石田三成の子孫はどの地方にいたのか
石田三成の子供たちが生きていたことにより、三成の血は脈々と受け継がれていきました。ここからは、三成の子孫たちがどの地方にいたのか、人物と地方で見ていきましょう。
もしかしたら、知っている人物もいるかもしれません。
津軽信義:弘前地方(現在の青森県)
津軽信義は先ほど紹介した辰姫の子で石田三成の孫にあたります。元和5年(1619)に辰姫が亡くなると、江戸の弘前藩邸に引き取られました。
辰姫が側室でしたので、本来信義は家督相続できない身ですが、父・津軽信牧の熱意により家督を相続。寛永8年(1631)に弘前藩3代目藩主となりました。
しかし、まだ13歳だった信義に対して不満を持つ者が後を絶たず、寛永11年(1634)には船橋騒動と呼ばれるお家騒動に発展しました。
さらに、正保4年(1647)には、信義を強制隠居させ、信義の異母弟・津軽信英(つがる-のぶふさ)を新藩主にする未遂のクーデターが起きました。
幾度となく家中の対立を招いた信義ですが、新田の開発や牧場の開拓などの功績を残しています。
また、信義は祖父・三成の頑固だった性格を引き継いでか、非常に頑固な性格で家臣たちから、じょっぱり(津軽弁で頑固者)殿様と呼ばれていました。
杉山吉成:弘前地方(現在の青森県)
杉山吉成は石田三成の孫で、杉山源吾と名前を変えた石田重成の長男です。
慶長10年(1615)ごろに生まれた吉成は、津軽信牧の娘をめとったことで津軽家の家老職に任命されました。
寛文9年(1669)に起きたシャクシャインの戦いに吉成は、江戸幕府の要請で弘前藩侍大将として兵を率いて蝦夷地で戦い、その功績により幕府から恩賞をもらいました。これにより、杉山家は津軽家の重臣として家老職を代々引き継ぎます。
さらに、吉成は情報収集のために忍者集団・早道之者を結成しました。以後、杉山家は早道之者を率いて蝦夷地の調査や監視も担いました。
徳川宗春:尾張地方(現在の愛知県)
石田三成の血は次女・小石殿によって尾張徳川家にも入っていました。小石殿の子・岡吉右衛門は於多阿と結婚し、三成のひ孫にあたるお振りの方を生みます。
また、小石殿の義母が春日局の補佐役を務めていた縁で、お振りの方は春日局の養女となりました。やがて、お振りの方は徳川家光との間に三成の玄孫にあたる千代姫を生みます。
千代姫は尾張藩2代目藩主・徳川光友の正室となり、尾張徳川家に関わっていきました。しかし、尾張藩7代目藩主・徳川宗春が当時の将軍・徳川吉宗と対立したことで、失脚。
原因としては、江戸幕府が質素倹約を全国に命令していたのに対し、遊郭や芝居などの贅沢したことによる尾張藩の財政難が端を発しています。
宗春は三成の子孫としての最後の尾張藩藩主となりました。
現在も活躍する石田三成の子孫たち
石田秀雄
石田秀雄さんは石田三成の長男・石田重家の子孫です。重家は仏門に入る前に子を身ごもっていた妻がおり、徳川家康の次男・結城秀康のはからいで、越前(現在の福井県)にて出産しました。
石田直重と呼ばれた重家の子は、秀康が当主の越前松平家の分家・越後高田松平家の家臣となります。その後、越後高田松平家はお家騒動により美作国津山(現在の岡山県)に移りますが、直重は越後(現在の新潟県)に残りました。
そして越後の地で帰農し、庄屋となって今に至っています。また、三成は特徴である腹痛持ちは代々受け継がれていき、今では三成腹と石田家の間で呼ばれています。
澁谷理恵子
澁谷恵理子さんは石田三成の側室との子の子孫という伝承がある澁谷家の一族の方です。澁谷家は乳母を頼って越後に落ち延び、商売を営んでいました。
幕末には庄屋となり、苗字帯刀を許され、澁谷姓を名乗りました。
澁谷恵理子さんは三成の子孫として『石田三成の末裔として育った』を発刊しています。
石川純一
石川純一さんは、石田三成の子孫・石田重友を初代とする一族の方です。重友は慶長19年(1619)の大坂夏の陣後、越後を経て会津へ落ち延びました。
その時、石田姓を名乗ることをはばかり、石川姓に改姓しました。
石川純一さんは福島県西会津町にある栄川酒造の社長を務めており、先祖の三成にあやかった日本酒「大吟醸 石田治部少輔三成」を出しています。
今上天皇
実は今上天皇も石田三成の子孫でした。
三成の玄孫・千代姫の孫にあたる徳川三千君は、公卿・九条幸教との間に二条宗基を生みます。
宗基から今上天皇の系譜は続いており、驚くことに三成の血は皇室にも入っていました。
石田三成の子孫に関するまとめ
石田三成の子孫についてご紹介しました。関ヶ原の戦いの後、石田三成の子供たちは全員が生きており、きちんと三成の血を現代まで残していることがわかったかと思います。
また、三成の子供たちを何とか生かそうとした、津軽家や結城家といった他家の働きもあったことが大きな要因でもあります。三成の義理堅い性格が功を奏し、多くの協力者の力を借りて三成の生き様や血脈は子孫たちに繋がっていきました。
この記事を通じて石田三成だけでなく、子孫たちの活躍についても興味を持っていただけたら幸いです。
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