大久保利通の死因となった暗殺事件「紀尾井坂の変」とは?黒幕や影響も解説

事件の黒幕は?

大久保利通の肖像
出典:Wikipedia

大久保利通を暗殺したのは前述の通り、大久保の政策に不満を募らせた6名の士族たちでした。実名を挙げると石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、島根県士族の浅井寿篤の計6名で、島田一郎が中心人物だったと言われています。

6名の士族がなぜ大久保利通暗殺に至ったのか、具体的に見て行きましょう。

西郷隆盛との意見の違いが暗殺者を生んだ

大久保利通の盟友 西郷隆盛の肖像
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大久保の独善的な政治が暗殺に繋がったことはすでに述べましたが、大久保利通と西郷隆盛のすれ違いも暗殺者を生んだ一つの原因です。

西郷は大久保の幼馴染で盟友として知られていますが、明治維新を成し遂げた後、政治の方針を巡って意見が対立しました。国内の軍事力を高めたい大久保と、列強に対抗するため朝鮮を味方にしたい西郷でしたが、結果的に大久保の意見が通ります。結果、西郷は明治政府を去り故郷の薩摩(現在の鹿児島県)へ帰ってしまいました。

また、明治10年(1877年)に起こった西南戦争では、明治政府に不満を持つ反乱分子の大将となった西郷を、大久保を中心とする明治政府が討ち果たします。以上のような経緯があり、西郷派だった島田一郎たちは大久保に強い恨みを抱いたのです。

大久保利通にかけられた5つの罪?

大久保利通の肖像
出典:Wikipedia

島田たちは暗殺を実行するにあたり、大久保に5つの罪状を突きつけました。そのまま紹介すると難しいので、要約してお伝えすると以下のような罪状になります。

  • 一般民衆の権利を抑圧している
  • 大久保の私情で役人を採用している
  • 意味のない土木事業を行い、国のお金を無駄遣いしている
  • 日本を想う人たちを排除し、内乱を引き起こした
  • 外国に対して日本を貶めている

以上の5つを大久保の罪とし、島田たちは暗殺へと踏み切ったのです。ただし、島田が突きつけた5つの罪は、あくまで大久保に不満を持った士族の意見であり、一方では大久保の断固とした政策があったからこそ日本は近代化できたと評価する見解も存在しています。

紀尾井坂の変にまつわる逸話

紀尾井坂の変で非業の死を遂げた大久保利通ですが、その最期の場面を物語るエピソードが残っているのでご紹介します。

最期まで西郷隆盛との友情を忘れていなかった

軍服姿の西郷隆盛
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亡くなった大久保の懐からは、血に染まった西郷からの手紙が2通出てきたと言われています。政治の方針の違いにより決別した2人でしたが、大久保は西郷からもらった手紙を肌身離さず大切にし、いつも懐にしまっていたのです。

また、西南戦争で西郷が決起した際、大久保は自ら薩摩まで出向いて西郷を止めようとしました。しかし、大久保の身の危険を案じた周囲の人たちが制止したため実現はしませんでした。

さらに、西南戦争の後には「西郷の本当の人物像を知っているのは自分だけだ、誤った西郷の姿を後世に伝えるわけにはいかない」として、西郷の伝記を書くつもりだったのですが、実現しないまま暗殺されてしまったのです。

凄まじい傷を負っていた大久保利通の遺体

事件直後の大久保利通の遺体を目撃した前島密
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暗殺された大久保の遺体は、見るに耐えないほどの凄惨な状態だったと伝わっています。大久保の首を貫通した刀は地面に突き刺さっており、全身に16箇所の傷を受け、そのうち8箇所は頭部の傷でした。

暗殺直後に現場に駆けつけた前島密(まえじまひそか)の証言によると「頭蓋骨が割れていて肉片が飛び散り、脳みそが動いているのが見えた(肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る)」と表現されるほどの凄惨な状況だったそうです。

大久保の葬儀や埋葬場所

大久保利通の墓所
出典:Wikipedia

大久保の葬儀は紀尾井坂の変から3日後の、明治11年(1878年)5月17日に執り行われました。葬儀には約1,200名もの人が集まり、国葬級の葬儀となったのです。そして、東京都港区の青山霊園に埋葬されました。

西南戦争で西郷隆盛と薩摩を敵にまわした大久保は、故郷の鹿児島県でも悪いイメージが定着してしまい、地元への埋葬が避けられてしまったのです。

大久保利通亡き後の日本

大久保利通の銅像
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大久保利通が亡くなった後の日本は見事に近代化を成し遂げました。明治時代の後半には日清戦争に勝利、続いて日露戦争でも大英帝国(イギリス)の後ろ盾を得て勝利するなど、大久保の目指した強い日本を実現したのです。

現在の日本が近代国家となって豊かな暮らしが出来るのは、明治維新が起こり明治政府が近代化を推し進めたからです。そして近代化の舵取りを行っていたのが大久保利通だったのです。

大久保利通の死因に関するまとめ

日本の富国強兵や近代化を目指していた大久保利通。しかし、結果を急ぐあまり独善的な政治を行ってしまい、多くの不満を持たれてしまいました。その結果が、暗殺へと繋がってしまったのです。

独善的だった大久保のやり方は確かに良くない点もあったのかもしれません。一方で、大久保の政治があったからこそ、現代の日本の豊かな生活があるのもまた事実です。大久保のやり方は、良くも悪くも現代社会の会社組織の運営などに大いに参考になるのではないでしょうか。最後までお読みいただきありがとうございました。

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