すると高尾太夫は感激して「ただの卑しい遊女である私を、3年間も思い続けてくれたなんて」と感激し、来年の3月15日に年季が明けるから、久藏のお嫁さんになりたいと約束しました。周囲は「花魁が染物職人の嫁に来るはずがない」と憐れんでいましたが、本当に3月15日高尾太夫は来て二人は夫婦になったのです。そして二人で店を独立、いつまでも仲良く暮らしました、というお話です。
あくまでフィクションですが、花魁が染物屋に嫁いだことは珍しかったらしく、このような落語が生まれたのでしょう。史実の「紺屋高尾」も結婚後、3人の子宝に恵まれ80余歳まで生きたといいます。
3位:真実の愛を貫いた「小紫太夫」
「小紫太夫」は非常に美人で有名だった三浦屋の花魁で、和歌が巧みだったために「紫式部」に因んで「小紫」と呼ばれたといいます。その上性格も良かったといい、客足が途絶えない程の人気を博していたといいます。
あるとき平井権八という藩士が小紫の花魁道中を見て一目ぼれます。しかし平井権八は一藩士であり、小紫を身請けどころか一夜を共にするのも難しい状況でした。そのため権八は小紫の座敷に上がるために、辻斬りを繰り返しお金を稼ぐようになりました。
権八に斬られた人数は130名にも及ぶといわれています。やがて権現は捕まり、斬首刑に処されてしまいました。それを聞いた小紫は悲しみますが、身請け話が舞い込んできます。しかし小紫は身請け日の当日、権八の墓の前で自害してしまいました。二人の墓があった東昌寺は現在廃寺になっているため、目黒不動尊瀧泉寺の前に現存しています。
2位:ファッションリーダー的女性だった「勝山」
勝山は風呂屋(私娼窟でもあった)の従業員でしたが、後に吉原で太夫になりました。湯屋の従業員時代から派手ないで立ちが有名で、自ら武家の女性風な勝山髷(かつやままげ)」という髷を結い、こぞって江戸の女性が真似をしたといいます。
しかし幕府が私娼窟を禁止したために、勝山も官許の吉原遊郭に移ってきました。元々有名だった勝山は吉原でも太夫にまで昇りつめます。勝山のファッションのことは井原西鶴の随筆の中にも、人気である様子が触れられています。
現在「どてら」といわれる広袖の綿入れ「丹前」も、勝山が考案しひいき客に配っていたそうです。また花魁道中で花魁が「外八文字」に歩くのも勝山が考案したという説があります。それまで京の太夫が歩く「内八文字」が主流でしたが、勝山が考案した「外八文字」は派手な印象を与え以後吉原の花魁道中の主流な歩き方となりました。
1位:一番美しいとされた女性「高尾太夫(たかおだゆう)」
「高尾太夫(たかおだゆう)」という名前は最高級の花魁が襲名される源氏名で、吉原でもっとも有名な花魁の一人でした。三浦屋という大見世の花魁名で、11代目まで続いたといわれています。その中でも2代目「高尾太夫」が有名です。
2代目高尾は容姿端麗、和歌俳諧も得意で書も抜群、その他芸事にも秀でていたといいます。生国は野州(栃木県)百姓の娘で、当時19歳だったそうです。
高尾は鳥取藩士の島田重三郎と恋仲でしたが、美貌だったために仙台藩主伊達宗綱に見初められ、身請けの話が持ち出されました。伊達宗綱は身請けのために高尾太夫の体重分の金(30㎏)と、多くの衣装を身請け金としました。現在の価値で5億円程にもなるといわれています。
しかし高尾太夫は恋人への思いは変わらずに、身請けされて半年も伊達宗綱に指一本も触れさせなかったそうです。綱宗は怒り高尾を幽閉し「一日指一本、十日で指十本落とす」と脅しますが、彼女は全く屈しなかったといいます。
そのため綱宗は怒り物見のための船上で高尾を逆さ吊り斬りにし、川中に高尾の遺体を捨ててしまいました。数日後高尾の遺体は岸に流れ着き、そこに庵を構えていた僧が引き上げて手厚く葬ったといわれています。
その後庶民の同情が集まり、高尾太夫の頭蓋骨を主祭神とした「高尾稲荷神社」を建てたといいます。この話は俗説ともいわれていましたが、大雨の時に神社が倒壊した為建て直すとき、女性の頭蓋骨が出てきたそうです。
実在した花魁に関するまとめ
いかがでしたでしょうか?筆者が今回有名な花魁の人生を7名簡単に辿っていきましたが、それぞれの人生が一つの物語のようで驚いています。大名の側室になった花魁もいれば、逆に大名をふって斬られてしまった花魁もおりそれぞれの人間模様が歴史を感じさせてくれます。
当時身分が生まれで決まっていた時代、花魁は「玉の輿に乗れる」という点で憧れられたともいわれています。そんな江戸時代の憧れだった花魁たちがどんな人生を送ったのか、この記事で少しでも知っていただけたら嬉しく思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。