「豊臣秀吉に子孫はいるの?」
「豊臣秀吉の子孫は現在まで続いてるの?」
この記事に訪れたあなたは、このような疑問を持っているのではないでしょうか?豊臣秀吉はなかなか子宝に恵まれず、年をとってから側室の淀殿(よどどの)との間にようやく豊臣秀頼が生まれました。しかし秀頼も徳川家康に攻め滅ぼされてしまったため、秀吉の血は途絶えてしまったと考えられています。
しかし、秀吉の子供は秀頼の他にも存在していた可能性が指摘されていて、今も多くの謎が残っていまるのです。今回の記事では豊臣秀吉の子孫は現在まで続いているのか?について、家系図を元に解説していきます。また、子供や子孫かもしれないと言われている人などについても紹介しますので参考にして下さい。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
豊臣秀吉の子孫は現在まで続いている??
結論から言ってしまうと、今現在豊臣秀吉の子孫は残念ながら途絶えてしまっています。
冒頭でも解説しましたが豊臣秀吉の子供といえば、側室の淀殿との間に生まれた豊臣秀頼が有名です。しかし、秀頼は大坂夏の陣で徳川家康に敗れ若くして自害してしまったため、秀吉直系の子孫は断絶したとされるのが一般的な説となっています。
ただし一方で、秀吉には秀頼以外にも子供がいたとも言われています。また秀頼にも子供がいたという説もあるのです。はたして秀吉には複数の子供がいたのか?あるいは秀頼に子供はいたのか?秀吉の両親や兄弟の家系図から確認していきましょう。
豊臣秀吉の家系図
豊臣秀吉は、足軽出身とも言われていると木下弥右衛門(きのしたやえもん)と、その妻のなかとの間に生まれました。姉には、とも(後に出家して日秀と名乗る)がいます。父の弥右衛門死後、母のなかは竹阿弥(ちくあみ)という男性と再婚して、異父弟の秀長(ひでなが)、異父妹の朝日が生まれています。
朝日は秀吉の家臣や徳川家康と結婚しましたが、子供はいませんでした。秀長には2人の娘と1人の息子がいましたが、いずれも早世し、子孫を残していません。ただ、とも(日秀)の孫娘の完子(かんし)は公家の九条家に嫁ぎ、その血筋は現在の天皇家にもつながっています。
直系の子孫は絶えた
令和の現在、公的には豊臣秀吉の子孫は現存していません。秀吉の子供の中で子孫を残したのは秀頼のみで、秀頼の子供たちはいずれも子孫を残さなかったからです。秀吉の子供、秀頼の子供たちがどのような生涯を送ったのかを簡単にご紹介します。
豊臣秀吉の子供
ここでは、豊臣秀吉の子供一人ずつに迫っていきます。一般的には豊臣秀吉の子供は、豊臣秀頼ただ1人だけと思っている人が多いでしょう。しかし実は、秀吉には他にも2人の息子と1人の娘がいたと言われています。秀吉の3人の息子と1人の娘がそれぞれどのような人生を送ったか、子孫を残しているのかを、生まれた順で紹介していきます。
羽柴秀勝(石松丸)
秀吉が織田信長の家臣、長浜城主時代に生まれたと言われている長男です。母親は秀吉側室の南の方と言われています。
実在が疑問視されるほど記録が残されていませんが、琵琶湖に浮かぶ竹生島に伝わる「竹生島奉加帳」、長浜市の妙法寺に伝わる「羽柴秀勝像」などにその存在が示唆されています。生没年も詳しく分かっていませんが、幼いうちに亡くなってしまったようです。当然秀勝の子供はいません。
女子
羽柴秀勝同様、長浜時代に生まれていたとされる秀吉の娘です。母は不明ですが、秀勝同様、秀吉側室の南の方ではないかという説があります。名前すらわかっていないこの娘も長生きはしなかったようで、幼児のうちに亡くなったと言われています。
鶴松
天下人になった後の秀吉と、側室の淀の方(浅井長政娘・茶々)との間に生まれた次男です。秀勝早世後、なかなか後継ぎに恵まれなかった秀吉は鶴松の誕生に狂喜し、「捨て子はよく育つ」という伝承にのっとって「棄(すて)」という幼名を名づけました。
病弱な子供だったようで、たびたび病気になり、そのたびに祈祷などが行われていたようです。秀吉は後継者として大事に育てましたが、鶴松は数え年3歳で亡くなってしまいます。幼児のうちに死亡したため、当然ながら鶴松の子孫も存在しません。