徳川慶喜家の創設
徳川慶喜は明治維新の後、長い間蟄居謹慎していました。謹慎する前に徳川宗家は、田安徳川家の徳川家達に譲られていましたが、1880年に慶喜の罪が許されました。
そこで改めて慶喜は公爵という位を与えられることになったのです。そこで徳川宗家と区別するため、徳川慶喜が作った新たな徳川家を徳川慶喜家と呼んでいます。
ここからは、徳川慶喜家について説明していきます。
二代目・徳川慶久
東京帝大を卒業後、貴族院議員、第一銀行取締役、華族世襲財産審議会議長などを歴任した人物です。妻は有栖川宮威仁親王の次女・實枝子です。先程登場した娘の喜久子が高松宮宣仁親王と結婚したのも、妻の縁をたどってのことでした。
華々しく活躍をしていた慶久ですが、37歳の若さで急死してしまいます。自殺とも言われましたが、実際は眠れないときに服用するカルチモンという薬の量を間違えた過失死だったようです。
三代目・徳川慶光
父の慶久が突然亡くなって、後を継ぐことになった三代目の慶光。家を相続したときはまだ10歳の少年でした。東京帝国大学で中国哲学を学んだ後、宮内省図書寮に勤めていましたが、第二次世界大戦が勃発し、二等兵として入隊しました。
赤痢とマラリア、さらには栄養失調で生死の境をさまよった慶光ですが、無事に復員できました。しかし、終戦後は華族制度が廃止され、地位も職も失い、税金の支払いのために自宅も手放すなど困難が続きました。慶喜の子孫も平等に時代の荒波をかぶったのです。
子孫は現在も生きているのか
慶喜の子孫は現在も生きています。
徳川慶喜家・四代目当主の徳川慶朝は戦後生まれで、大学卒業後には一般企業に20年も在職していました。エッセイも出版しており、かなり私たちにも親しみやすい存在ですが、現在生きているのはこの人ではありません。
四代目・徳川慶朝
三代目・慶光の息子である徳川慶朝。彼には五代目を託す相手がいませんでした。
慶朝は1950年生まれ、母は会津藩主・松平容保の孫娘ですから、彼は徳川慶喜と松平容保のひ孫にあたります。
写真家として活躍した慶朝は、徳川家伝来の遺跡や歴史的な建物の姿を写真に残していました。また徳川慶喜家に秘蔵されていた写真を次世代に伝えるために、修復や整理をした上で保存しています。
1度結婚した慶朝ですが、その後離婚に至ります。2男1女は妻が引き取り、妻の姓になりました。この際、慶朝は養子を迎えるつもりもないことを公言しています。
慶朝は家を継ぐことで、誰かをしばるのが嫌だったのかもしれません。このため、慶朝の代で徳川慶喜家は断絶することが決定したのです。
徳川慶朝の死で家系は絶えるが…
2017年、徳川慶朝の死で徳川慶喜家は断絶しました。慶朝は1950年生まれですから、断絶はもっと後のことになると思われていました。しかし、彼は67歳のときに、心筋梗塞でこの世を去ります。
先程、徳川慶喜の子孫は現在も生きていると書きました。これは慶朝の息子が健在だからです。母方の姓を名乗っていても、息子が慶喜の直系の子孫だということに変わりはありません。
また、慶喜の九男・誠の孫(つまり慶喜のひ孫)は、現在も健在です。1948年生まれの徳川康久は2013年から2018年まで靖国神社の宮司を務めていました。退職に際しては、靖国神社に幕府軍が祀られていないことに対して思うところがあったため、とも言われています。
いまだに慶喜の影響を免れられない子孫たちの生き方を見ると、厳しい人生だと思わずにはいられません。
徳川慶喜の子孫に関するまとめ
江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の子孫について解説してきました。こうして見ると、慶喜を筆頭に誰もが時代の波をかぶり、翻弄されたように感じられます。たとえ家柄が良くても、生きる上での苦労は平等なのかもしれません。
現在も慶喜の子孫が生きていると考えると、歴史が身近に感じられますが、慶朝の息子については母方の姓を名乗っている以上、一般の人と考えなくてはなりません。
慶喜の子孫の動向がわからないというのは寂しいものがありますが、それが慶朝の息子への気遣いだとも考えられます。私たちはそれを尊重しないといけません。