでか、非常に頑固な性格で家臣たちから、じょっぱり(津軽弁で頑固者)殿様と呼ばれていました。

杉山吉成:弘前地方(現在の青森県)

杉山吉成が率いた早道之者は実在した忍者集団です。

杉山吉成は石田三成の孫で、杉山源吾と名前を変えた石田重成の長男です。

慶長10年(1615)ごろに生まれた吉成は、津軽信牧の娘をめとったことで津軽家の家老職に任命されました。

寛文9年(1669)に起きたシャクシャインの戦いに吉成は、江戸幕府の要請で弘前藩侍大将として兵を率いて蝦夷地で戦い、その功績により幕府から恩賞をもらいました。これにより、杉山家は津軽家の重臣として家老職を代々引き継ぎます。

さらに、吉成は情報収集のために忍者集団・早道之者を結成しました。以後、杉山家は早道之者を率いて蝦夷地の調査や監視も担いました。

徳川宗春:尾張地方(現在の愛知県)

徳川宗春は社会的な弱者を大切にしたそうです。
出典:Wikipedia

石田三成の血は次女・小石殿によって尾張徳川家にも入っていました。小石殿の子・岡吉右衛門は於多阿と結婚し、三成のひ孫にあたるお振りの方を生みます。

また、小石殿の義母が春日局の補佐役を務めていた縁で、お振りの方は春日局の養女となりました。やがて、お振りの方は徳川家光との間に三成の玄孫にあたる千代姫を生みます。

千代姫は尾張藩2代目藩主・徳川光友の正室となり、尾張徳川家に関わっていきました。しかし、尾張藩7代目藩主・徳川宗春が当時の将軍・徳川吉宗と対立したことで、失脚。

原因としては、江戸幕府が質素倹約を全国に命令していたのに対し、遊郭や芝居などの贅沢したことによる尾張藩の財政難が端を発しています。

宗春は三成の子孫としての最後の尾張藩藩主となりました。

現在も活躍する石田三成の子孫たち

石田秀雄

石田秀雄
出典:NEWSポストセブン

石田秀雄さんは石田三成の長男・石田重家の子孫です。重家は仏門に入る前に子を身ごもっていた妻がおり、徳川家康の次男・結城秀康のはからいで、越前(現在の福井県)にて出産しました。

石田直重と呼ばれた重家の子は、秀康が当主の越前松平家の分家・越後高田松平家の家臣となります。その後、越後高田松平家はお家騒動により美作国津山(現在の岡山県)に移りますが、直重は越後(現在の新潟県)に残りました。

そして越後の地で帰農し、庄屋となって今に至っています。また、三成は特徴である腹痛持ちは代々受け継がれていき、今では三成腹と石田家の間で呼ばれています。

澁谷理恵子

澁谷理恵子著の『石田三成の末裔として育った』
出典:アマゾン

澁谷恵理子さんは石田三成の側室との子の子孫という伝承がある澁谷家の一族の方です。澁谷家は乳母を頼って越後に落ち延び、商売を営んでいました。

幕末には庄屋となり、苗字帯刀を許され、澁谷姓を名乗りました。

澁谷恵理子さんは三成の子孫として『石田三成の末裔として育った』を発刊しています。

石川純一

石川純一
出典:福島民友新聞

石川純一さんは、石田三成の子孫・石田重友を初代とする一族の方です。重友は慶長19年(1619)の大坂夏の陣後、越後を経て会津へ落ち延びました。

その時、石田姓を名乗ることをはばかり、石川姓に改姓しました。

石川純一さんは福島県西会津町にある栄川酒造の社長を務めており、先祖の三成にあやかった日本酒「大吟醸 石田治部少輔三成」を出しています。

今上天皇

今上天皇
出典:Wikipedia

実は今上天皇も石田三成の子孫でした。

三成の玄孫・千代姫の孫にあたる徳川三千君は、公卿・九条幸教との間に二条宗基を生みます。

宗基から今上天皇の系譜は続いており、驚くことに三成の血は皇室にも入っていました。

石田三成の子孫に関するまとめ

石田三成の子孫についてご紹介しました。関ヶ原の戦いの後、石田三成の子供たちは全員が生きており、きちんと三成の血を現代まで残していることがわかったかと思います。

また、三成の子供たちを何とか生かそうとした、津軽家や結城家といった他家の働きもあったことが大きな要因でもあります。三成の義理堅い性格が功を奏し、多くの協力者の力を借りて三成の生き様や血脈は子孫たちに繋がっていきました。

この記事を通じて石田三成だけでなく、子孫たちの活躍についても興味を持っていただけたら幸いです。

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