「武家諸法度ってなに?」
「名前は聞いたことはあるけどそもそもいつの話?どんな内容?」
「武家諸法度でどんな影響があったの?」
このように思われる方も多いのではないでしょうか。武家諸法度とは徳川幕府が全国の大名を統制するために発布した法令です。この法度に違反したことで改易などの処分を受けた大名はたくさんいます。
武家諸法度が作られた目的や背景は何でしょうか?また全国の大名が恐れることになった内容とは?与えた影響は?この記事ではそういった疑問などにお答えしながら武家諸法度についてわかりやすく解説していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
武家諸法度とは
武家諸法度について簡単に解説
武家諸法度は、1615年(元和元年)に大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼした後、徳川秀忠が伏見城に全国の大名を集めて発布したものです。しかし実質の命令者は当時まだ健在だった徳川家康です。
この法度は大名を統制するために定められたもので、これに違反した大名は外様はもちろん譜代や親藩でも容赦なく処罰されました。あとで詳しく説明しますが、福島正則が武家諸法度に違反して改易になったのは有名な話です。
- 親藩・・・徳川家康の男系子孫による大名
- 譜代大名・・・親藩、外様以外の大名
- 外様大名・・・関ヶ原の戦い前後に徳川家に従うようになった大名
武家諸法度は1615年に発布されたものがずっと使われていたのではなく、将軍が代替わりするごとに少しずつ改正されました。改正は8代将軍徳川吉宗のときまで続きましたが、それ以降は改定されることなく幕末まで同じものが使われました。
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武家諸法度が作られた目的・意味
武家諸法度を制定した一番の目的は、江戸幕府に忠誠を尽くすかわからない大名を統制するためです。
1615年に大阪夏の陣で豊臣家が滅び戦国時代は終結しました。しかし新たな政権を担うことになった徳川幕府は、いまだ安心できるような状況にはありませんでした。なぜなら島津家や伊達家のように広大な領土を持つ大名や、福島家のように元は豊臣方で徳川にどれだけ忠誠を尽くすかわからないような大名がたくさんいました。
そういった大名たちをコントロールするために、武家諸法度が定められました。これは1611年に諸大名から誓約として提出させた3か条に、徳川家康のブレーンだった以心崇伝が起案した10か条を加えたものです。
内容としては、鎌倉時代以降代々の将軍が発布してきた法令に準拠しているものが多く、今さら反対するような内容ではないため、諸大名はこれに従わざるを得ないというものでした。このように明文化した法度により戦国時代のような私的な主従関係から、法によって定められた政治的な関係へ変化することになったのです。
武家諸法度の内容と変化
元和令
名称 | 元和令(げんなれい) |
---|---|
発布年 | 1615年(元和元年) |
発布者 | 徳川秀忠 |
起案者 | 以心崇伝 |
条数 | 13か条 |
元和令の発布者は徳川秀忠となっていますが、実質は徳川家康によるものでした。その内容は
- 文武両道に励む
- 酒や遊びをつつしむ
- 法令に背いたものを匿わない
- 家臣が反逆や殺害を働いたら追放する
- 他国の者を雇わない
- 居城を補修する際は必ず届け出る、新築厳禁
- 隣国に不審な動きがあれば幕府に報告する
- 勝手に婚姻を決めない
- 参勤作法を守る
- 身分をわきまえた服装をする
- 身分が低い者は輿に乗らない
- 質素倹約に努める
- 政務は適格者を選ぶ
というものです。
参勤とありますが、これはいわゆる江戸への参勤交代ではなく、この当時政治の中心だった京都への参勤を指していたようです。江戸への参勤交代が義務として定められたのは次の寛永令です。
「居城を補修する際は必ず届け出る、新築厳禁」という条文から、諸大名を警戒していたことがわかります。またこの条文は福島正則が改易される原因になりました。
寛永令
名称 | 寛永令 |
---|---|
発布年 | 1635年(寛永12年) |
発布者 | 徳川家光 |
起案者 | 林羅山 |
条数 | 19か条 |
1635年に発布された寛永令では、以下の内容が追加されました。
- 謀反を企ててはいけない
- 江戸の事件に国元にいる者が勝手に動いてはいけない
- 刑罰執行は役人以外立ち入り禁止
- 私闘禁止
- 質人を追放・死刑にするときは届け出る
- 知行所政務は違法なく清廉に
- 私的関所の禁止
- 往来を停滞させない
- 500石以上の大船禁止
- 寺社領を取り離さない
- 幕法遵守
- 構(奉公構)を言い渡された者を雇わない
シンプルな元和令と比べると条文も増え、内容もかなり具体的になっています。江戸への参勤交代が明文化され、500石以上の大船の建設が禁止されました。
また奉公構(ほうこうかまい)が初めて明文化されています。奉公構とは追放刑の一種で、ある家を追放された者は許しがあるまで他家でも雇用することができないというもので、武士にとってかなり厳しい刑罰でした。
また、一方で以下の内容が削除されました。
- 酒や遊びを慎む
- 法令に背いたものを匿わない
- 隣国に不審な動きがあれば幕府に報告する
- 政務は適格者を選ぶ
寛文令
名称 | 寛文令 |
---|---|
発布年 | 1663年(寛文3年) |
発布者 | 徳川家綱 |
起案者 | – |
条数 | 21か条 |
1663年に徳川家綱によって発布された寛文令で追加されたのは
- キリスト教禁止
- 不孝者の処罰
という内容です。キリスト教の禁止が追加されたのは、1637年(寛永14年)に起こった天草の乱が影響しているようです。また文書には出ていませんが、口頭で殉死の禁止が伝えられています。