小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

豊臣秀吉の子孫は現在まで続いてる?家系図と共に解説【父母兄弟も紹介】

豊臣秀吉に子孫はいるの?」
豊臣秀吉の子孫は現在まで続いてるの?」

この記事に訪れたあなたは、このような疑問を持っているのではないでしょうか?豊臣秀吉はなかなか子宝に恵まれず、年をとってから側室の淀殿(よどどの)との間にようやく豊臣秀頼が生まれました。しかし秀頼も徳川家康に攻め滅ぼされてしまったため、秀吉の血は途絶えてしまったと考えられています。

豊臣秀吉像(狩野光信筆、高台寺蔵)当時の最高権力者、関白になった豊臣秀吉を描いたものだと伝わる
出典:Wikipedia

しかし、秀吉の子供は秀頼の他にも存在していた可能性が指摘されていて、今も多くの謎が残っていまるのです。今回の記事では豊臣秀吉の子孫は現在まで続いているのか?について、家系図を元に解説していきます。また、子供や子孫かもしれないと言われている人などについても紹介しますので参考にして下さい。

豊臣秀吉の子孫は現在まで続いている??

豊臣秀吉の似顔絵
出典:いらすとや

結論から言ってしまうと、今現在豊臣秀吉の子孫は残念ながら途絶えてしまっています。

冒頭でも解説しましたが豊臣秀吉の子供といえば、側室の淀殿との間に生まれた豊臣秀頼が有名です。しかし、秀頼は大坂夏の陣で徳川家康に敗れ若くして自害してしまったため、秀吉直系の子孫は断絶したとされるのが一般的な説となっています。

ただし一方で、秀吉には秀頼以外にも子供がいたとも言われています。また秀頼にも子供がいたという説もあるのです。はたして秀吉には複数の子供がいたのか?あるいは秀頼に子供はいたのか?秀吉の両親や兄弟の家系図から確認していきましょう。

豊臣秀吉の家系図

豊臣秀吉の家系図
出典:戦国ヒストリー

豊臣秀吉は、足軽出身とも言われていると木下弥右衛門(きのしたやえもん)と、その妻のなかとの間に生まれました。姉には、とも(後に出家して日秀と名乗る)がいます。父の弥右衛門死後、母のなかは竹阿弥(ちくあみ)という男性と再婚して、異父弟の秀長(ひでなが)、異父妹の朝日が生まれています。

朝日は秀吉の家臣や徳川家康と結婚しましたが、子供はいませんでした。秀長には2人の娘と1人の息子がいましたが、いずれも早世し、子孫を残していません。ただ、とも(日秀)の孫娘の完子(かんし)は公家の九条家に嫁ぎ、その血筋は現在の天皇家にもつながっています。

直系の子孫は絶えた

令和の現在、公的には豊臣秀吉の子孫は現存していません。秀吉の子供の中で子孫を残したのは秀頼のみで、秀頼の子供たちはいずれも子孫を残さなかったからです。秀吉の子供、秀頼の子供たちがどのような生涯を送ったのかを簡単にご紹介します。

豊臣秀吉の子供

ここでは、豊臣秀吉の子供一人ずつに迫っていきます。一般的には豊臣秀吉の子供は、豊臣秀頼ただ1人だけと思っている人が多いでしょう。しかし実は、秀吉には他にも2人の息子と1人の娘がいたと言われています。秀吉の3人の息子と1人の娘がそれぞれどのような人生を送ったか、子孫を残しているのかを、生まれた順で紹介していきます。

羽柴秀勝(石松丸)

羽柴秀勝肖像(滋賀県妙法寺所蔵) 羽柴秀勝が亡くなる少し前、6,7歳の時の絵だと伝わっている
出典:Wikipedia

秀吉が織田信長の家臣、長浜城主時代に生まれたと言われている長男です。母親は秀吉側室の南の方と言われています。

実在が疑問視されるほど記録が残されていませんが、琵琶湖に浮かぶ竹生島に伝わる「竹生島奉加帳」、長浜市の妙法寺に伝わる「羽柴秀勝像」などにその存在が示唆されています。生没年も詳しく分かっていませんが、幼いうちに亡くなってしまったようです。当然秀勝の子供はいません。

女子

羽柴秀勝同様、長浜時代に生まれていたとされる秀吉の娘です。母は不明ですが、秀勝同様、秀吉側室の南の方ではないかという説があります。名前すらわかっていないこの娘も長生きはしなかったようで、幼児のうちに亡くなったと言われています。

鶴松

天下人になった後の秀吉と、側室の淀の方(浅井長政娘・茶々)との間に生まれた次男です。秀勝早世後、なかなか後継ぎに恵まれなかった秀吉は鶴松の誕生に狂喜し、「捨て子はよく育つ」という伝承にのっとって「棄(すて)」という幼名を名づけました。

病弱な子供だったようで、たびたび病気になり、そのたびに祈祷などが行われていたようです。秀吉は後継者として大事に育てましたが、鶴松は数え年3歳で亡くなってしまいます。幼児のうちに死亡したため、当然ながら鶴松の子孫も存在しません。

豊臣秀頼

豊臣秀頼像 母の淀の方と縁が深い養源院に伝わる画で成人後の秀頼を描いたもの、養源院には秀頼の墓所もある
出典:Wikipedia

鶴松の死後に生まれた秀吉待望の後継者が豊臣秀頼です。母親は鶴松と同じく、側室の淀の方です。兄の鶴松が「棄(すて)」と名付けられたのに対し、「拾(ひろい)」と名づけられました。秀吉の死亡時には6歳の幼児にすぎず、その後関ヶ原の戦いなどを経た結果、徳川家の配下の一大名になってしまいます。最終的に大坂冬の陣・夏の陣で徳川家と戦い、大阪城落城とともに自害します。この時23歳でした。

豊臣秀頼は、徳川家康の孫娘千姫と結婚していましたが、千姫との間には子供は生まれませんでした。しかし、側室との間に2人の子供を儲けています。

大阪城落城後、秀頼の死体が見つかっていないことなどから、薩摩国に亡命したのでは?と噂されたそうです。大坂夏の陣で死亡せず、薩摩国に亡命していた場合、薩摩国で子孫を残した可能性があります。

豊臣秀頼の子供たち

次に豊臣秀頼に子供はいたのか?を見て行きましょう。

秀吉の実子 豊臣秀頼は徳川家康の孫娘である千姫と結婚していましたが、千姫との間には子供は生まれませんでした。しかし、豊臣秀頼は大坂夏の陣で23歳で亡くなるまでに、側室2人との間に一男一女を儲けていました。

豊臣秀頼の息子と娘がどのような生涯を送ったのか、豊臣秀頼の息子と娘は子孫を残すことができたのかを詳しくご紹介します。

国松

豊臣秀頼と側室の伊茶の方との間に生まれた長男です。父秀頼の正室・千姫をはばかって、大叔母(淀の方の妹)の嫁ぎ先の京極家に引き取られていましたが、大坂の陣の頃に大阪城に入城します。

大阪城落城前に、城を出て潜伏生活を送りましたが、徳川方の探索は免れず、最終的に見つかって斬首されました。この時数え年で8歳だったと言われています。当然のことながら、子孫は残していません。

天秀尼(奈阿姫)

天秀尼像 住職を務めた東慶寺に現在まで伝わる座像
出典:東慶寺公式HP

豊臣秀頼と側室の成田氏との間に生まれた長女です。兄の国松同様、大阪城落城前に城を出て潜伏生活を送りましたが、やはり徳川方に見つかってしまいました。しかし女子であることから、義母の千姫が徳川家康へ助命嘆願を行いました。千姫の助命嘆願は実り、尼僧となることを条件に生き延びることを許されました。

由緒正しい鎌倉の尼寺、東慶寺の尼僧となった後も千姫とは深い絆で結ばれており、東慶寺が江戸幕府から数少ない「縁切寺」と公認されていたのは、千姫との関わりが大きかったと言われています。気丈な性格の持ち主でもあったようで、東慶寺に逃げ込んだある女性を連れ戻しに来た大藩の家臣を追い返したこともあったと伝わります。

天秀尼は37歳で亡くなりますが、尼僧であったため、当然ながら子孫は残していません。彼女の死をもって、公的に豊臣秀吉の子孫は断絶しています。

豊臣秀吉の子孫かもしれない人たち

ここまでご紹介してきた子孫たちは、秀吉の血を引いていると見て間違いない人たちです。しかし、秀吉や秀頼には公的には認められていないが落胤ではないか?と噂されている人たちもいるのです。

もしも彼らが本当に秀吉、秀頼の子だったとするならば、現在まで豊臣秀吉の子孫が残っている可能性があります。ここでは、秀吉の子供と噂される大谷吉継と、秀頼の子供と噂される求厭の2人を紹介します。

大谷吉継

大谷吉継(落合芳幾によって幕末に描かれた浮世絵より 関ケ原の時の大谷吉継を描いた)
出典:Wikipedia

関ケ原の合戦で活躍し散った西軍を代表する武将「大谷吉継」は、実は豊臣秀吉の子孫では?という説があります。

一般的には大谷吉継は、浅井家旧臣の大谷吉房と、秀吉正室北政所の侍女であった東殿との間に生まれた子供だといわれています。しかし母の東殿は秀吉の側室だったとも伝えられており、そこから大谷吉継は実は秀吉と東殿の間の子供ではないか?と言われるようになったそうです。

もしも大谷吉継が豊臣秀吉の子供だった場合、豊臣秀吉の子孫は現存することになるのです。

大谷吉継には3人の息子と1人の娘がいました。大谷吉継の3人の息子たちはそれぞれ子孫を残しており、越前松平家の家老となった子孫もいます。また大谷吉継の娘は真田幸村に嫁ぎ、真田幸村家の跡継ぎを産みました。

求厭

求厭がいた増上寺の三解脱門
出典:Wikipedia

浄土宗の高僧・求厭(ぐえん)もまた豊臣秀吉の子孫だという説があります。

求厭は増上寺の僧侶となった後、各地を周遊し布教活動に励みました。彼は元禄元年、亡くなる間際に、「自分は豊臣秀頼の次男である」と語ったのだそうです。もしも彼が豊臣秀頼の息子だとするのならば、天秀尼の死後も豊臣秀吉、豊臣秀頼の子孫は生存していたことになります。

なお、求厭は僧侶だったため子孫は残していません。

豊臣秀吉の子孫に関するまとめ

大坂夏の陣で豊臣秀頼の死とともに、豊臣秀吉の子孫は断絶したと思われがちですが、実は大坂夏の陣の後も、しばらくは豊臣秀吉の子孫は残っていたことが分かりました。

残念ながら秀吉の孫、秀頼の娘である天秀尼の死を持って豊臣秀吉の子孫は公的には断絶し、現在には豊臣秀吉の子孫は存在しないと考えられます。ただ、落胤説のある大谷吉継の子孫が現代にも続いているため、もしかしたら秀吉の子孫は続いているのかもしれませんね。

この記事が皆さんにとって「豊臣秀吉の子孫は今はこうなっているのか!」「豊臣秀吉の子孫にはこんな人がいたのか!」と思える時間を提供できていれば幸いです。

こちらの記事もおすすめ

豊臣秀吉とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績、お城などについても紹介】 豊臣秀吉の死因は天ぷらの食べ過ぎ?梅毒?有力説と最後の様子を紹介 豊臣秀吉をよく知れるおすすめ本6選【漫画や伝記、小説まで】

コメントを残す