天和令
名称 | 天和令 |
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発布年 | 1683年(天和12年) |
発布者 | 徳川綱吉 |
起案者 | – |
条数 | 15か条 |
1683年に徳川綱吉によって発布された天和令で追加されたのは
- 文武忠孝で礼儀正しくする
- 人馬・兵具を整えておく
- 殉死禁止
という内容です。最初の元和令から50年以上が経過し、幕府の基盤は安定し平和な世の中になってきました。「文武両道」に加えて忠孝や礼が書かれているのは、そうした平和な空気や儒教が影響しているようです。
また一方で以下の内容が削除されました。
- 文武両道に励む
- 質人を追放・死刑にするときは届け出る
- キリスト教禁止
- 不孝者は処罰
条文が減っているのは統合されたものがいくつかあるからです。なぜかキリスト教禁止が条文から消えていますが、もちろんキリスト教が認められたわけではありません。寛文令では口頭のみで伝えられた殉死の禁止が天和令では明文化されました。
また武家諸法度は大名に対する法度でしたが、天和令で旗本や御家人を規制した旗本諸士法度と統合されました。
宝永令
名称 | 宝永令 |
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発布年 | 1710年(寛永7年) |
発布者 | 徳川家宣 |
起案者 | 新井白石 |
条数 | 17か条 |
1710年に徳川家宣によって発布された宝永令で追加されたのは
- 酒や遊びをつつしむ
- キリスト教禁止
- 役人は贔屓をしない
- 役人の賄賂禁止
という内容です。宝永令では和漢混合文から和文へ変更されています。天和令よりも儒教の影響がさらに濃くなっています。宝永令では削除された内容はありませんでした。
享保令
名称 | 享保令 |
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発布年 | 1717年(享保2年) |
発布者 | 徳川吉宗 |
起案者 | – |
条数 | 15か条 |
徳川吉宗は5代将軍綱吉時代を模範と考えており、武家諸法度も宝永令を改正するのではなく天和令へ差し戻しを行いました。以後武家諸法度は幕末までほとんど変更されることはありませんでした。
武家諸法度が与えた影響
法による統制ができた
それまでの私的な主従関係から、法により統制を行う政治的な関係へと変化していきました。
武家諸法度などの法令が整備される前は、豊臣秀吉や徳川家康といった強烈なリーダーシップに頼っており、それがないといつ崩壊してしまうかわからないようなものでした。しかし法令を整備することによってそういった強力な指導者がいなくても安定した体制を維持できるようになったのです。
参勤交代制度ができた
参勤交代とは、江戸と国元との間を定期的に往復することを義務付けたものです。また江戸には正妻や跡継ぎを人質として置くことも義務付けられました。
大名行列と呼ばれる華美な行列での旅は多大な出費が必要で、大名の経済力が削られることになりました。一方で参勤交代により江戸と地方の文化が交流するという効果も発生しています。
大船建造が禁止された
元々大船建造が禁止されたのは軍船を作らないようにするのが目的でしたが、鎖国政策を敷いていたこともあり、海外に行けるような船も作らないようになってしまいました。大型船を作らなかったため日本の造船技術は向上しませんでした。
そのため江戸時代の日本には海軍らしい海軍も存在しませんでした。その影響で幕末に外国船が来航するようになると、それらに対抗するすべを持っていないため非常に苦しむことになります。
法度に違反した大名は改易された
武家諸法度に違反して改易(かいえき)や減封などの処罰を受けた大名はたくさんいます。改易とは大名の領地が没収されることで、減封は領地を減らされることです。
改易を受けた大名の中でも有名なのは福島正則です。彼は広島藩49万石の大名でしたが、1619年(元和5年)に台風被害で破損した広島城の石垣を無断で修繕したことを咎められます。
修繕した石垣を破壊すると正則が謝罪したことによりいったんは収まったかに見えましたが、破壊する範囲などをめぐって再び幕府ともめてしまいます。そしてとうとう改易されてしまい、領地は広島藩49万石から川中島など4万5000石に激減してしまいました。
徳川家康の側近中の側近だった本多正信の子、本多正純が改易されたときも武家諸法度違反が挙げられています。この改易は宇都宮城釣天井事件という名前で有名です。
この事件は本多正純が宇都宮城に設けられた徳川秀忠の寝所に、吊り天井をしかけて秀忠の暗殺を図ったというもので、本多家が改易されました。
釣天井で秀忠を暗殺しようとしたという部分は武家諸法度とはあまり関係がありません。しかしこのとき吊り天井以外に11の嫌疑が挙げられており、その中に宇都宮城石垣の無断修復も含まれていました。
今挙げた事例を見てもわかるように、違反といっても改易処分にまでするのは厳しすぎるのではないかという気もします。このように武家諸法度は徳川幕府が疎ましく思っていた大名を改易するための方便として使われていた面もあるのです。
武家諸法度と禁中並公家諸法度の違い
武家諸法度と同時期に出された法度の一つに、禁中並公家諸法度というものがあります。混同してしまう方もいますが、禁中並公家諸法度は朝廷・公家・僧侶が対象の法度で幕府が彼らを統制するためのものです。
1627年(寛永4年)には、この禁中並公家諸法度違反となる紫衣事件が発生しました。法度では朝廷がみだりに紫衣など授けることを禁じましたが、後水尾天皇は幕府に相談なく十数人の僧侶に紫衣着用を許可したため幕府が勅許の無効を宣言しました。このことで沢庵宗彭などが流罪になります。
このように禁中並公家諸法度でも処分を受けた人はいますが、武家諸法度のように次から次へと処分されるということはなく、朝廷などを締め上げるというようなものではなかったようです。
武家諸法度がよくわかる関連書籍
江戸開幕
徳川家康、秀忠、家光の三代でどうやって幕府の基盤を築き上げたのかということについて書かれています。
武家諸法度も基盤づくりの一つでしたがその他にも多くの政策が作られました。そういった徳川幕府の基盤について知りたい方へおすすめです。
江戸三〇〇年 あの大名たちの顚末
江戸時代に改易や厳封など処分を受けた大名について語られた本です。武家諸法度違反などで改易などの処分を受けた大名はかなりの数に上り、それらの事情を調べてみるのも面白いです。
決戦! 広島城 天下大乱の火種を消すべし
この記事でも取り上げた福島正則の広島城無断修復事件を取り扱った小説です。史料だけでは窺い知れないような登場人物の心理描写も小説ならではです。
後世の我々からすると理不尽にも思えるこの事件に興味を持たれた方へおすすめです。
武家諸法度についてのまとめ
武家諸法度についてまとめてみました。法度が改正されていく様子を追っていくと、武断政治から文治政治へ移行していく時代の影響を受けていることがわかり面白いです。また武家諸法度や禁中並公家諸法度などといった法令整備が徳川幕府の長期化につながったこともわかります。
法令を調べるのは地味ではありますが、こういう視点から歴史を知るのもまた面白いのではないでしょうか。この記事を読んで興味を持たれた方がいらっしゃれば、関連書籍や関連記事などで知識を深めてみてください。