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徳川慶喜の子孫はだれ?子供や孫、現在の子孫について家系図とともに紹介

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「徳川慶喜には子どもがいたの?」
「徳川慶喜の子孫は現在も生きているの?」
「徳川慶喜は明治維新の後、どんなふうに生活していたの?」

徳川慶喜は江戸幕府最後の将軍として、今でも人々の間に広く知られています。しかし、将軍を退いた後の生活については、注目されていませんでした。そして、現在慶喜の子孫がどうなっているのかも、あまり知られていません。そのため、上記のような疑問を抱えている人も多いかもしれません。

晩年は狩猟など趣味に生きた
徳川慶喜
出典:Wikipedia

徳川慶喜は明治時代に入ってからは、趣味に没頭する穏やかな人生を送ったようです。たくさんの子どもにも恵まれたため、さまざまな方面に子孫を残すことに成功しました。

そのため、徳川慶喜の血筋は現代まで継承されています。慶喜の子孫について知ってみると、歴史は決して切り離された過去のことではなく、それが積み重なって現代につながっていることがよく分かるに違いありません。

徳川慶喜の子孫はどんな人?

徳川慶喜・1866年頃の写真
出典:Wikipedia

徳川慶喜の子孫にはさまざまな人がいるため、一言では語れません。

息子たちはそれぞれ高い位につき、政界や実業界で活躍、娘たちも良家に嫁いでいます。しかし、時代が下り華族制度が廃止されると、孫たちはそれに伴う苦労も経験しています。そして現在、徳川慶喜の子孫からは、偉大な祖先を背負って現代を生きる苦労も感じられます。

徳川慶喜家を家系図で紹介

徳川慶喜が起こし、七男の慶久が跡を継いだ徳川慶喜家
出典:婦人公論.jp

徳川家は代々征夷大将軍を務めてきた家柄です。しかし、御三家や御三卿など、徳川を名乗っている家は他にもあります。

明治に入ってからも、徳川宗家の別家がいくつか生まれていますが、そのうちの1つが徳川慶喜家です。こちらの家系図は、2020年に慶喜のひ孫にあたる井手純と玄孫にあたる山岸美喜が雑誌社の企画で対談したときに、徳川慶喜家における2人の位置がわかりやすいようにと掲載されたもので、一部省略されています。

徳川慶喜の子供たちとは

側室の1人、新村信
(にいむらのぶ)
出典:Wikipedia

徳川慶喜は10男11女という、たくさんの子どもたちをもうけました。

新村信との子ども

長男敬事長女鏡子
五男仲博三女鉄子
六男六女良子
七男慶久九女経子
十男十一女英子

中根幸との子ども

次男善事次女金子
三男琢磨四女筆子
四男五女脩子
八男七女浪子
九男八女国子
十女糸子

慶喜の正室・美賀子との間に生まれた子どもは、生後5日で亡くなってしまいましたが、側室の新村信と中根幸との間にはたくさんの子どもが誕生、慶喜の血筋を広げることとなりました。

子孫たちに受け継がれた慶喜の血筋とは

九男・徳川誠
出典:Wikipedia

息子が家を継ぐだけでなく、養子に出る者、新たに分家を作る者、そして嫁ぐ娘がいたからこそ、徳川慶喜の血筋が伝えられたのでしょう。あらゆる方面から、子孫を残すために行動する、これは人数が多くなければできないことです。

田安・一橋徳川家に嫁いだ娘たち

鏡子19歳・これが最晩年の写真だ
出典:Wikipedia

1873年生まれの長女・鏡子は田安徳川家の当主・徳川達孝と結婚して、4人の娘を生みましたが、わずか21歳で病死してしまいます。2人の間に男子はいなかったため、達孝は再婚して更に5人の娘と1人の息子を授かり、田安徳川家を継承させました。

鏡子の妹で三女の鉄子は一橋徳川家の当主・徳川達道と結婚します。この夫婦にも男子は誕生しなかったらしく、水戸徳川家から徳川宗敬を養子に迎えました。慶喜は宗敬の大叔父にあたります。宗敬の子孫が、現在一橋徳川家を継承しています。

田安と一橋は、もともと徳川将軍家に跡取りが生まれなかったときに、それに替わる人物を提供するために作られた家です。慶喜は自分の娘たちをこの家に嫁がせれば、自分の血筋を残すと同時に、将来徳川宗家に跡取りを提供できると考えたのかもしれません。

名家の養子となった息子たち

五男・池田仲博
出典:Wikipedia

五男・仲博は旧因幡国鳥取藩主・池田輝知が跡継ぎのないまま亡くなったために、輝知の次女・亨子(みちこ)と結婚して婿養子となりました。名称は婿養子でしたが、このとき仲博はわずか13歳。ほとんど養子に出されたのと変わりがなかったのではないでしょうか。

十男の精(くわし)は勝海舟の息子・小鹿の娘と結婚して11歳で婿養子となりました。成人してからはオリエンタル写真工業や浅野セメントの重役を務めるなど、実業家としても活躍しました。

彼の娘・道子が結婚したのは仲博の息子ですから、名字は変わっても、慶喜の血筋はしっかりと残されたことになります。

男爵家を起こした四男と九男

四男・徳川厚
出典:Wikipedia

四男・厚は兄が早く亡くなったために、実際は慶喜の長男として育てられました。徳川宗家(徳川将軍家)は明治になるときに、慶喜から家達に譲られていましたから、厚は分家して新しく家を起こしたのです。彼もまた現在の日新火災海上保険の取締役や貴族院議員を務めるなどの活躍をしています。

九男・誠は幼いときは商家に里子に出されていました。アメリカ留学を経て銀行に勤務した後は、浅野セメント株式会社監査役を務めました。誠は自立心の強い青年へと成長したようで、アメリカ留学後には、徳川慶喜家より分家、新たに一家を構えました。

厚も誠も新たに家を構え、男爵という位についています。彼らは分家したわけですが、慶喜の痕跡はしっかりと日本に残されたと言えるでしょう。

皇族に嫁いだ慶喜の娘と孫

1906年頃の経子
出典:Wikipedia

慶喜の九女・経子は1897年に伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう)と結婚しました。きっかけは1891年に明治天皇の娘たちの遊び相手として、赤坂離宮に出入りをするようになったことだと思われます。

後に高松宮宣仁親王(大正天皇の第3皇子で昭和天皇の弟)の妃となる喜久子は、経子の姪(慶喜の七男・慶久の娘)にあたります。

慶喜の母・吉子女王も有栖川宮織仁親王の娘ですから、慶喜はもともと皇族とは縁がありました。皇族に嫁いだ娘と孫の存在は、その縁を大切にしただけでなく、慶喜の足跡を皇族の中に残すことにもつながりました。

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