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徳川綱吉とはどんな人?生涯・歴史年表まとめ【性格や身長・死因も紹介】

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江戸幕府の5代将軍・徳川綱吉。彼は「生類憐れみの令」という法律を制定し、動物、特に犬を溺愛した人物として知られています。そのため現在の私たちが綱吉に抱いているのは、ちょっと変わった将軍であり、名君とは程遠いイメージではないでしょうか。

徳川綱吉像

しかし綱吉には殺伐とした戦国時代を終わらせ、天下泰平の江戸時代を作り出した大きな功績があります。

学問を愛し、それを通じて江戸時代に理想的とされる武士の姿を作ったのは綱吉です。また、天下の悪法と言われた生類憐れみの令も、実は戦国時代に人々が忘れかけていた命の重さを思い出させるものでした。

今回はそんな綱吉の意外な姿を紹介していきます。きっと綱吉がいたからこそ、長く平和な江戸時代が続いたことを理解できるに違いありません。

徳川綱吉とはどんな人か?

名前徳川綱吉(とくがわつなよし)
改名徳松(幼名)→綱吉
誕生日正保3年1月8日(1646年2月23日)
生地江戸城
没日宝永6年1月10日(1709年2月19日)
没地江戸城
正室鷹司信子(鷹司教平の娘)
側室瑞春院(伝)、寿光院、清心院、他
埋葬場所寛永寺 常憲院霊廟(東京都台東区上野)

徳川綱吉の生涯をハイライト

その名も「犬公方(いぬくぼう)」と呼ばれていた、江戸幕府の将軍がいます。彼の名は、徳川綱吉(とくがわつなよし)、江戸幕府の5代将軍です。

徳川綱吉は、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の四男坊として誕生した、純徳川将軍家の人間です。元服は7歳で、そのころに綱吉という名前を名乗り、15歳で上野館林藩主(現在の群馬県館林市周辺)となりました。

その後、綱吉の一番上の兄である江戸幕府第4代将軍の徳川家綱(とくがわいえつな)が急死。さらに、次男や三男までも相次いで亡くなったことから、徳川綱吉が将軍職を継ぐこととなったのでした。

将軍となった徳川綱吉は、父である徳川家光に叩き込まれていた儒学の知恵を駆使し、文治政治を行っていくのでした。また、学問の中心地として、現在湯島にある湯島聖堂を設立し、勉学に対しても熱心に支援を行ってきました。

綱吉が設立した湯島聖堂(江戸名所図会より)

しかし、徳川綱吉が当時頼りにしていた大老の堀田正俊(ほったまさとし)が殺される事件が起こってからは、徳川綱吉の偏った政治がスタートします。この時に作られたのが、かの有名な「生類憐みの令(しょるいあわれみのれい)」です。

徳川綱吉はなんと、自分が亡くなる最期の時までこの「生類憐みの令」を続けるように遺言するほど、この法令に執着します。

しかし、徳川綱吉の思いはむなしく、その意思が次の将軍である第6代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)は「生類憐みの令」を廃止するのでした。

命の重さを知っていた綱吉!天下の悪法からわかる真実

綱吉の母・桂昌院。綱吉は母のことも大切にしたという

生類憐れみの令は天下の悪法とも言われています。これは綱吉が人間よりも動物を重んじたと誤解されていることが大きな理由ですが、実はこの法律は人間のこともきちんと考えて作られていました。

当時、戦国時代の名残で人々にとって命はとても軽いものでした。生活苦のために生まれてきた子どもの命を奪う、病気で倒れた旅人は死ぬまで放置するなどは当然のように行われていました。

生類憐れみの令はこのような行為を禁止し、すべての命は大切だと人々に思い出させる法律でした。命の安全が保証されて初めて、人々に天下泰平の世を楽しむゆとりが生まれることを綱吉は知っていたのでしょう。

徳川綱吉の生まれや幼少期はどんな感じ?

徳川綱吉は、正保3年1月8日(1646年2月23日)に江戸城に生まれました。幼名は徳松といい、父は江戸幕府3代将軍の徳川家光、母は京都出身の八百屋の娘といわれているお玉(後の桂昌院)です。そのため、生まれた瞬間からロイヤルな人生を歩んでいくことが決定づけられていました。

父は三代将軍徳川家光

徳川綱吉には、上に3人の兄と1人の姉、そして1人の弟がいました。徳川綱吉は、徳川家光の四男坊です。

5歳で近江・美濃・信濃・駿河・上野より合計15万石を与えられ、7歳で元服し、名前を綱吉に改名した徳川綱吉は、さらに15歳で上野舘林藩主となるのです。

現在でいうと、中学3年生の年代でいきなり城持ち大名になるのですから、本当に普通とは違う人生であることが分かります。

徳川綱吉は低身長で性格はオタク気質だった

徳川綱吉は、最近の学術調査によって、124cmしかなかった低身長症だったのではないかということが、明らかになっています。

徳川家の菩提寺である愛知県岡崎市にある大樹寺には、歴代将軍が亡くなったときの等身大サイズで作成された位牌があります。徳川綱吉の位牌は124cmでした。

このことから、残された位牌の大きさと、徳川綱吉の遺骨の誤差が5cmもないということが判明したのです。徳川綱吉が当時の成人男性の平均身長といわれている155cmに満たなかったということが判明したのですから、最新の科学技術には驚かされますよね。

綱吉は当時の平均から見ても背が低かった

また徳川綱吉は、儒学に明るかった父・徳川家光の影響で儒学を叩き込まれていました。そのため、徳川綱吉の政治には儒学が盛り込まれていました。

さらに、「能狂」と呼ばれるほどの能オタクだったともされていて、何かと極端な方向に走る傾向があったと推測できます。

しかし、徳川綱吉についてはこれまで極端な資料報告が誇張されて伝えられている傾向にあることから、近年では徳川綱吉の政治について、再度評価しなおそう、という風潮にもなってきているようです。

生類憐みの令の発布したきっかけと内容について

中野区役所前に建立された生類憐みの令のモニュメント

徳川綱吉といえば、やはり「生類憐みの令」です。生類憐みの令が発布されたのは、徳川綱吉が42歳のころでした。

生類憐みの令の内容は、下記の通りです。

1687年
生きている魚や鳥、貝を食用として取引する事は禁止。
牛、馬、病人、捨て子を放置してはいけない。
1691年
犬や猫、ネズミや蛇に芸を教えて見世物にしてはいけない。
1693年
釣りの禁止。(ただし、地方では守られていなかったようです)
1694年
江戸にいる金魚の数を報告するお触れを出す。
犬を殺傷した者を処罰する。
1695年
大久保と四谷の住民を強制退去させ、そこに犬小屋を作る。
1700年
ドジョウ、鰻の取引を禁止する。

年を追うごとに、その内容がどんどん極端になっていっているのがわかります。

生類憐みの令を発布しようとしたきっかけには諸説あります。まず、自分に後継ぎが生まれなかったのは前世での災いが原因で、その災いを取り除くために極端な動物愛護令を作ったという説です。

動物の愛護のために極端ともいえる法令を乱立させた

もうひとつは、儒学に精通していた徳川綱吉が戦国時代からの野蛮な風潮を改めて、命を守ることを奨励するために作った、という説です。どちらもとても有り得そうな説ですが、いずれにしても極端なこと変わりありませんでした。

徳川綱吉は、死の直前まで生類憐みの令を守るように遺言したものの、その望みは叶えられることはなく、次の将軍徳川家宣によって、生類憐みの令が禁止されることになりました。

徳川綱吉の功績

功績1「学問を奨励した綱吉!湯島聖堂を作る」

東京都文京区の湯島聖堂

幼い頃より儒学を叩き込まれた綱吉は、自ら家臣たちに講義を行うほど儒学に精通していました。

儒学は中国から伝わった学問で、人との関係を結ぶときに大切にするべき、仁・義・礼・智・信という5つの徳について学びました。儒学を学ぶ人々には道徳心が芽生え、誠実な人物へと成長したわけです。

綱吉は儒教を普及させることで、江戸時代全般で通用する理想の武士像を作り出したのです。

また、綱吉が学問の中心地として湯島聖堂を建立したこともあり、綱吉の時代には多くの優れた学者が輩出されました。こうして時代は武士が武力よりも学問を重んじる方向へと変わっていきました。

功績2「文化を育てた綱吉!元禄文化の花を咲かせた?」

小説家の井原西鶴は文化人の代表だった

綱吉の時代には、井原西鶴を始めとする文化人たちが活躍をしました。好景気だったから活躍できたわけですが、それにも理由があります。

まず農業が発展し、農作物が市場で販売されるようになると、それに伴いさまざまな商業・産業が発展しました。そして庶民の中にも経済力を持つ者が現れ、文化の発展に大きな役割を果たしたのです。

それまで一部の特権階級のものだった文化は、綱吉の時代には庶民が楽しめるものになりました。

このころの文化は文学だけでなく、絵画や舞台(歌舞伎や人形浄瑠璃)など様々な方面に及んでいます。人々は現世を「浮世」と呼び、生きることを楽しみ始めました。

功績3「優れた政治手腕の持ち主!綱吉の天和令とは 」

死の間際のイメージ

綱吉の政治的手腕が優れていたことは、天和令という法律からもよくわかります。天和令は武家諸法度という幕府と大名の関係性を定めた法律を、綱吉が改定したものです。

当時、跡継ぎのいない大名では、当主が死の間際に養子縁組をすることが禁じられていました。このため幕府によって多くの大名が取り潰されましたが、同時に街には牢人があふれ、人々を不安にする原因にもなりました。

綱吉はこの禁を緩め、大名たちに歩み寄りの姿勢を示すと同時に社会不安も取り除こうとしました。綱吉が天下泰平の世の中を作ろうとしていたことがよくわかります。

天和令は後に徳川吉宗がそのまま採用したことからも、優れていたことがわかりますね。

徳川綱吉にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「お犬様」に特別待遇

犬に特別深い情熱を注いでいた

生類憐みの令という、出だしからすでに極端な法令を作った徳川綱吉は、自分が戌年生まれということもあって、犬については特別待遇でした。

犬のことを「お犬様」と呼び、犬に対して特別が過ぎる待遇をしたおかげで、江戸の町は野犬だらけとなり、ついに犬小屋を作ったというエピソードがあるくらいです。

そのため、ただ単にお犬様を大事にした、という私たちのイメージしていた物とは違った結果を生み出したのでした。

都市伝説・武勇伝2「能オタク」

能(翁奉納 春日神社)

徳川綱吉は、能オタク(能狂)だったとされています。そのオタクっぷりはすさまじく、

  • 能を無理やり大名や公家たちに見せた
  • 大名や側近たちに能を舞うことを強要した
  • 能にある流派をド無視し、無理を押し付けていた
  • 既に廃れていた能の題目を突然演じるように命じた
  • 徳川綱吉のリクエストを断れば江戸を追放

これだけ見ても、周囲の人や能役者たちはたまったもんじゃありません。この徳川綱吉の能オタクっぷりは、オタクから見ても極端すぎるオタクです。

特に、廃れていた古典能楽を徳川綱吉のために復活させたという能役者達は、とても大変だったことでしょう。

徳川綱吉の略歴年表

1646年
徳川綱吉、江戸城に生まれる
徳川綱吉は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の四男坊として、江戸城で誕生します。
1651年
若くしていきなり激動の展開
徳川綱吉は、5歳で家臣団を与えられます。時を同じくして父・徳川家光が死去し、長男の徳川家綱が第4代将軍となります。
1653年
元服し、綱吉を名乗る
兄である徳川綱吉の右大臣昇進に合わせる形で元服し、徳川綱吉の名前を名乗ります。
1661年
城持ち大名になる
徳川綱吉は上野館林藩主となり、弱冠15歳にして15万石の城持ち大名になる。
1680年
第5代将軍に就任
相次ぐ兄たちの急逝により、徳川綱吉は第5代将軍に就任することになります。
1684年
大老・堀田正俊が刺殺される
最も信頼していた大老・堀田正俊が刺殺される事件が発生し、側用人だった牧野成貞と柳沢吉保を重用するようになります。
1687年
生類憐みの令を発布
生き物の殺生を禁止する法令、生類憐みの令が発布されました。
1691年
湯島聖堂を建立
学問の中心地として、湯島聖堂を建立する
1709年
成人麻疹で死去
成人麻疹(はしか)でこの世を去り、おいである徳川家宣が後を継ぐことになります。

徳川綱吉の具体年表

1646年 – 0歳「徳川綱吉、江戸城で誕生する」

1646年、現役将軍の四男として誕生する

江戸城

徳川綱吉は1646年に江戸城で誕生します。家族構成は、下記の通りです。

  • 父:徳川家光(江戸幕府第3代将軍)
  • 母:お玉(後の桂昌院)
  • 長男:家綱(後の江戸幕府第4代将軍)
  • 次男:亀松(夭逝/早くして亡くなる)
  • 三男:綱重
  • 五男:鶴松
  • 姉:千代姫

徳川綱吉の幼少の名前は「徳松(とくまつ)」といいます。

徳川綱吉は、現役将軍の実子として江戸城で誕生しています。

つまり、既にエリートコース確定だったというわけです。

しかし、徳川綱吉は将軍の息子とはいえ四男だったこともあり、将来的に彼が将軍になることは到底周りからも期待されていませんでした。

1651年 – 5歳「いきなり家臣団を付けられるも、父・家光の死去で兄が将軍となる」

5歳で家臣団を持つ

父 三代将軍徳川家光

将来を期待されなかったとはいえ、徳川綱吉は5歳の時に三男の長松(後の徳川綱重)と共に、いきなり15万国をもらった上に、家臣団を付けられます。

その場所は、近江(現在の滋賀県)、美濃(現在の岐阜県)、信濃(現在の長野県)、駿河(現在の静岡県)、そして上野(現在の群馬県)に相当する範囲です。

5歳といえば、小学校に入る前の年代。この年からいきなり広大な土地が与えられ、さらに家臣団が付けられるなんて、さすがは将軍の息子です。

父・徳川家光が亡くなる

綱吉の兄 徳川家宣像

同じころ、父の徳川家光が亡くなります。幼い徳川綱吉にとっては衝撃だったことでしょう。そして、父の代わりに将軍となったのは、長男である徳川家宣でした。

1653年 – 7歳「元服」

名前を綱吉と名乗るようになる

将軍となった長男の徳川家宣が右大臣に昇進します。これに合わせるような形で徳川綱吉は元服をし、名前を「綱吉」とするようになります。

1661年 – 15歳「城持ち大名になる」

いきなり城持ち大名になる

館林城本丸跡

元服し、大人と認められた徳川綱吉は、上野館林藩の藩主へ任命されます。

つまり、いきなり25万石の城持ち大名になったということです。

最初に与えられた土地から、さらに10万石も増えていますよね。

これにより、後々に第8代将軍・徳川吉宗が将軍になる際の後継者争いで登場する、館林徳川家が誕生したのでした。

1680年 – 34歳「城持ち大名になる」

将軍後継ぎ問題により、家督を継ぐために江戸城に入る

「江戸城登城風景図屏風」

将軍となった兄の徳川家綱には、後継ぎを担う男子が生まれませんでいた。これにより、自分の兄弟を、家督を継承させるために養子縁組をする養嗣子(ようしし)として任命しなければならなくなりました。

しかし、ことの時すでに次男は3歳で亡くなっており、さらに三男の徳川綱重も1678年に35歳の若さで亡くなっていたことから、四男である徳川綱吉にその権利が回ってきたのでした。

兄・徳川家綱が亡くなり、第5代将軍となる

その後すぐ、兄の徳川家重もこの世を去りました。こうして、徳川綱吉が第5代江戸幕府将軍となったのでした。

この時に、徳川家綱の時に手腕を発揮していた大老・酒井忠清は、徳川綱吉の将軍任命に反対をするものの、徳川綱吉の世話をしていた老中・堀田正俊がその説得に一役買ったと言われています。

こうして、徳川綱吉は将軍となり、これで大老職として働いていた酒井忠清から、堀田正俊へ任命しなおし、新たな政治を行います。これが、「天和の治」と呼ばれるものです。

第5代将軍となった徳川綱吉

「天和の治」というのは、善い行いを行うことを指していて、不正を働く代官や問題を持っていた大名を処分し、不正を改めるというものでした。

また、幼い頃より学問、特に儒学に傾倒していた徳川綱吉は、儒学の教え通りに徳を重んじる文治政治を展開していきました。

1684年 – 38歳「ショック!大老・堀田正俊殺傷事件が発生」

大老・堀田正俊刺殺事件が発生!

信頼のおける部下を失う

しかし、悲劇は起こります。徳川綱吉が大変な信頼をおいていた大老の堀田正俊が、部下である若年寄の稲葉正休に刺殺される事件が勃発します。

徳川綱吉の「天和の治」をリードしてきた堀田正俊の死に、徳川綱吉は衝撃を受けたことでしょう。

ことの経緯は発狂のためとされていますが、実はこの時、生類憐みの令発布に際して、徳川綱吉と堀田正俊の間で意見が分かれたという説もあります。

現在でも様々な憶測が飛び交っていますが、堀田正俊を刺殺した稲葉正休も、その場で殺されていることもあり、この事件の真相は謎のままです。

江戸城震撼、徳川綱吉の様子がおかしい?

絹本著色柳沢吉保像

堀田正俊の代わりとなったのが、側用人の柳沢吉保と牧野成貞のツートップです。柳沢吉保といえば、徳川綱吉の寵愛を受けた人物というだけでなく、しっかりと徳川綱吉の時代の政治をリードしてきた人物です。

しかしながら、堀田正俊刺殺事件以降、徳川綱吉の様子がおかしくなります。なんと、徳川綱吉は奥御殿と呼ばれるプライベートゾーンに引きこもり、執務を執るようになったのです。

こうして、徳川綱吉と老中達の間では距離が出来上がってしまい、その間を取り持っていたのが、柳沢吉保と牧野成貞だったのでした。

1687年 – 41歳「徳川綱吉、生類憐みの令を発布」

ついに生類憐みの令が発布される

富士山に大穴を開けた大噴火による宝永山の出現は綱吉や重秀の悪政の証拠の一つとされた

そしてついに、徳川綱吉は、堀田正俊に反対を受けていた「生類憐みの令」を発布するのです。

生類憐みの令では、無益な生物の殺生を禁止するという、何とも無茶ぶりの効いた内容が次々に追加発布されていきます。

さらに、タイミング悪く貨幣の改鋳も行うなど、その政治は迷走を極めていくのでした。こうして、徳川綱吉が行った偏った政治については、現代に”悪政”という形で残ってしまうのでした。

1691年 – 46歳「学問の聖地、湯島聖堂を建立する]

あの湯島聖堂が生まれる

湯島聖堂(江戸名所図会より)

徳川綱吉は、偏った傾向になる政治手腕で”悪政”を行っただけではありません。この時に、受験シーズンに多くの受験生がお参りに行くことでおなじみ、学問の聖地である湯島聖堂を建立するのです。

湯島聖堂とは、儒学の祖とされている孔子を祭る孔子廟のことを指し、後に幕府直轄の学問所となった場所です。

1709年 – 64歳「徳川綱吉、死去」

徳川綱吉が亡くなる

最後は病に倒れてしまう

徳川綱吉は、1709年に、成人麻疹(はしか)となり、これが原因でこの世を去るのでした。享年64歳でした。

この時、徳川綱吉にも男子の跡取りがいない状況でした。これにより、兄・徳川綱重の子である甲府徳川家の徳川綱豊を後継者として立てるのでした。後の徳川家宣です。

気になる生類憐みの令のその後

徳川綱吉が作った生類憐みの令のその後はというと、徳川家宣が将軍になった後、すぐに廃止されたといわれています。

しかし、鷹狩においては、徳川吉宗が8代将軍に着任するまで復活することはありませんでした。

徳川綱吉の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

大江戸釣客伝(上下合本版) (講談社文庫)


かの有名な小説家・夢枕獏が執筆した、徳川綱吉時代の小説です。釣りがテーマの、人情物語となっています。

生類憐みの令は、釣り人達にも大きな衝撃や影響を与えていますが、まさにその時代を江型作品です。

最悪の将軍 (集英社文芸単行本)


徳川綱吉とその妻である信子の視点から描いている歴史小説です。こちらの作品は、直木賞作家である朝井まかてが作り上げています。

徳川綱吉の時代には、天災だけではなく、赤穂浪士討入事件などといった難事が多く発生しています。これに対しての徳川綱吉夫妻の視点で描いているところが、私たちの徳川綱吉に抱くイメージを払しょくしてくれるかもしれませんね。

徳川綱吉 (人物叢書)


こちらも、徳川綱吉は本当に悪政をしたのか否かについて、歴史上の事実を元に徳川綱吉と本気で向き合った小説となっています。

世間の常識に囚われない、徳川綱吉をご覧になりたいあなた向けの一冊です。

おすすめ動画

徳川綱吉 実は稀に見る名君だった!?

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徳川綱吉を演じるのは、菅野美穂。男女が逆転しても、その愛憎劇は健在です。豪華絢爛なビジュアルにも注目です。

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徳川綱吉が将軍人になるまでの跡目争いをメインにした映画作品です。

なんとアクションシーンを交えて描かれているので、アクション映画好きには必見の時代劇映画に仕上がっています。

徳川綱吉に関するおすすめドラマ

新解釈・日本史(第7話)


人気俳優のムロツヨシが主演の、教科書では語られない偉人の姿を描く1話完結型のドラマです。こちらの第7話に、徳川綱吉の回が取り上げられれています。

「何故、将軍綱吉は生類憐みの令を発令したのか」というタイトルでお届けする新解釈・徳川綱吉をお楽しみください。

関連外部リンク

徳川綱吉についてのまとめ

今回は、犬公方・徳川綱吉について余すことなくお送りしましたが、いかがでしたでしょうか。

偏った行動が目立ち”悪政”と呼ばれる政治を行ったとはいえ、その裏には儒学の精神を重んじる一面があったりと、意外な人物像が見えてきたのがとても味深かったです。

また、湯島聖堂を建立するという実績においては、私たちの学問に対する意欲を増幅させてくれていますし、今でも受験生の強い味方になっていることから、徳川綱吉の功績は再評価されても良いのではないか、と考えます。

この記事を通して、犬公方だけではない徳川綱吉の一面をより深く知って貰えたら幸いです。

その人物像に対する自分の思いを伝えつつ、「まとめ」となるように3.4文ほどでスッキリと執筆してください。比較的自由に書いていただいて構いません。本文とは違い、個性を出していただいて構いません。

その人物像に対する自分の思いを伝えつつ、「まとめ」となるように3.4文ほどでスッキリと執筆してください。比較的自由に書いていただいて構いません。本文とは違い、個性を出していただいて構いません。

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