大久保利通の死因となった暗殺事件「紀尾井坂の変」とは?黒幕や影響も解説

「大久保利通の死因は?」
「大久保利通はなぜ暗殺されたの?」
「大久保が暗殺された場所や犯人は?」

この記事をご覧のあなたはそんな疑問を持っていませんか?幕末から明治時代の初期に活躍した大久保利通は明治維新の原動力にもなり、近代日本の礎を築き上げた偉人であると同時に、凄惨な最期を迎えた人物としても知られています。

大久保利通の肖像
出典:Wikipedia

今回の記事では、そんな大久保利通の死因や最期の状況、暗殺した人物などをわかりやすく解説します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

大久保利通が暗殺された「紀尾井坂の変」とは?

大礼服と軍刀を身に着けた大久保利通
出典:Wikipedia

大久保利通は明治時代の初期に、刺客たちの手によって49歳の時に暗殺されました。大久保が暗殺された事件を「紀尾井坂の変(きおいざかのへん)」と言い、その最期は極めて凄惨なものだったと伝わっています。

明治維新の立役者の一人でもあり、日本の近代化を推し進めていた大久保利通は、なぜ暗殺されてしまったのでしょうか?

大久保利通が暗殺された理由

志士時代の大久保利通
出典:Wikipedia

大久保利通が暗殺された理由を簡単に言い表すと「独善的な政治を行ってしまったから」です。

当時はヨーロッパやアメリカなどの列強国の脅威が、日本にも迫っていた時代でした。日本が列強国に侵略されないようにするためには、日本を強い国にしなければなりません。ゆえに大久保は、日本の近代化や富国強兵を急ぎました。

しかし、近代化を急ぐあまり大久保の政治は独善的になってしまい、不満を抱く者たちが続出します。特にもともと武士階級だった人たち(士族)は、大久保の政策によって江戸時代に持っていた武士の特権を剥奪され、一般庶民と変わらない身分になってしまいました。結果、大久保に対する大きな恨みが爆発し、暗殺へと繋がってしまったのです。

紀尾井坂の変が起こった時期や場所

現在の紀尾井坂
出典:Wikipedia

紀尾井坂の変は明治11年(1878年)5月14日の午前8時30分頃に起こりました。場所は、現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷のあたりです。事件の名前は暗殺現場に由来しており「紀尾井町事件」や「紀尾井坂事件」とも呼ばれています。

東京都千代田区には「紀尾井坂」という約200メートルほどの坂が現存しており、近くの清水谷公園には「紀尾井坂の碑」が建てられています。ただし、大久保が暗殺されたのは紀尾井坂ではなく、厳密には千代田区紀尾井町清水谷に差しかかったあたりだったとも言われています。

暗殺された時の状況

紀尾井坂の変の石碑
出典:Wikipedia

大久保は明治天皇に会うため、午前8時頃に従者1人と馬車の運転手の計3人で自宅を出発した後、刺客たちに襲われます。大久保の政策に不満を募らせた士族6名が大久保の乗っていた馬車を襲撃、同行していた従者は何とか逃げ延びましたが、馬車の運転手は刺殺されました。

事態を察した大久保は刺客たちに対し「無礼者!!」と一喝しましたが、武装をしていなかった大久保は馬車から引きずり出され、満足に抵抗もできぬまま刺客に斬りつけられて亡くなったのです。

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