渥美清さんは病弱だった?
幼少期にはさまざまな病気を患っていた
渥美さんの生まれた家庭は貧しく、幼少のころから病弱だったそうです。小学生時代にはご飯をまともに食べられない欠食児童で、病弱に拍車がかかりさまざまな病気を患っています。
小学3年次と4年次では長期にわたって体調を崩し、小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタルなどを患い学校も欠席がちな子供でした。休養しているあいだは日がな一日ラジオを聞いて過ごし、覚えた落語を学校に行ったときに披露していたというエピソードも残っています。
26歳で肺結核にかかり右肺を切除した
渥美さんは26歳の時に肺結核を患い、右肺を摘出するという大手術を経験しています。
そのころの渥美さんは浅草の舞台に喜劇俳優として出演していて、テレビや映画などでの活躍を夢見て精力的に活動していました。しかし手術後は長期療養を余儀なくされ、埼玉県にあった保養所で2年間ほど療養生活を送ります。
この保養所での療養生活が渥美さんの運命を変えたといいます。肺を片方失ったことによって以前のようなドタバタ劇を演じることに限界を感じ、話芸や演技を磨くことで新たな活動へつなげようと努力した結果、テレビや映画の仕事が舞い込んでくるようになったのです。
復帰後渥美さんは酒やタバコを辞めて、コーヒーさえも飲まなくなるほど摂生した生活に努め、体を大事にするようになりました。
闘病生活中の様子
「男はつらいよ」への出演
渥美さんは闘病中も「男はつらいよ」に出演を続けていましたが、撮影は渥美さんにとってかなり無理をしての仕事だったといいます。映画の内容も1989年公開の第42作から主人公「寅さん」の甥である「満男」にスポットを当てたサブストーリーに移行し始めます。
体調が優れない渥美さんに配慮し立って演じるシーンを極力減らしていましたが、晩年は立っていることもつらくなり座っての演技が徐々に増えていきました。
肝臓がんが発覚した1991年に公開された44作目の撮影の際には、もはや人と笑顔であいさつを交わすことさえ辛かったようです。渥美さんの病状を知らないスタッフやファンの目にはこの態度が不愛想に映ったようで、渥美さんに批判的な意見を持つ人も少なくありませんでした。
亡くなるまで病気を隠し続けた
渥美さんはがんを患って入退院を繰り返しながら手術をうけていることを、家族や一部の人以外には公表していませんでした。世間はもちろん「男はつらいよ」のスタッフや山田洋次監督にも打ち明けていなかったと言います。
もともと渥美さんは「寅さん」というキャラクターを守るため、自分のプライベートをさらけ出すようなことはありませんでした。役者として真摯に役に向かい、ストイックに仕事と向き合ってきた渥美さんの人柄がよくわかります。
最期の時も「家族だけで看取ること」「世間への発表は荼毘に付した後にすること」などの遺言を残し、亡くなった3日後の1996年8月7日に松竹から訃報が公表されました。
渥美清さんの葬儀
葬儀は家族だけの「密葬」だった
渥美清さんの葬儀は渥美さんの遺言によって、家族だけで行う「密葬」を東京の町屋斎場で行われました。「男はつらいよ」の山田洋次監督や芸能関係者にも一切知らせず、監督らがそれを知ったのは葬儀を終えて荼毘に付した後でした。
実は「密葬」という言葉を世間に広めたのは渥美さんだと説明する葬儀屋もあるといいます。世間的には別れの会を開催し、事前に行われる家族や近親者で行う葬儀を「密葬」と呼ぶようになったのが渥美さんの葬儀からなのだとか。
山田洋次監督が弔辞を読んだお別れの会
渥美さんのお別れの会は神奈川県鎌倉市にある松竹の大船撮影所で1996年8月13日に開催されました。お別れの会には渥美さんを慕う芸能人や映画関係者、全国から集まったファンたちが約4万人も訪れ、会場から最寄り駅まで長蛇の列ができたそうです。
弔辞を読んだのは山田洋次監督で映画の撮影で渥美さんに無理をさせたことに対する謝罪と、27年間48作にわたって苦楽をともにしたことへの感謝を述べています。
「男はつらいよ」での共演者たちも渥美さんではなく、「寅さん」や「お兄ちゃん」といった呼びかけで声をかけ渥美さんとの別れを惜しみました。
渥美清死因に関するまとめ
いかがでしたか?
渥美清さんの死因は肝臓がんから転移した肺がんでした。しかしがんを患っていることを家族と一部の人以外にはひた隠しにして、最後まで「寅さん」を演じ切った渥美さんは間違いなく素晴らしい俳優でしょう。
そんな渥美さんの心意気が詰まった「男はつらいよ」は、もし見たことないならぜひご覧になってほしい作品です!