豊臣秀吉の子孫は現在まで続いてる?家系図と共に解説【父母兄弟も紹介】

豊臣秀頼

豊臣秀頼像 母の淀の方と縁が深い養源院に伝わる画で成人後の秀頼を描いたもの、養源院には秀頼の墓所もある
出典:Wikipedia

鶴松の死後に生まれた秀吉待望の後継者が豊臣秀頼です。母親は鶴松と同じく、側室の淀の方です。兄の鶴松が「棄(すて)」と名付けられたのに対し、「拾(ひろい)」と名づけられました。秀吉の死亡時には6歳の幼児にすぎず、その後関ヶ原の戦いなどを経た結果、徳川家の配下の一大名になってしまいます。最終的に大坂冬の陣・夏の陣で徳川家と戦い、大阪城落城とともに自害します。この時23歳でした。

豊臣秀頼は、徳川家康の孫娘千姫と結婚していましたが、千姫との間には子供は生まれませんでした。しかし、側室との間に2人の子供を儲けています。

大阪城落城後、秀頼の死体が見つかっていないことなどから、薩摩国に亡命したのでは?と噂されたそうです。大坂夏の陣で死亡せず、薩摩国に亡命していた場合、薩摩国で子孫を残した可能性があります。

豊臣秀頼の子供たち

次に豊臣秀頼に子供はいたのか?を見て行きましょう。

秀吉の実子 豊臣秀頼は徳川家康の孫娘である千姫と結婚していましたが、千姫との間には子供は生まれませんでした。しかし、豊臣秀頼は大坂夏の陣で23歳で亡くなるまでに、側室2人との間に一男一女を儲けていました。

豊臣秀頼の息子と娘がどのような生涯を送ったのか、豊臣秀頼の息子と娘は子孫を残すことができたのかを詳しくご紹介します。

国松

豊臣秀頼と側室の伊茶の方との間に生まれた長男です。父秀頼の正室・千姫をはばかって、大叔母(淀の方の妹)の嫁ぎ先の京極家に引き取られていましたが、大坂の陣の頃に大阪城に入城します。

大阪城落城前に、城を出て潜伏生活を送りましたが、徳川方の探索は免れず、最終的に見つかって斬首されました。この時数え年で8歳だったと言われています。当然のことながら、子孫は残していません。

天秀尼(奈阿姫)

天秀尼像 住職を務めた東慶寺に現在まで伝わる座像
出典:東慶寺公式HP

豊臣秀頼と側室の成田氏との間に生まれた長女です。兄の国松同様、大阪城落城前に城を出て潜伏生活を送りましたが、やはり徳川方に見つかってしまいました。しかし女子であることから、義母の千姫が徳川家康へ助命嘆願を行いました。千姫の助命嘆願は実り、尼僧となることを条件に生き延びることを許されました。

由緒正しい鎌倉の尼寺、東慶寺の尼僧となった後も千姫とは深い絆で結ばれており、東慶寺が江戸幕府から数少ない「縁切寺」と公認されていたのは、千姫との関わりが大きかったと言われています。気丈な性格の持ち主でもあったようで、東慶寺に逃げ込んだある女性を連れ戻しに来た大藩の家臣を追い返したこともあったと伝わります。

天秀尼は37歳で亡くなりますが、尼僧であったため、当然ながら子孫は残していません。彼女の死をもって、公的に豊臣秀吉の子孫は断絶しています。

豊臣秀吉の子孫かもしれない人たち

ここまでご紹介してきた子孫たちは、秀吉の血を引いていると見て間違いない人たちです。しかし、秀吉や秀頼には公的には認められていないが落胤ではないか?と噂されている人たちもいるのです。

もしも彼らが本当に秀吉、秀頼の子だったとするならば、現在まで豊臣秀吉の子孫が残っている可能性があります。ここでは、秀吉の子供と噂される大谷吉継と、秀頼の子供と噂される求厭の2人を紹介します。

大谷吉継

大谷吉継(落合芳幾によって幕末に描かれた浮世絵より 関ケ原の時の大谷吉継を描いた)
出典:Wikipedia

関ケ原の合戦で活躍し散った西軍を代表する武将「大谷吉継」は、実は豊臣秀吉の子孫では?という説があります。

一般的には大谷吉継は、浅井家旧臣の大谷吉房と、秀吉正室北政所の侍女であった東殿との間に生まれた子供だといわれています。しかし母の東殿は秀吉の側室だったとも伝えられており、そこから大谷吉継は実は秀吉と東殿の間の子供ではないか?と言われるようになったそうです。

もしも大谷吉継が豊臣秀吉の子供だった場合、豊臣秀吉の子孫は現存することになるのです。

大谷吉継には3人の息子と1人の娘がいました。大谷吉継の3人の息子たちはそれぞれ子孫を残しており、越前松平家の家老となった子孫もいます。また大谷吉継の娘は真田幸村に嫁ぎ、真田幸村家の跡継ぎを産みました。

求厭

求厭がいた増上寺の三解脱門
出典:Wikipedia

浄土宗の高僧・求厭(ぐえん)もまた豊臣秀吉の子孫だという説があります。

求厭は増上寺の僧侶となった後、各地を周遊し布教活動に励みました。彼は元禄元年、亡くなる間際に、「自分は豊臣秀頼の次男である」と語ったのだそうです。もしも彼が豊臣秀頼の息子だとするのならば、天秀尼の死後も豊臣秀吉、豊臣秀頼の子孫は生存していたことになります。

なお、求厭は僧侶だったため子孫は残していません。

豊臣秀吉の子孫に関するまとめ

大坂夏の陣で豊臣秀頼の死とともに、豊臣秀吉の子孫は断絶したと思われがちですが、実は大坂夏の陣の後も、しばらくは豊臣秀吉の子孫は残っていたことが分かりました。

残念ながら秀吉の孫、秀頼の娘である天秀尼の死を持って豊臣秀吉の子孫は公的には断絶し、現在には豊臣秀吉の子孫は存在しないと考えられます。ただ、落胤説のある大谷吉継の子孫が現代にも続いているため、もしかしたら秀吉の子孫は続いているのかもしれませんね。

この記事が皆さんにとって「豊臣秀吉の子孫は今はこうなっているのか!」「豊臣秀吉の子孫にはこんな人がいたのか!」と思える時間を提供できていれば幸いです。

こちらの記事もおすすめ

豊臣秀吉とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績も簡単に紹介】

豊臣秀吉の死因は天ぷらの食べ過ぎ?梅毒?有力説と最後の様子を紹介

【24年1月最新】豊臣秀吉をよく知れるおすすめ本ランキングTOP7

1 2

コメントを残す