「遣唐使ってそもそも何?」
「遣唐使の目的や廃止された理由は?」
「遣唐使にはどんな船が使われ、どんな人が派遣されていたの?」
この記事をご覧のあなたはそんな疑問を持っていませんか?遣唐使とは日本から唐(とう)という王朝に派遣されていた使節団の名称です。遣唐使は7世紀から9世紀にかけて派遣され、唐からたくさんの文化や物品が日本に持ち込まれました。
この記事では、そんな遣唐使の内容をわかりやすく解説しながら、遣唐使の目的はなんだったのか?遣唐使にはどんな船が使われ、どんな人物が派遣されていたのか?なぜ遣唐使は廃止されてしまったのか?などをご紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
遣唐使とは?
「遣唐使」とは、7世紀から9世紀頃の約250年の間、日本が唐(とう)へ派遣していた外交使節の名称です。「唐」とは現在の中国のあたりにあった王朝で、当時のアジア諸国に大きな影響力を持つ先進国でした。
ところで、なぜ日本は唐に対して人員を派遣する必要があったのでしょうか?順を追って見て行きましょう。
遣唐使の目的
遣唐使の目的は、唐から文化や制度を学び、唐の品々を日本へ持ち込むためでした。
唐は広大な領土を持ち、当時のアジア地域に大きな影響力を持った先進国。特に唐の都である長安(ちょうあん)はアジアを代表する大都市で、国際的な文化が栄えていました。そんな唐から最新の文化や制度を取り入れて、日本も先進的な国家になろうとしたのです。
また、日本から持っていった品物を唐で売り、その利益で唐で品物を買って日本で販売すると莫大な利益を得られました。遣唐使はビジネス的な側面も持ち合わせていたのです。
行われた期間と回数
遣唐使が派遣された期間は7世紀から9世紀、回数に関しては12回説から20回説まで諸説あります。
遣唐使が初めて派遣されたのが西暦630年、派遣が中止されたのが894年でした。日本の時代区分で言うと、飛鳥時代の半ば頃から派遣がスタートし、平安時代の初め頃に廃止されています。回数に関しては、派遣が中止された時など派遣の回数をどこで区切るかで見方が異なるため、12回、14回、15回、16回、18回、20回と様々な説が存在し定説はありません。
なお、大宝2年(702年)に派遣された8回目(20回説の場合)の遣唐使では、日本からの使節が唐に対して「日本」を名乗っており、外交的に「日本」の国名が使用された最初の例となっています。
どんな成果があったの?
唐から最先端の文化や制度を取り入れるために遣唐使を派遣していた日本ですが、その目的は見事に達成されました。成果はたくさんあるのですが、代表的なものとしては「法律の制定」「平城京の設計」「仏教の発展」などが挙げられます。
大宝元年(701年)には、唐の法律を参考にし日本でも「大宝律令(たいほうりつりょう)」という法律が制定されました。また、奈良時代の日本の都である平城京は、唐の都 長安を模して設計されています。宗教的な面でも最新の仏教の教えを学んだり、僧侶の「鑑真(がんじん)」が日本やってきて教えを広めるなど、仏教の発展にも大きく貢献しました。
遣唐使がもたらした文化や制度は、古代日本の発展に大きく影響したのです。
遣唐使ではどんな船が使われていたの?
遣唐使を派遣する時には「遣唐使船」といった船が使用されていました。
遣唐使船に関する正確な記録は現存していないため不明な部分も多いのですが、船体は全長30m、全幅9.6m、排水量300トン、積載荷重150トンと推定されており、多い時で500人もの使節が2隻から4隻の船に分乗して渡海していました。当時としては、かなりの大型船だったと考えられています。
しかし、遣唐使が派遣されていたのは今から1000年以上前。現代と違って航海技術や造船技術が未発達な時代です。船が難破したり沈没したりして、多くの使節が海を渡る途中で亡くなりました。まさに命がけの旅だったのです。
630年に始まり894年に終了した遣唐使という制度には、外国文化の良いところを摂取して、自国文化をより良いものにしようという、日本人の心構えが如実に表れています。この心構えこそが、明治維新として花開き、日本をアジアの国としては唯一G-7のメンバーにしているのだと思います。