遣唐使とは?廃止された理由や使われた船、遣隋使との違いも解説

遣唐使と遣隋使の違い

遣隋使を派遣した聖徳太子の肖像画
出典:Wikipedia

使と似たような使節として「遣隋使」がありますが、遣使と遣隋使では派遣先の王朝や、派遣されていた年代が異なっています。

使が「唐」へ使節を派遣していたのに対し、遣隋使は「隋(ずい)」という王朝に使節を派遣していました。西暦618年に隋が滅ぼされて新たに唐が建国されたため、日本の目的はそのままに遣隋使が遣唐使に変化したと捉えれば問題ありません。

なお、遣隋使は西暦600年から618年の間に3回~5回程度しか派遣されていないため、遣唐使と比べて期間も回数もかなり少なかったと見られています。

遣唐使を廃止した人物と廃止された理由

約250年の長きに渡り派遣されてきた遣唐使ですが、寛平6年(894年)に廃止されました。先進的な文化や制度だけでなく、莫大な利益をも日本にもたらしていた遣唐使がなぜ廃止されてしまったのでしょうか?

廃止をした人物や廃止された理由について解説をしていきます。

唐が弱体化したため菅原道真が廃止

遣唐使を廃止した「菅原道真」の肖像画
出典:Wikipedia

遣唐使が廃止された大きな理由のひとつは「唐が弱体化した」からです。

当時の唐では内乱が相次いでおり、かなり不安定な情勢となっていました。そんな唐に人材を派遣するのは危険ですし、内乱続きで国の力も衰えていたため、唐から日本が学ぶべきものも無くなっていたのです。

このような理由から、寛平6年(894年)、当時の日本政府内で力を持っていた「菅原道真(すがわらのみちざね)」によって遣唐使は廃止されました。

渡海のリスクが成果に見合わなくなった

復元された遣唐使船
出典:Wikipedia

遣唐使が廃止されたもうひとつの理由が「渡海のリスクが成果に見合わなくなった」からです。

「遣唐使ではどんな船が使われていたの?」の部分でもお伝えした通り、当時の航海技術や造船技術はとても未熟で、航海の途中で船が沈没したり遭難してしまうのは当たり前でした。使節として派遣した貴重な人材が、唐に辿り着けないまま亡くなってしまうのは、日本にとって大きなリスクです。

遣唐使が開始された当時は、大きなリスクを背負ってでも唐から得られる文化や物品、莫大な利益には大きな魅力がありました。ところが、約250年間続いた遣唐使を経て日本は大きく成長、弱体化した唐から学ぶべきものが少なくなっていました。以上の理由から、危険を冒してまでわざわざ唐へ渡る理由が無くなり、遣唐使は廃止となったのです。

遣唐使を廃止した後の日本

源氏物語の作者「紫式部」の肖像画
出典:Wikipedia

遣唐使が廃止された後の日本では大陸との交流が極端に少なくなったため、日本独特の個性的な文化が花開いていきます。この文化を「国風文化(こくふうぶんか)」と言います。

漢字は平仮名へと変化していき、紫式部の源氏物語や清少納言の枕草子に代表されるような、女性作家による文学作品がたくさん生まれました。また、服装も日本独特のものへ変化し、十二単(じゅうにひとえ)なども誕生しています。

平等院鳳凰堂
出典:Wikipedia

仏教の面でも日本独自の教えが確立され、仏教建築の様式も大きく変化しました。10円玉に描かれている平等院鳳凰堂も国風文化の影響を受けた建築物です。

遣唐使で得た文化や知識を元に日本は独自の文化を発展させていき、歴史は新たな時代へと突入していったのです。

遣唐使として派遣された代表的な人物

遣唐使として派遣された「最澄(さいちょう)」の肖像画
出典:Wikipedia

遣唐使として唐に派遣された人物はたくさんいるので、特に有名な人物に絞ってご紹介します。

弘法大師の名でも有名な「空海(くうかい)」、天台宗の祖として名高い「最澄(さいちょう)」といった有名なお坊さんたちも遣唐使として唐に渡り、最新の仏教を学んで日本に持ち帰っています。

遣唐使として派遣された「吉備真備(きびのまきび)」の銅像
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「吉備真備(きびのまきび)」という人物は、唐でたくさんの学問を学び日本に様々な知識を持ち帰りました。また「阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)」という人物は非常に優秀で、唐で大出世を遂げて日本に帰らぬまま亡くなっています。たくさんの遣唐使の中で唐で有名になったのは、吉備真備と阿倍仲麻呂の二人のみと言われるほどの秀才だったと伝わっています。

あるいは「犬上御田鍬(いずがみのみたすき)」という人物は、最後の遣隋使でありながら最初の遣唐使も務めた人物として知られています。

遣唐使派遣と廃止の覚え方

遣唐使として派遣された「阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)」/百人一首より
出典:Wikipedia

遣唐使は開始された630年と廃止された894年の両方の語呂合わせが存在します。

最も一般的なのは「いろいろ蒸され(630年)て遣唐使派遣」「白紙(894年)に戻そう遣唐使」。意味としては、いろいろな事情が蒸され(630)た結果遣唐使が派遣されたのが630年で、派遣を辞めて遣唐使が白紙(894)になったのが894年といった覚え方です。

遣唐使の開始と廃止はセットで覚えておくのがオススメですね。

遣唐使に関するまとめ

最先端の文化や制度を取り入れるために開始された遣唐使。もともとは聖徳太子が「日本を立派な国家にしよう」と派遣した「遣隋使」が始まりでした。西暦600年に開始された遣隋使、その後隋は滅びましたが日本は遣唐使として派遣を続け、約300年後の894年ついに遣唐使は廃止されました。そして遣唐使が廃止されたから間もなく、唐文化を吸収した日本独自の文化「国風文化」が花開いたのです。

そういった意味では、聖徳太子の想いを引き継いでいたのが遣唐使であり、約300年の時を超え聖徳太子の想いを実現さたもの遣唐使だったのかもしれませんね。最後までお読みいただきありがとうございました。

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1 COMMENT

古山英二 Furuyama Eiji

630年に始まり894年に終了した遣唐使という制度には、外国文化の良いところを摂取して、自国文化をより良いものにしようという、日本人の心構えが如実に表れています。この心構えこそが、明治維新として花開き、日本をアジアの国としては唯一G-7のメンバーにしているのだと思います。

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