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吉原歴代で一番美しい花魁は誰?実在した有名人7名を紹介

「花魁はどんな人がいたんだろう?」
「吉原歴代の花魁で一番美しいと言われていたのは誰?」
「花魁はどんな人生を送ったのか気になるな」

花魁は遊郭の女性の中でも位が高い女性を指し、現在でいう「高級娼婦」「高級遊女」という職業でした。華やかな着物やかんざしを付け、お客を迎えに行く花魁道中は当時の人たちを魅了し当時のファッションリーダー的存在でもありました。

花魁の扮した女性、当時庶民の憧れの的だったという
出典:Wikipedia

そして美貌だけでなく教養も身に着けており、花魁の馴染みになるためには現在の価値で400万以上のお金が必要だったともいわれています。そんな花魁はどんな人がいたのか?この記事では、実在した有名な花魁を7名紹介します。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。歴史好きの親の影響でいつの間にか歴史好きを小さいころから刷り込まれた、典型的な歴史オタク。漫画やアニメも好きで、漫画やアニメにハマってそこから興味を持つことが多い。現在はフリーのライターとして活動中。

花魁とは何をする人?仕事内容や避妊方法、実在した人物を簡単に紹介

1.一番美しいとされた女性「高尾太夫(たかおだゆう)」

2代目高尾太夫
出典:Wikipedia

「高尾太夫(たかおだゆう)」という名前は最高級の花魁が襲名される源氏名で、吉原でもっとも有名な花魁の一人でした。三浦屋という大見世の花魁名で、11代目まで続いたといわれています。その中でも2代目「高尾太夫」が有名です。

2代目高尾は容姿端麗、和歌俳諧も得意で書も抜群、その他芸事にも秀でていたといいます。生国は野州(栃木県)百姓の娘で、当時19歳だったそうです。

伊達綱宗、色欲に溺れた暗君と評価されている
出典:Wikipedia

高尾は鳥取藩士の島田重三郎と恋仲でしたが、美貌だったために仙台藩主伊達宗綱に見初められ、身請けの話が持ち出されました。伊達宗綱は身請けのために高尾太夫の体重分の金(30㎏)と、多くの衣装を身請け金としました。現在の価値で5億円程にもなるといわれています。

しかし高尾太夫は恋人への思いは変わらずに、身請けされて半年も伊達宗綱に指一本も触れさせなかったそうです。綱宗は怒り高尾を幽閉し「一日指一本、十日で指十本落とす」と脅しますが、彼女は全く屈しなかったといいます。

そのため綱宗は怒り物見のための船上で高尾を逆さ吊り斬りにし、川中に高尾の遺体を捨ててしまいました。数日後高尾の遺体は岸に流れ着き、そこに庵を構えていた僧が引き上げて手厚く葬ったといわれています。

その後庶民の同情が集まり、高尾太夫の頭蓋骨を主祭神とした「高尾稲荷神社」を建てたといいます。この話は俗説ともいわれていましたが、大雨の時に神社が倒壊した為建て直すとき、女性の頭蓋骨が出てきたそうです。

2.ファッションリーダー的女性だった「勝山」

勝山髷、江戸の女性はこぞって真似をしたという
出典:Wikipedia

勝山は風呂屋(私娼窟でもあった)の従業員でしたが、後に吉原で太夫になりました。湯屋の従業員時代から派手ないで立ちが有名で、自ら武家の女性風な勝山髷(かつやままげ)」という髷を結い、こぞって江戸の女性が真似をしたといいます。

しかし幕府が私娼窟を禁止したために、勝山も官許の吉原遊郭に移ってきました。元々有名だった勝山は吉原でも太夫にまで昇りつめます。勝山のファッションのことは井原西鶴の随筆の中にも、人気である様子が触れられています。

丹前は旗本の使用人の間で大流行し、一般に広がっていったという
出典:Wikipedia

現在「どてら」といわれる広袖の綿入れ「丹前」も、勝山が考案しひいき客に配っていたそうです。また花魁道中で花魁が「外八文字」に歩くのも勝山が考案したという説があります。それまで京の太夫が歩く「内八文字」が主流でしたが、勝山が考案した「外八文字」は派手な印象を与え以後吉原の花魁道中の主流な歩き方となりました。

3.真実の愛を貫いた「小紫太夫」

小紫太夫を描いた浮世絵
出典:Wikipedia

「小紫太夫」は非常に美人で有名だった三浦屋の花魁で、和歌が巧みだったために「紫式部」に因んで「小紫」と呼ばれたといいます。その上性格も良かったといい、客足が途絶えない程の人気を博していたといいます。

あるとき平井権八という藩士が小紫の花魁道中を見て一目ぼれます。しかし平井権八は一藩士であり、小紫を身請けどころか一夜を共にするのも難しい状況でした。そのため権八は小紫の座敷に上がるために、辻斬りを繰り返しお金を稼ぐようになりました。

小紫と平井権八の比翼塚
出典:Wikipedia

権八に斬られた人数は130名にも及ぶといわれています。やがて権現は捕まり、斬首刑に処されてしまいました。それを聞いた小紫は悲しみますが、身請け話が舞い込んできます。しかし小紫は身請け日の当日、権八の墓の前で自害してしまいました。二人の墓があった東昌寺は現在廃寺になっているため、目黒不動尊瀧泉寺の前に現存しています。

4.落語のヒロインになった「紺屋高尾」

花魁は高嶺の花で多くは武家などに身請けされた
出典:MAKEY

三浦屋という大見世の5代目「高尾太夫」が、後に落語の「紺屋高尾」の由来である紺屋高尾です。高尾は紺屋九郎兵衛という染物屋の妻となり、「駄染め」と呼ばれる量産染色で手拭いを製造し遊び人の間で大流行したといいます。

落語の「紺屋高尾」のあらすじを簡単に説明します。神田紺屋町に「久藏」という染物職人がいたのですが、花魁道中する6代目高尾太夫を見て一目ぼれし恋煩いを起こしてしまいます。そして3年かけてお金をためて高尾太夫に会えたのでした。しかし花魁の馴染みになるには何回も通わないといけないため、また次に通うのは3年後になってしまうため久藏は泣きながら事情をカミングアウト。

紺屋の様子、染物屋や染物屋の主を「紺屋」といった
出典:Wikipedia

すると高尾太夫は感激して「ただの卑しい遊女である私を、3年間も思い続けてくれたなんて」と感激し、来年の3月15日に年季が明けるから、久藏のお嫁さんになりたいと約束しました。周囲は「花魁が染物職人の嫁に来るはずがない」と憐れんでいましたが、本当に3月15日高尾太夫は来て二人は夫婦になったのです。そして二人で店を独立、いつまでも仲良く暮らしました、というお話です。

あくまでフィクションですが、花魁が染物屋に嫁いだことは珍しかったらしく、このような落語が生まれたのでしょう。史実の「紺屋高尾」も結婚後、3人の子宝に恵まれ80余歳まで生きたといいます。

5.招き猫の由来ともいわれる「薄雲太夫」

薄雲太夫の画
出典:SPICE

「薄雲太夫」は招き猫発祥ともいわれている花魁です。薄雲太夫は一匹の三毛猫を「玉(たま)」と名づけて可愛がっていましたが、花魁道中にも猫を参加させるほどだったため「猫に憑りつかれた」と噂されていました。

そんな玉が花魁の厠についていこうとしたために、猫に憑りつかれたと楼主が短刀で玉の首をはねてしまいます。その時玉の首は飛び、厠にいた大蛇の喉首に噛みついたそうです。

招き猫の由来は幾つかある説の一つが薄雲太夫だ
出典:Wikipedia

自分を助けるために死んだ玉を薄雲は非常に悲しみ、西方寺に猫塚を建てて祀り馴染みの客が贈った猫の木彫り像を大事にしていたといいます。それは薄雲が亡くなった後、西方寺に寄進されました。薄雲太夫は350両もの大金で、源六という男性に身請けされています。記録には残っていませんが、幸せに暮らしたことが想像でき、そのため猫も縁起物として「招き猫」になったのではないかといわれているのです。

6.公家から求婚された「吉野太夫」

吉野太夫は天才的な太夫で目標的な存在だったらしい
出典:花魁体験studioあられ

2代目「吉野大夫」は遊女として理想的な女性と言い伝えられている人物です。元々「吉野太夫」は京都の太夫に代々伝わる名前で、10代目まであります。その中で特に有名なのが2代目吉野太夫です。

吉野は若干14歳で太夫になっています。和歌・連歌・俳諧に優れていて、琴・琵琶・笙などの音楽にも秀で、さらに書道・茶道・香道・華道・囲碁・双六などを極めていたそうです。また太夫18名が集まった時も、寝乱れ姿で出てきたにもかかわらず圧倒的な存在感を示す程の美貌だったと伝わっています。

五摂家筆頭の近衛家当主から身請けの話が来ていた
出典:Wikipedia

才色兼備であるために、馴染みの客に後陽成天皇の子で近衛家に養子に入った関白・近衛信尋や、豪商で当時の文化人の一人といわれる灰屋紹益がいました。二人は吉野太夫を身請けしようとしますが、結局灰屋紹益が身請けし結婚しました。その時26歳でしたが、38歳で亡くなり常照寺に墓所があります。現在も島原の太夫が墓参りに参拝するそうです。

常照寺の吉野太夫の墓所、今も島原の太夫が墓参りに来る
出典:Wikipedia

創作作品で「好色一代男」に吉野太夫が出てきますが、時計の調整ができ(この当時時計が少なく調整できるのは知識人の証だった)、女性の髪や化粧を整えてあげたり、筝を弾き笙を吹く、茶を嗜み花を活け替え、話題も風流から家計のやりくりまで幅広かったという女性として出てきます。

吉野太夫は当時文化人の象徴だった時計の調整も出来たらしい

吉野がその場にいないと「吉野がいない」と皆探し出したといわれるほどであったと、カリスマ性があったことが書かれています。これは創作作品ですが、ある程度の実話に基づいていると考えられており、吉野太夫が今も伝説的な遊女である理由ではないでしょうか。

7.大名の側室となった「榊原高尾」

高尾太夫、唯一大名の側室になった花魁だ
出典:モンスペディア

三浦屋の花魁「高尾太夫」11代目は、大名の側室になった唯一の女性です。元は江戸の重願寺近くにある花屋の娘で、父親を手伝っていましたが、美貌が有名で江戸中の男性が花を買いに来て重願寺の墓地は花で溢れる程でした。

しかし父が倒れたことにより吉原に入り、美貌から6代目「高尾太夫」になりました。そこで姫路藩主「榊原政岑」に見初められ2000両もの大金で身請けされ、側室に迎えられたのです。しかし時代は8代将軍徳川吉宗の時代で、「享保の改革」で倹約を義務づけられた時期であったため榊原は危うく大名の身分を剥奪されるほどのお叱りを受けています。

榊原政岑、倹約令を無視して派手な服を着て吉原で派手に遊興にふけっていたそうだ
出典:史跡探訪と歴史の憧憬

結局家臣が「政岑の乳母が生き別れになった娘が榊原高尾」と説明。亡くなった乳母を弔うために娘を遊女の身分から救い出したと弁明したそうです。明らかに嘘ですが、どうやら詰問役が譲ったようでなんとか越後高田への左遷と隠居で落ち着いたといいます。

榊原高尾の墓所
出典:墓マイラーが行く。

榊原高尾は夫と共に越後高田にいきますが、政岑が35歳で死去。そのため江戸にもどり榊原下屋敷で夫の菩提を弔いながら余生を過ごしたといわれています。榊原高尾は68歳で死去し、榊原家菩提寺池袋の本立寺に墓所があります。6代目高尾太夫は、玉の輿に乗るというサクセスストーリーとして遊女の憧れとして語り継がれていたようです。

実在した花魁に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?筆者が今回有名な花魁の人生を7名簡単に辿っていきましたが、それぞれの人生が一つの物語のようで驚いています。大名の側室になった花魁もいれば、逆に大名をふって斬られてしまった花魁もおりそれぞれの人間模様が歴史を感じさせてくれます。

当時身分が生まれで決まっていた時代、花魁は「玉の輿に乗れる」という点で憧れられたともいわれています。そんな江戸時代の憧れだった花魁たちがどんな人生を送ったのか、この記事で少しでも知っていただけたら嬉しく思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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