江戸幕府の5代将軍・徳川綱吉。彼は「生類憐れみの令」という法律を制定し、動物、特に犬を溺愛した人物として知られています。そのため現在の私たちが綱吉に抱いているのは、ちょっと変わった将軍であり、名君とは程遠いイメージではないでしょうか。
しかし綱吉には殺伐とした戦国時代を終わらせ、天下泰平の江戸時代を作り出した大きな功績があります。
学問を愛し、それを通じて江戸時代に理想的とされる武士の姿を作ったのは綱吉です。また、天下の悪法と言われた生類憐れみの令も、実は戦国時代に人々が忘れかけていた命の重さを思い出させるものでした。
今回はそんな綱吉の意外な姿を紹介していきます。きっと綱吉がいたからこそ、長く平和な江戸時代が続いたことを理解できるに違いありません。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
徳川綱吉とはどんな人か?
名前 | 徳川綱吉(とくがわつなよし) |
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改名 | 徳松(幼名)→綱吉 |
誕生日 | 正保3年1月8日(1646年2月23日) |
生地 | 江戸城 |
没日 | 宝永6年1月10日(1709年2月19日) |
没地 | 江戸城 |
正室 | 鷹司信子(鷹司教平の娘) |
側室 | 瑞春院(伝)、寿光院、清心院、他 |
埋葬場所 | 寛永寺 常憲院霊廟(東京都台東区上野) |
徳川綱吉の生涯をハイライト
その名も「犬公方(いぬくぼう)」と呼ばれていた、江戸幕府の将軍がいます。彼の名は、徳川綱吉(とくがわつなよし)、江戸幕府の5代将軍です。
徳川綱吉は、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の四男坊として誕生した、純徳川将軍家の人間です。元服は7歳で、そのころに綱吉という名前を名乗り、15歳で上野館林藩主(現在の群馬県館林市周辺)となりました。
その後、綱吉の一番上の兄である江戸幕府第4代将軍の徳川家綱(とくがわいえつな)が急死。さらに、次男や三男までも相次いで亡くなったことから、徳川綱吉が将軍職を継ぐこととなったのでした。
将軍となった徳川綱吉は、父である徳川家光に叩き込まれていた儒学の知恵を駆使し、文治政治を行っていくのでした。また、学問の中心地として、現在湯島にある湯島聖堂を設立し、勉学に対しても熱心に支援を行ってきました。
しかし、徳川綱吉が当時頼りにしていた大老の堀田正俊(ほったまさとし)が殺される事件が起こってからは、徳川綱吉の偏った政治がスタートします。この時に作られたのが、かの有名な「生類憐みの令(しょるいあわれみのれい)」です。
徳川綱吉はなんと、自分が亡くなる最期の時までこの「生類憐みの令」を続けるように遺言するほど、この法令に執着します。
しかし、徳川綱吉の思いはむなしく、その意思が次の将軍である第6代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)は「生類憐みの令」を廃止するのでした。
命の重さを知っていた綱吉!天下の悪法からわかる真実
生類憐れみの令は天下の悪法とも言われています。これは綱吉が人間よりも動物を重んじたと誤解されていることが大きな理由ですが、実はこの法律は人間のこともきちんと考えて作られていました。
当時、戦国時代の名残で人々にとって命はとても軽いものでした。生活苦のために生まれてきた子どもの命を奪う、病気で倒れた旅人は死ぬまで放置するなどは当然のように行われていました。
生類憐れみの令はこのような行為を禁止し、すべての命は大切だと人々に思い出させる法律でした。命の安全が保証されて初めて、人々に天下泰平の世を楽しむゆとりが生まれることを綱吉は知っていたのでしょう。
徳川綱吉の生まれや幼少期はどんな感じ?
徳川綱吉は、正保3年1月8日(1646年2月23日)に江戸城に生まれました。幼名は徳松といい、父は江戸幕府3代将軍の徳川家光、母は京都出身の八百屋の娘といわれているお玉(後の桂昌院)です。そのため、生まれた瞬間からロイヤルな人生を歩んでいくことが決定づけられていました。
徳川綱吉には、上に3人の兄と1人の姉、そして1人の弟がいました。徳川綱吉は、徳川家光の四男坊です。
5歳で近江・美濃・信濃・駿河・上野より合計15万石を与えられ、7歳で元服し、名前を綱吉に改名した徳川綱吉は、さらに15歳で上野舘林藩主となるのです。
現在でいうと、中学3年生の年代でいきなり城持ち大名になるのですから、本当に普通とは違う人生であることが分かります。
徳川綱吉は低身長で性格はオタク気質だった
徳川綱吉は、最近の学術調査によって、124cmしかなかった低身長症だったのではないかということが、明らかになっています。
徳川家の菩提寺である愛知県岡崎市にある大樹寺には、歴代将軍が亡くなったときの等身大サイズで作成された位牌があります。徳川綱吉の位牌は124cmでした。
このことから、残された位牌の大きさと、徳川綱吉の遺骨の誤差が5cmもないということが判明したのです。徳川綱吉が当時の成人男性の平均身長といわれている155cmに満たなかったということが判明したのですから、最新の科学技術には驚かされますよね。
また徳川綱吉は、儒学に明るかった父・徳川家光の影響で儒学を叩き込まれていました。そのため、徳川綱吉の政治には儒学が盛り込まれていました。
さらに、「能狂」と呼ばれるほどの能オタクだったともされていて、何かと極端な方向に走る傾向があったと推測できます。
しかし、徳川綱吉についてはこれまで極端な資料報告が誇張されて伝えられている傾向にあることから、近年では徳川綱吉の政治について、再度評価しなおそう、という風潮にもなってきているようです。
生類憐みの令の発布したきっかけと内容について
徳川綱吉といえば、やはり「生類憐みの令」です。生類憐みの令が発布されたのは、徳川綱吉が42歳のころでした。
生類憐みの令の内容は、下記の通りです。
生きている魚や鳥、貝を食用として取引する事は禁止。
牛、馬、病人、捨て子を放置してはいけない。
犬や猫、ネズミや蛇に芸を教えて見世物にしてはいけない。
釣りの禁止。(ただし、地方では守られていなかったようです)
江戸にいる金魚の数を報告するお触れを出す。
犬を殺傷した者を処罰する。
大久保と四谷の住民を強制退去させ、そこに犬小屋を作る。
ドジョウ、鰻の取引を禁止する。
年を追うごとに、その内容がどんどん極端になっていっているのがわかります。
生類憐みの令を発布しようとしたきっかけには諸説あります。まず、自分に後継ぎが生まれなかったのは前世での災いが原因で、その災いを取り除くために極端な動物愛護令を作ったという説です。
もうひとつは、儒学に精通していた徳川綱吉が戦国時代からの野蛮な風潮を改めて、命を守ることを奨励するために作った、という説です。どちらもとても有り得そうな説ですが、いずれにしても極端なこと変わりありませんでした。
徳川綱吉は、死の直前まで生類憐みの令を守るように遺言したものの、その望みは叶えられることはなく、次の将軍徳川家宣によって、生類憐みの令が禁止されることになりました。
徳川綱吉の功績
功績1「学問を奨励した綱吉!湯島聖堂を作る」
幼い頃より儒学を叩き込まれた綱吉は、自ら家臣たちに講義を行うほど儒学に精通していました。
儒学は中国から伝わった学問で、人との関係を結ぶときに大切にするべき、仁・義・礼・智・信という5つの徳について学びました。儒学を学ぶ人々には道徳心が芽生え、誠実な人物へと成長したわけです。
綱吉は儒教を普及させることで、江戸時代全般で通用する理想の武士像を作り出したのです。
また、綱吉が学問の中心地として湯島聖堂を建立したこともあり、綱吉の時代には多くの優れた学者が輩出されました。こうして時代は武士が武力よりも学問を重んじる方向へと変わっていきました。
功績2「文化を育てた綱吉!元禄文化の花を咲かせた?」
綱吉の時代には、井原西鶴を始めとする文化人たちが活躍をしました。好景気だったから活躍できたわけですが、それにも理由があります。
まず農業が発展し、農作物が市場で販売されるようになると、それに伴いさまざまな商業・産業が発展しました。そして庶民の中にも経済力を持つ者が現れ、文化の発展に大きな役割を果たしたのです。
それまで一部の特権階級のものだった文化は、綱吉の時代には庶民が楽しめるものになりました。
このころの文化は文学だけでなく、絵画や舞台(歌舞伎や人形浄瑠璃)など様々な方面に及んでいます。人々は現世を「浮世」と呼び、生きることを楽しみ始めました。
功績3「優れた政治手腕の持ち主!綱吉の天和令とは 」
綱吉の政治的手腕が優れていたことは、天和令という法律からもよくわかります。天和令は武家諸法度という幕府と大名の関係性を定めた法律を、綱吉が改定したものです。
当時、跡継ぎのいない大名では、当主が死の間際に養子縁組をすることが禁じられていました。このため幕府によって多くの大名が取り潰されましたが、同時に街には牢人があふれ、人々を不安にする原因にもなりました。
綱吉はこの禁を緩め、大名たちに歩み寄りの姿勢を示すと同時に社会不安も取り除こうとしました。綱吉が天下泰平の世の中を作ろうとしていたことがよくわかります。
天和令は後に徳川吉宗がそのまま採用したことからも、優れていたことがわかりますね。
徳川綱吉にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「お犬様」に特別待遇
生類憐みの令という、出だしからすでに極端な法令を作った徳川綱吉は、自分が戌年生まれということもあって、犬については特別待遇でした。
犬のことを「お犬様」と呼び、犬に対して特別が過ぎる待遇をしたおかげで、江戸の町は野犬だらけとなり、ついに犬小屋を作ったというエピソードがあるくらいです。
そのため、ただ単にお犬様を大事にした、という私たちのイメージしていた物とは違った結果を生み出したのでした。
都市伝説・武勇伝2「能オタク」
徳川綱吉は、能オタク(能狂)だったとされています。そのオタクっぷりはすさまじく、
- 能を無理やり大名や公家たちに見せた
- 大名や側近たちに能を舞うことを強要した
- 能にある流派をド無視し、無理を押し付けていた
- 既に廃れていた能の題目を突然演じるように命じた
- 徳川綱吉のリクエストを断れば江戸を追放
これだけ見ても、周囲の人や能役者たちはたまったもんじゃありません。この徳川綱吉の能オタクっぷりは、オタクから見ても極端すぎるオタクです。
特に、廃れていた古典能楽を徳川綱吉のために復活させたという能役者達は、とても大変だったことでしょう。
徳川綱吉の略歴年表
徳川綱吉は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の四男坊として、江戸城で誕生します。
徳川綱吉は、5歳で家臣団を与えられます。時を同じくして父・徳川家光が死去し、長男の徳川家綱が第4代将軍となります。
兄である徳川綱吉の右大臣昇進に合わせる形で元服し、徳川綱吉の名前を名乗ります。
徳川綱吉は上野館林藩主となり、弱冠15歳にして15万石の城持ち大名になる。
相次ぐ兄たちの急逝により、徳川綱吉は第5代将軍に就任することになります。
最も信頼していた大老・堀田正俊が刺殺される事件が発生し、側用人だった牧野成貞と柳沢吉保を重用するようになります。
生き物の殺生を禁止する法令、生類憐みの令が発布されました。
学問の中心地として、湯島聖堂を建立する
成人麻疹(はしか)でこの世を去り、おいである徳川家宣が後を継ぐことになります。