ジャンヌ・ダルクの名言
掛け替えのない人生、それが人間の持つすべてだ。それを信じて、私は生きていき、私は死んでいく。
この名言からは、ジャンヌダルクの強い責任感と固い信念が感じられます。
1回限りの人生を、ジャンヌは神に捧げました。自分がフランスを救わなければならない、と心の底から信じ、20年に満たない人生を戦い抜いてジャンヌはこの世を去りました。
ジャンヌは、魔女として火刑に処されながらも、現代では聖女として崇められています。今日、彼女がここまで人気なのは、フランスを救うという信念を貫き通したがゆえのことでしょう。
ジャンヌの言葉は、信念を持って貫くことの大切さを教えてくれます。
私たちが戦うからこそ、神様は勝利を与えて下さる。
神様は変えようと努力する者に微笑んでくれる、と解釈できる名言です。
ジャンヌは神のお告げを聞き、さまざまな困難にあいながらも諦めずに行動し続けました。わずか数年のうちに、歴史に残る偉業を成し遂げられたのは、諦めない行動力に理由があると言えます。
あなたが何者であるかを放棄し、信念を持たずに生きることは、死ぬことよりも悲しい。若くして死ぬことよりも。
ジャンヌはただ生きるのではなく、どう生きるかを重視していました。神を信じ、フランスを勝利に導き、しかし最後には若くして亡くなったジャンヌの人生を表すような言葉です。
ジャンヌは19歳と成人する前に亡くなりましたが、自分らしく生き、後悔のない人生を歩んだと言えるでしょう。生き方について考えさせられる名言です。
また、他のもジャンヌは数々の名言を残しています。
「一度だけの人生。それが私たちの持つ人生すべてだ。」
「私以外にこの国を救える者はありません。」
「私たちは一つの人生しか生きられないし、信じたようにしかそれを生きられない。」
ジャンヌ・ダルクにまつわる逸話
逸話1「ジャンヌ・ダルク生存説」
実はジャンヌ・ダルクには「処刑を免れ生存していたのではないか?」という説があります。処刑の寸前に身代わりを立て、その身代わりをジャンヌの代わりに火刑に処したのではないかという説です。
ジャンヌの遺体は灰になるまで燃やされ川に流されてしまったため、火刑に処されたのが本当にジャンヌであったかどうかを確かめる術は当時の人々にはありませんでした。また、処刑時にジャンヌの顔は布で覆われていたという証言もあります。
そしてジャンヌの処刑が執行された5年後に、ジャンヌ・ダルクを名乗る女性が現れ、兄が確認したところ確かにジャンヌであると認めたという話まであるのです。
その後、ジャンヌと思われる女性は結婚し子供をもうけ、ごく一般的な女性としての生涯を歩んだと言われています。
ただし生存説について歴史的な根拠はないため、あくまで都市伝説の域を出ない話となっています。
逸話2「ジャンヌ・ダルクは本名ではない?」
ジャンヌ・ダルクはドンレミ村で生まれ育ち、村では「ジャネット」という愛称で呼ばれていました。
当時のフランスにおいて名字を持つのは王族と貴族にのみ与えられた権利であり、農夫の娘であったジャンヌは名字というものを持っていませんでした。そのため正式な名前は「ジャンヌ」ということになります。
国王に認められた後は「ジャンヌ・ラ・ピュセル」という名を名乗っていたといいます。ラ・ピュセルというのはフランス語で「乙女」を意味する言葉です。
つまりジャンヌは生前にジャンヌ・ダルクという名を一度も名乗ったことがないのです。
一説によるとジャンヌの兄弟家系は後に「ダルク」という名字を名乗っており、そのことから後世の人々が後付けで「ジャンヌ・ダルク」と呼び始めたのではないかと言われています。
逸話3「火刑に処されても燃え尽きなかったジャンヌの心臓」
火刑に処され、灰になるまで火にくべられたジャンヌですが、唯一心臓だけは燃え尽きなかったと言われています。
ジャンヌの火刑を担当していた死刑執行人によると、ジャンヌの体は灰になっていたが心臓だけは無事で、しかも血がいっぱいだったそうです。無傷な心臓を見た死刑執行人は、これぞ奇跡だ、と驚きをあらわにしたと伝えられています。
この頃のキリスト教では、キリストの心臓を「聖心」、愛を表す特別なものとして信仰していました。当時の彼らからすれば、身を灰にするほどの激しい炎の中、無傷で残ったジャンヌの心臓は聖心に見えたのでしょう。
神秘的な話ですが、上記のエピソードは証言者が信じるに足るか、疑問の残る人物です。そのため事実であったか定かではありません。
ジャンヌ・ダルクの簡単年表
ジャンヌはフランス東部のドンレミ村にて誕生しました。5人兄妹の4番目の子供にあたります。
12歳の頃、ジャンヌは「戦争に参加しイングランド軍と戦い、王太子シャルルを王位に就かせなさい」という神の声を聞きます。この声を聞いた日から、ジャンヌは「フランスを救わねばならない」という使命感に駆られるようになります。
ジャンヌは16歳の時に村を飛び出し、シャルル7世への謁見を願い出ます。門前払いを喰らったジャンヌでしたが、再び謁見を願い出た際「ニシンの戦いでフランスの軍は敗北する」という予言をし、見事的中させます。こうしてジャンヌにシャルル7世へ謁見する許可が下りました。
シャルル王太子に謁見したジャンヌは、自身が聞いた神のお告げの内容を伝えます。王太子に認められたジャンヌは軍へ入隊することを許可されます。
オルレアンに到着したジャンヌは自らが先頭に立って指揮を執り、フランス軍を勝利へと導きました。この勝利で勢いをつけたフランス軍は次々に領土を取り戻していきます。
フランスとイングランドの間で一時的な休戦協定が結ばれるものの、わずか数ヵ月でそれは失効しました。コンピエーニュ包囲戦へ援軍として向かったジャンヌでしたが、戦いは失敗に終わりブルゴーニュ公国軍に捕えられてしまいます。その後ジャンヌは身代金と引き換えに、イングランド軍へ引き渡されました。
イングランドで宗教裁判にかけられた結果、ジャンヌは異端者として有罪判決を受け、火あぶりの刑に処されることになりました。わずか19歳でジャンヌはその生涯に幕を下ろしました。