徳川綱吉とはどんな人?生涯・歴史年表まとめ【性格や身長・死因も紹介】

徳川綱吉の具体年表

1646年 – 0歳「徳川綱吉、江戸城で誕生する」

1646年、現役将軍の四男として誕生する

江戸城

徳川綱吉は1646年に江戸城で誕生します。家族構成は、下記の通りです。

  • 父:徳川家光(江戸幕府第3代将軍)
  • 母:お玉(後の桂昌院)
  • 長男:家綱(後の江戸幕府第4代将軍)
  • 次男:亀松(夭逝/早くして亡くなる)
  • 三男:綱重
  • 五男:鶴松
  • 姉:千代姫

徳川綱吉の幼少の名前は「徳松(とくまつ)」といいます。

徳川綱吉は、現役将軍の実子として江戸城で誕生しています。

つまり、既にエリートコース確定だったというわけです。

しかし、徳川綱吉は将軍の息子とはいえ四男だったこともあり、将来的に彼が将軍になることは到底周りからも期待されていませんでした。

1651年 – 5歳「いきなり家臣団を付けられるも、父・家光の死去で兄が将軍となる」

5歳で家臣団を持つ

父 三代将軍徳川家光

将来を期待されなかったとはいえ、徳川綱吉は5歳の時に三男の長松(後の徳川綱重)と共に、いきなり15万国をもらった上に、家臣団を付けられます。

その場所は、近江(現在の滋賀県)、美濃(現在の岐阜県)、信濃(現在の長野県)、駿河(現在の静岡県)、そして上野(現在の群馬県)に相当する範囲です。

5歳といえば、小学校に入る前の年代。この年からいきなり広大な土地が与えられ、さらに家臣団が付けられるなんて、さすがは将軍の息子です。

父・徳川家光が亡くなる

綱吉の兄 徳川家宣像

同じころ、父の徳川家光が亡くなります。幼い徳川綱吉にとっては衝撃だったことでしょう。そして、父の代わりに将軍となったのは、長男である徳川家宣でした。

1653年 – 7歳「元服」

名前を綱吉と名乗るようになる

将軍となった長男の徳川家宣が右大臣に昇進します。これに合わせるような形で徳川綱吉は元服をし、名前を「綱吉」とするようになります。

1661年 – 15歳「城持ち大名になる」

いきなり城持ち大名になる

館林城本丸跡

元服し、大人と認められた徳川綱吉は、上野館林藩の藩主へ任命されます。

つまり、いきなり25万石の城持ち大名になったということです。

最初に与えられた土地から、さらに10万石も増えていますよね。

これにより、後々に第8代将軍・徳川吉宗が将軍になる際の後継者争いで登場する、館林徳川家が誕生したのでした。

1680年 – 34歳「城持ち大名になる」

将軍後継ぎ問題により、家督を継ぐために江戸城に入る

「江戸城登城風景図屏風」

将軍となった兄の徳川家綱には、後継ぎを担う男子が生まれませんでいた。これにより、自分の兄弟を、家督を継承させるために養子縁組をする養嗣子(ようしし)として任命しなければならなくなりました。

しかし、ことの時すでに次男は3歳で亡くなっており、さらに三男の徳川綱重も1678年に35歳の若さで亡くなっていたことから、四男である徳川綱吉にその権利が回ってきたのでした。

兄・徳川家綱が亡くなり、第5代将軍となる

その後すぐ、兄の徳川家重もこの世を去りました。こうして、徳川綱吉が第5代江戸幕府将軍となったのでした。

この時に、徳川家綱の時に手腕を発揮していた大老・酒井忠清は、徳川綱吉の将軍任命に反対をするものの、徳川綱吉の世話をしていた老中・堀田正俊がその説得に一役買ったと言われています。

こうして、徳川綱吉は将軍となり、これで大老職として働いていた酒井忠清から、堀田正俊へ任命しなおし、新たな政治を行います。これが、「天和の治」と呼ばれるものです。

第5代将軍となった徳川綱吉

「天和の治」というのは、善い行いを行うことを指していて、不正を働く代官や問題を持っていた大名を処分し、不正を改めるというものでした。

また、幼い頃より学問、特に儒学に傾倒していた徳川綱吉は、儒学の教え通りに徳を重んじる文治政治を展開していきました。

1684年 – 38歳「ショック!大老・堀田正俊殺傷事件が発生」

大老・堀田正俊刺殺事件が発生!

信頼のおける部下を失う

しかし、悲劇は起こります。徳川綱吉が大変な信頼をおいていた大老の堀田正俊が、部下である若年寄の稲葉正休に刺殺される事件が勃発します。

徳川綱吉の「天和の治」をリードしてきた堀田正俊の死に、徳川綱吉は衝撃を受けたことでしょう。

ことの経緯は発狂のためとされていますが、実はこの時、生類憐みの令発布に際して、徳川綱吉と堀田正俊の間で意見が分かれたという説もあります。

現在でも様々な憶測が飛び交っていますが、堀田正俊を刺殺した稲葉正休も、その場で殺されていることもあり、この事件の真相は謎のままです。

江戸城震撼、徳川綱吉の様子がおかしい?

絹本著色柳沢吉保像

堀田正俊の代わりとなったのが、側用人の柳沢吉保と牧野成貞のツートップです。柳沢吉保といえば、徳川綱吉の寵愛を受けた人物というだけでなく、しっかりと徳川綱吉の時代の政治をリードしてきた人物です。

しかしながら、堀田正俊刺殺事件以降、徳川綱吉の様子がおかしくなります。なんと、徳川綱吉は奥御殿と呼ばれるプライベートゾーンに引きこもり、執務を執るようになったのです。

こうして、徳川綱吉と老中達の間では距離が出来上がってしまい、その間を取り持っていたのが、柳沢吉保と牧野成貞だったのでした。

1687年 – 41歳「徳川綱吉、生類憐みの令を発布」

ついに生類憐みの令が発布される

富士山に大穴を開けた大噴火による宝永山の出現は綱吉や重秀の悪政の証拠の一つとされた

そしてついに、徳川綱吉は、堀田正俊に反対を受けていた「生類憐みの令」を発布するのです。

生類憐みの令では、無益な生物の殺生を禁止するという、何とも無茶ぶりの効いた内容が次々に追加発布されていきます。

さらに、タイミング悪く貨幣の改鋳も行うなど、その政治は迷走を極めていくのでした。こうして、徳川綱吉が行った偏った政治については、現代に”悪政”という形で残ってしまうのでした。

1691年 – 46歳「学問の聖地、湯島聖堂を建立する]

あの湯島聖堂が生まれる

湯島聖堂(江戸名所図会より)

徳川綱吉は、偏った傾向になる政治手腕で”悪政”を行っただけではありません。この時に、受験シーズンに多くの受験生がお参りに行くことでおなじみ、学問の聖地である湯島聖堂を建立するのです。

湯島聖堂とは、儒学の祖とされている孔子を祭る孔子廟のことを指し、後に幕府直轄の学問所となった場所です。

1709年 – 64歳「徳川綱吉、死去」

徳川綱吉が亡くなる

最後は病に倒れてしまう

徳川綱吉は、1709年に、成人麻疹(はしか)となり、これが原因でこの世を去るのでした。享年64歳でした。

この時、徳川綱吉にも男子の跡取りがいない状況でした。これにより、兄・徳川綱重の子である甲府徳川家の徳川綱豊を後継者として立てるのでした。後の徳川家宣です。

徳川綱吉の死因とは?江戸時代に流行した「麻疹」の特徴や綱吉の体格・性格も紹介

気になる生類憐みの令のその後

徳川綱吉が作った生類憐みの令のその後はというと、徳川家宣が将軍になった後、すぐに廃止されたといわれています。

しかし、鷹狩においては、徳川吉宗が8代将軍に着任するまで復活することはありませんでした。

徳川綱吉の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

大江戸釣客伝(上下合本版) (講談社文庫)


かの有名な小説家・夢枕獏が執筆した、徳川綱吉時代の小説です。釣りがテーマの、人情物語となっています。

生類憐みの令は、釣り人達にも大きな衝撃や影響を与えていますが、まさにその時代を江型作品です。

最悪の将軍 (集英社文芸単行本)


徳川綱吉とその妻である信子の視点から描いている歴史小説です。こちらの作品は、直木賞作家である朝井まかてが作り上げています。

徳川綱吉の時代には、天災だけではなく、赤穂浪士討入事件などといった難事が多く発生しています。これに対しての徳川綱吉夫妻の視点で描いているところが、私たちの徳川綱吉に抱くイメージを払しょくしてくれるかもしれませんね。

徳川綱吉 (人物叢書)


こちらも、徳川綱吉は本当に悪政をしたのか否かについて、歴史上の事実を元に徳川綱吉と本気で向き合った小説となっています。

世間の常識に囚われない、徳川綱吉をご覧になりたいあなた向けの一冊です。

おすすめ動画

徳川綱吉 実は稀に見る名君だった!?

生類憐みの令によって悪政を敷いていたといわれた徳川綱吉を、あえて名君であった理由を中心にまとめた動画となっています。

おすすめ映画

大奥~永遠~[右衛門佐・綱吉篇]

よしながふみ原作のコミックスを実写映画化した、男女逆転の新たな時代劇「大奥」の徳川綱吉編です。

徳川綱吉を演じるのは、菅野美穂。男女が逆転しても、その愛憎劇は健在です。豪華絢爛なビジュアルにも注目です。

江戸城大乱

徳川綱吉が将軍人になるまでの跡目争いをメインにした映画作品です。

なんとアクションシーンを交えて描かれているので、アクション映画好きには必見の時代劇映画に仕上がっています。

徳川綱吉に関するおすすめドラマ

新解釈・日本史(第7話)


人気俳優のムロツヨシが主演の、教科書では語られない偉人の姿を描く1話完結型のドラマです。こちらの第7話に、徳川綱吉の回が取り上げられれています。

「何故、将軍綱吉は生類憐みの令を発令したのか」というタイトルでお届けする新解釈・徳川綱吉をお楽しみください。

関連外部リンク

徳川綱吉についてのまとめ

今回は、犬公方・徳川綱吉について余すことなくお送りしましたが、いかがでしたでしょうか。

偏った行動が目立ち”悪政”と呼ばれる政治を行ったとはいえ、その裏には儒学の精神を重んじる一面があったりと、意外な人物像が見えてきたのがとても味深かったです。

また、湯島聖堂を建立するという実績においては、私たちの学問に対する意欲を増幅させてくれていますし、今でも受験生の強い味方になっていることから、徳川綱吉の功績は再評価されても良いのではないか、と考えます。

この記事を通して、犬公方だけではない徳川綱吉の一面をより深く知って貰えたら幸いです。

その人物像に対する自分の思いを伝えつつ、「まとめ」となるように3.4文ほどでスッキリと執筆してください。比較的自由に書いていただいて構いません。本文とは違い、個性を出していただいて構いません。

その人物像に対する自分の思いを伝えつつ、「まとめ」となるように3.4文ほどでスッキリと執筆してください。比較的自由に書いていただいて構いません。本文とは違い、個性を出していただいて構いません。

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