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魔女と呼ばれた「ジャンヌ・ダルク」とはどんな人?名言や処刑理由、生涯まとめ【年表付】

ジャンヌ・ダルクは百年戦争において危機的な状況にあったフランスを救った軍人です。フランスでは国を救った聖女として認知されており、また世界的にも有名な人物です。

ジャンヌは12歳のときに神の声を聞き「フランスを救わなければならない」という使命に駆られ、生まれ育った村を飛び出しました。その後、イングランド軍に支配されていたオルレアンを見事奪回することに成功し、国民たちから「神の使い」として崇められるようになります。

しかし、当時のフランス王・シャルル7世は自分よりもジャンヌが国民の支持を集め始めたことを快く思っていませんでした。そしてパリ奪還に失敗したジャンヌはブルゴーニュ軍に捕えられてしまうのですが、シャルル7世はジャンヌ救出を積極的にしようとはせず、ジャンヌはイングランド軍に引き渡され宗教裁判にかけられてしまいます。

裁判にかけられた結果、ジャンヌは「異端者」と見なされ火あぶりの刑に処されることになるのです。ジャンヌは命が尽きる最期の瞬間まで「イエスさま」と燃え盛る炎の中で叫び続けたといいます。

こうして異端者として処刑されてしまったジャンヌですが、百年戦争終結後の復権裁判により有罪が覆され無罪が確定します。こうしてジャンヌは、非業の死を遂げた聖女としてフランスで語り継がれるようになりました。

ジャンヌ・ダルクの来歴は?

名前ジャンヌ・ダルク
(仏:Jeanne d’Arc)
別称オルレアンの乙女
誕生日1412年頃1月6日
生地フランス王国、ドンレミ
没日1431年5月30日
没地イングランド王国、ルーアン
配偶者なし
埋葬場所なし

ジャンヌ・ダルクの生まれは?

ジャンヌ・ダルクは、ローマ帝国とフランス王国の両方に所属するバル公領・ドンレミ村で生まれました。家族構成は以下の通りです。

  • 父:ジャック・ダルク
  • 母:イザベル・ロメ
  • 長男:ジャクマン
  • 次男:ジャン
  • 三男:ピエール
  • 長女:ジャンヌ・ダルク
  • 次女:カトリーヌ

両親は農業を営んでおり、信仰心に篤かったといいます。また、ジャンヌの母親は特に信心深い性格でよくジャンヌに祈祷文を教えていました。

ジャンヌが神を信仰するようになったのは、両親から強く影響を受けたからだと考えられます。

ジャンヌ・ダルクのオルレアン包囲戦は?

百年戦争の最中に起きたオルレアン包囲戦によって、フランスは非常に危機的な状況に陥っていました。もしオルレアンを落とされていたら戦争に勝利していたのはイングランドだったかもしれないと言われているほどです。

ジャンヌはフランス軍の先頭に立ち、オルレアン包囲戦で指揮を執りました。戦いは熾烈を極めジャンヌ自身も深手を負いましたが、無事にフランス軍を勝利に導きます。

オルレアンが解放されたのはジャンヌが戦場に到着してわずか9日後のことでした。この功績が称えられ、後にジャンヌは「オルレアンの乙女(ラ・ピュセル・ドルレアン)」と呼ばれるようになります。

またジャンヌの生まれ育った村もジャンヌの功績を称えるため「ドンレミ・ラ・ピュセル」と後に村の名前を変えています。

ジャンヌ・ダルクの死因は?

ジャンヌはブルゴーニュ公国軍に捕らえられ、身代金と引き換えにイングランド軍に引き渡されました。その後宗教裁判にかけられたジャンヌは「異端である」という判決を受け火刑に処されることになります。

処刑はイングランドの統治領であったルーアンの「ヴィエ・マルシェ広場」で執行されました。高い柱に縛り付けられ民衆の目に晒されながら、ジャンヌは炎に身を焼かれ息を引き取ったのです。

黒こげとなった彼女の遺体は民衆の面前にさらされ、更に灰になるまで燃やされました。ジャンヌの遺灰は処刑執行人によってセーヌ川へと流されました。

ジャンヌ死に様はあまりに壮絶で、見ているものを恐怖に陥れたといいます。

ジャンヌ・ダルクの名言は?

「一度だけの人生。それが私たちの持つ人生すべてだ。」

「私以外にこの国を救える者はありません。」

「あなたが何者であるかを放棄し、信念を持たずに生きることは、死ぬことよりも悲しい。若くして死ぬことよりも。」

「私たちが戦うからこそ、神様は勝利を与えて下さる。」

「私たちは一つの人生しか生きられないし、信じたようにしかそれを生きられない。」

ジャンヌ・ダルクにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ジャンヌ・ダルク生存説」

実はジャンヌ・ダルクには「処刑を免れ生存していたのではないか?」という説があります。処刑の寸前に身代わりを立て、その身代わりをジャンヌの代わりに火刑に処したのではないかという説です。

ジャンヌの遺体は灰になるまで燃やされ川に流されてしまったため、火刑に処されたのが本当にジャンヌであったかどうかを確かめる術は当時の人々にはありませんでした。また、処刑時にジャンヌの顔は布で覆われていたという証言もあります。

そしてジャンヌの処刑が執行された5年後に、ジャンヌ・ダルクを名乗る女性が現れ、兄が確認したところ確かにジャンヌであると認めたという話まであるのです。

その後、ジャンヌと思われる女性は結婚し子供をもうけ、ごく一般的な女性としての生涯を歩んだと言われています。

ただし生存説について歴史的な根拠はないため、あくまで都市伝説の域を出ない話となっています。

都市伝説・武勇伝2「ジャンヌ・ダルクは本名ではない?」

ジャンヌ・ダルクはドンレミ村で生まれ育ち、村では「ジャネット」という愛称で呼ばれていました。

当時のフランスにおいて名字を持つのは王族と貴族にのみ与えられた権利であり、農夫の娘であったジャンヌは名字というものを持っていませんでした。そのため正式な名前は「ジャンヌ」ということになります。

国王に認められた後は「ジャンヌ・ラ・ピュセル」という名を名乗っていたといいます。ラ・ピュセルというのはフランス語で「乙女」を意味する言葉です。

つまりジャンヌは生前にジャンヌ・ダルクという名を一度も名乗ったことがないのです。

一説によるとジャンヌの兄弟家系は後に「ダルク」という名字を名乗っており、そのことから後世の人々が後付けで「ジャンヌ・ダルク」と呼び始めたのではないかと言われています。

ジャンヌ・ダルクの早見年表

1412年
生を受ける
ジャンヌはフランス東部のドンレミ村にて誕生しました。5人兄妹の4番目の子供にあたります。
1424年
神のお告げを聞く
12歳の頃、ジャンヌは「戦争に参加しイングランド軍と戦い、王太子シャルルを王位に就かせなさい」という神の声を聞きます。この声を聞いた日から、ジャンヌは「フランスを救わねばならない」という使命感に駆られるようになります。
1429年
予言を的中させる
ジャンヌは16歳の時に村を飛び出し、シャルル7世への謁見を願い出ます。門前払いを喰らったジャンヌでしたが、再び謁見を願い出た際「ニシンの戦いでフランスの軍は敗北する」という予言をし、見事的中させます。こうしてジャンヌにシャルル7世へ謁見する許可が下りました。
1429年
シャルルに謁見する
シャルル王太子に謁見したジャンヌは、自身が聞いた神のお告げの内容を伝えます。王太子に認められたジャンヌは軍へ入隊することを許可されます。
1429年
オルレアンを奪還する
オルレアンに到着したジャンヌは自らが先頭に立って指揮を執り、フランス軍を勝利へと導きました。この勝利で勢いをつけたフランス軍は次々に領土を取り戻していきます。
1430年
コンピエーニュで捕縛される
フランスとイングランドの間で一時的な休戦協定が結ばれるものの、わずか数ヵ月でそれは失効しました。コンピエーニュ包囲戦へ援軍として向かったジャンヌでしたが、戦いは失敗に終わりブルゴーニュ公国軍に捕えられてしまいます。その後ジャンヌは身代金と引き換えに、イングランド軍へ引き渡されました。
1431年
火刑に処される
イングランドで宗教裁判にかけられた結果、ジャンヌは異端者として有罪判決を受け、火あぶりの刑に処されることになりました。わずか19歳でジャンヌはその生涯に幕を下ろしました。

ジャンヌ・ダルクの具体年表

1412年 – 0歳「フランスの小さな村で生まれる」

ジャンヌ・ダルクの家族

ジャンヌはジャック・ダルクとイザベル・ロメという農夫婦の間にできた子供です。兄妹は5人おり、ジャンヌは4番目の子供でした。
ジャンヌが生まれたのはバル公領にあるドンレミという小さな村でした。村では「ジャネット」という愛称で呼ばれていたと後の裁判で語っています。

生まれ年は定かではない

ジャンヌは1412年頃に生まれたとされています。何故このように曖昧な表現なのかというと、ジャンヌは1431年宗教裁判にかけられた際に年齢を問われ「19歳くらいだと思う」と答えたのです。
つまり彼女自身も正確な年齢を把握していなかったということになります。
当時のフランスでは誕生日を祝うという習慣がなかったため、自分の年齢を正確に把握していないのはごく一般的な話でした。年齢を聞かれたときは「〇歳くらい」という曖昧な表現をするのが当たり前だったのです。
生年をきちんと把握しているのは貴族などの地位の高い人々のみなので、農村生まれのジャンヌが年齢を把握していなかったのは当然だと言えるでしょう。

1424年 – xx歳「神の声を聞く」

神の声を聞き使命感に駆られる

ジャンヌは12歳の頃、大天使ミカエル・聖カタリナ・聖マルガリタの姿を見てお告げを受けます。そのお告げの内容は「戦争に参加してイングランド軍と戦い、王太子シャルルを王位に就かせなさい」というものでした。神々の姿は実に美しく、3名が消え去った後に泣き崩れたと後の裁判でジャンヌは語っています。
神々から直接お告げを受けたジャンヌは「フランス軍を救わねばならない」という使命感に駆られるようになります。

1428年 – 16歳「フランスを救うため村を出る」

ドンレミ村を去る

16歳になった頃、ついにジャンヌは生まれ育ったドンレミ村を去ることになります。ジャンヌの両親、特に父親はジャンヌを溺愛しており村から出ることを決して許しませんでした。
結局ジャンヌは両親に話すことができないまま、親類のデュラン・ラソワに頼み込んで村を出ていく手伝いをしてもらいました。ジャンヌはデュランと共にヴォークルールへと向かいます。

謁見を願い出るも追い返される

ヴォークルールへと赴いたジャンヌは、当地の守護隊長であったボードリクール伯に王太子へ謁見する許可を願い出ます。
しかしボードリクール伯は、村娘であるジャンヌの話などまともに聞こうとはせず追い返してしまいます。しかし、ジャンヌは諦めませんでした。

1429年 – 17歳「オルレアンを奪還する」

予言を的中させる

再びボードリクール伯と面談の機会を得たジャンヌは「ニシンの戦いでフランス軍は敗北するだろう」という予言をします。
負ける見込みの無い戦いであったためボードリクール伯は信じませんでしたが、フランス軍は壊滅的な状況に追い込まれ退却を余儀なくされます。
見事に予言を的中させたジャンヌに、ようやくシャルル7世へ謁見する許可が下りたのです。

シャルル7世への謁見

シャルル7世へ謁見したジャンヌは、自身が受けた神のお告げのことを話し「自分はフランスを救うことができます」と言います。シャルル7世にとって神のお告げを聞いたと話すジャンヌは「魔女なのではないか?」と周囲に告発される危険性をはらんでいました。
ジャンヌが異端者であるという可能性を排除するため、シャルル7世はジャンヌの身元を調査し、神学者たちに審問をさせます。その結果、神学者たちによってジャンヌは「高潔なキリスト教徒である」と認められるのです。
シャルル7世から、男装し甲冑を着る許可を得たジャンヌはこうしてフランス軍に入隊しました。

オルレアン包囲戦へ

オルレアン包囲戦は百年戦争の最中に起きた戦いです。1428年10月12日に勃発し、1429年5月8日まで戦いは続きました。
ジャンヌがオルレアンに到着したのは1429年4月29日でした。その時、オルレアン包囲戦はイングランド軍が優勢でした。オルレアン市民の間では既に救世主としてのジャンヌの話が伝わっており、ジャンヌは歓迎のもと迎えられることになります。
到着後、ジャンヌは味方の士気を高めるためパレードを行い、お金やパンを配りました。イングランド軍に対し降伏を求めに行きますが、罵倒で追い返されてしまいます。
そして5月4日、フランス軍はサン・ルー砦へ攻撃を仕掛け陥落させることに成功します。翌5日に開かれた軍事会議でジャンヌは、サン・ジャン・ル・ブラン砦とオーギュスタン砦を攻め込むべきだと主張し、翌日にその作戦が決行されることになるのです。

オルレアン奪還

5月6日、作戦通りにサン・ジャン・ル・ブラン砦を奪取し、オーギュスタン砦の攻略にかかります。イングランド軍の激しい攻撃によりフランス軍は一時撤退を余儀なくされるのですが、ジャンヌが旗を掲げ攻撃を再開したころから軍隊は彼女のもとに再集結します。そして夕暮れ頃、ついにオーギュスタン砦を奪取しました。
5月7日、トゥーレル砦の攻略が始まります。ジャンヌを先頭にフランス軍は砦へ突入、しかしジャンヌは肩を弓で射抜かれ治療のため一時戦線を離脱します。ジャンヌが死ぬのではないかという考えがフランス軍の士気を低下させました。
しかしジャンヌはすぐに戦線の先頭に復帰し軍を鼓舞します。負傷しながらも隊の先頭に立ち、懸命に指揮を執る彼女の姿を見たフランス軍は更なる追撃を仕掛け、ついにトゥーレル砦を奪取しました。そして翌8日、イングランド軍は要衝であったトゥーレル砦を奪われたことにより撤退を開始します。
こうして約7ヵ月にも及んだオルレアン包囲戦は、フランスの勝利で幕を閉じました。オルレアンが解放されたのは、ジャンヌが到着してわずか9日後のことでした。

領土を次々に取り戻す

オルレアン解放により勢いをつけたフランス軍は、イングランド軍に支配されていた領土を次々に取り戻していきます。オルレアンでの功績を認められたジャンヌは軍事会議にていくつかの作戦を立案し、そのほとんどが採用されました。
6月18日、パテーの戦いにおいて劣勢であったフランス軍は被害を最小限に留めつつ勝利をおさめます。この勝利をきっかけにフランス軍はランスに到達します。そして7月17日、ランスにてシャルル7世の戴冠式が執り行われました。

ジャンヌの一族が貴族になる

オルレアンの解放や戴冠式に至るまでの功績が認められ、ジャンヌの一族は貴族に叙されます。また「ドゥ・リス」という姓も与えられました。ただしジャンヌはこの姓を名乗ることはなかったそうです。

1930年 – 18歳「ジャンヌ、捕虜となる」

コンピエーニュ包囲戦で捕縛される

シャルル7世の命により、ジャンヌはコンピエーニュ包囲戦の援軍に向かいます。奇襲をかけるものの激しい反撃を受け、ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜になってしまいます。
ジャンヌは何度か脱走を試みるのですが全て失敗に終わり、身代金と引き換えにイングランド軍へと引き渡されてしまうのです。
シャルル7世はジャンヌの身柄引き渡しに対し何の助けも行わなかったため「ジャンヌを見殺しにした」と非難されることが多いです。

1431年 – 19歳「火刑に処される」

宗教裁判

当時のヨーロッパでは魔女や悪魔の存在が本気で信じられていました。そのため神の声を聞いたというジャンヌは異端者として扱われ、男装や魔術など様々な罪に問われます。
そして5月、男装をやめるという誓約書にサインをしなければただちに火刑に処すと宣言されたジャンヌは、誓約書にサインします。しかしその誓約書はジャンヌが聞いていた内容とは全く別の危険な内容が書かれていたのです。ジャンヌは字が読めず、それに気付くことができませんでした。
ジャンヌは女性の服装を身にまとい、牢獄で数日を過ごします。しかし、イギリス軍の男性による性的暴行の恐怖に曝され、身を守るためにやむを得ず男装に戻ります。
誓いを破り再び男装の罪を犯したジャンヌは異端者と見なされました。ジャンヌは暴行されそうになったことや衣服を剥ぎ取られそうになったことを訴えましたが全て無視され、とうとう死刑宣告を受けるのです。

火あぶりの刑

死刑宣告を受けたジャンヌは、最も残酷な処刑方法である火あぶりの刑に処されることになりました。
5月30日、ルーアンのヴィエ・マルシェ広場で1万人以上の民衆の目に晒されながら、ジャンヌは火あぶりの刑に処され命を落としました。
こうしてジャンヌは19歳という若さでこの世を去ったのです。ジャンヌの遺灰はセーヌ川に流されました。

ジャンヌの死後

ジャンヌの処刑から22年後の1453年にようやく百年戦争は終わりを迎えます。フランス軍、イングランド軍、共に多大な犠牲を払った戦争でした。
百年戦争が正式に終わった後、ジャンヌ・ダルクの復権裁判が開かれます。フランスの異端審問官は、宗教裁判におけるジャンヌの異端審問が不当であったと主張します。
そして1456年、ジャンヌの有罪は覆され無罪が宣告されました。
百年戦争の最前線で勇敢に戦い、そして非業の死を遂げたジャンヌは、フランスを救った聖女として歴史に名を刻みました。

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ジャンヌは今でこそ神格化され聖女として扱われていますが、元々は小さな農村に生まれた普通の女の子だったのです。そんな普通の女の子が、戦争に参加してから命が尽きる瞬間まで幾度となく耐え難い恐怖に襲われていたのだろうと考えると胸が痛みます。

世界史に登場する「聖女」としてのジャンヌではなく、「一人の少女」としてのジャンヌを思いながら彼女の生涯を振り返ってみるとまた違った見え方がしてくると思います。

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