坂本龍馬は、幕末の時代を生きた土佐の武士です。その名前を知らない人はほとんどいない、日本史上でも一・二を争うほどの有名な人物でもあるため、わざわざ解説する必要は、本来なら無いのかもしれません。
この記事で取り上げる坂本龍馬の性格というと、やはり多くの人が思い浮かべるのは「細かい事にはこだわらないおおらかな人物」「飄々としてつかみどころがなく、型にはまらない自由人」という辺りでしょうか。このあたりの性格は、坂本龍馬を題材にした多くの創作物でも共通してみられる特徴のため、「龍馬といえばこういう人物!」というイメージを持つ方は少なくないかと思います。
しかしそんな「自由人」のイメージの一方、龍馬は新政府の政治綱領の元となる文書の執筆を行なったり、(当時としては異端だったとはいえ)外国との貿易で利益を上げたりと、割と手堅い「草の根活動」も経験しています。
「おおらかで飄々とした自由人」の龍馬と、「手堅く物事を計算し、合理的に物事を考える知性人」の龍馬。果たしてどちらが本当の龍馬なのでしょうか?それとも、本当の龍馬はまた別にあるのでしょうか?
この記事では、そんな龍馬の性格面から、日本でも有数の偉人の真の姿について迫っていきたいと思います。
この記事を書いた人
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フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。
坂本龍馬の生い立ち
坂本龍馬は幕末の時代、身分制度による統治によって、階級による差別が深刻だった土佐藩(現在の高知県)の下級武士の家に生まれました。幕府による統治体制に疑問を持つものが増え始めたその頃、当初は龍馬も、武力による討幕を考える“土佐勤皇党(とさきんのうとう)”に所属しますが、徐々に過激になっていく土佐勤皇党の活動に疑問を持ち、27歳で土佐を脱藩してしまいます。
藩を抜けた龍馬は、江戸幕府の中でも特に外国に関心を持っていた勝海舟(かつかいしゅう)や、薩摩藩(現在の鹿児島県)で倒幕に向けて動いていた西郷隆盛(さいごうたかもり)らとの関わりを持つことになります。龍馬は、勝との関わりからは開国の必要性を学び、西郷との関わりからは、外国の技術の進歩の目覚ましさと日本の技術力の遅れを、その目を持って目の当たりにすることとなりました。
そのような出会いの中、攘夷思想から開国思想に転向した龍馬。彼は海軍の設立のために奔走しつつ、長崎に”亀山社中(かめやましゃちゅう)”と呼ばれる組織を立ち上げることとなります。亀山社中は一言で言うと、私設海軍を兼ねた貿易商社です。現在では「日本初の株式会社」と呼ばれることもあり、そこで龍馬は外国製の武器や軍船などを購入、運搬する事業にあたりました。
また亀山社中は、当時犬猿の仲になっていた薩摩藩と長州藩の仲介も行いました。後に日本の歴史を大きく変える「薩長同盟」の締結も、龍馬が仲介することで行われたため、その締結が成されたのも、亀山社中あっての事と言えます。
薩長同盟の締結が成された後、龍馬は本格的に、開国後の日本の姿の構想を始めます。「船中八策」として知られる、明治日本の綱領の元となった文書がとくに有名です。また、龍馬は他にも、蝦夷地(現在の北海道)の開拓について計画していたらしいことが記録に残っており、龍馬が「開国する”まで”」ではなく、それ以上に長期的なスパンで日本の行く末を見ていたことがわかります。
しかし、龍馬が開国して近代化する日本を見ることはありませんでした。徳川慶喜(とくがわよしのぶ)による大政奉還が行われてから一月ほど。いよいよ日本が近代化のスタートラインに立ったのとほとんど同じころに、龍馬は京都・近江屋で暗殺されてしまいました。
暗殺の犯人については諸説があり、確定的には明らかになっていません。その黒幕についても、幕府勢力という説が有力ではありますが、龍馬の人望を恐れた薩摩や長州という説や、商売相手だったイギリス人という説まで存在しており、謎に包まれたままとなっています。現在の通説としては、黒幕は幕府勢力の会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)。実行犯は京都見廻組の今井信郎(いまいのぶお)や佐々木只三郎(ささきたださぶろう)であるという説が有力です。
こうして近代日本の礎を築き上げながら、あまりにもあっさりと暗殺によってその生涯を終えてしまった坂本龍馬。では、そんな彼はどのような性格の人物だったのか?以降の項ではその性格に基づく観点を中心に、坂本龍馬について触れていきたいと思います。
※坂本龍馬の成した業績や歴史的な事柄については、本サイトの『坂本龍馬の生涯』の項で詳しく説明されています。是非ご一読ください。
坂本龍馬はどんな性格だった?
温和でおおらかな人物
「坂本龍馬ってどんな人?」と聞かれれば、恐らくはほとんどの方が思い浮かべるだろう人物像です。「土佐訛りで話す、常に笑顔を浮かべたおおらかな男」というイメージだけでも、「坂本龍馬」を思い浮かべる人がいるのではないでしょうか?
そしてそのイメージは、実際の龍馬にも当てはまるものであったようです。
龍馬と関わりを持った長州藩士・三吉慎蔵(みよししんぞう)は、龍馬の人物像について、「過激な事を言うことはなく、声高に意見を口にすることもない。極めて大人しく温和な人だ」と評しています。
また、土佐勤皇党に参加し、後に明治政府の官僚となる田中光顕(たなかみつあき)からは、「豪放磊落(ごうほうらいらく・度量が大きく、細かい事を気にしない事)な性質の人物で、長州で言う高杉晋作(たかすぎしんさく)に近い」と評しています。
龍馬のこういう温和でおおらかな性質について、言葉として残っているのはこの程度ではあるのですが、龍馬が成しえた「薩長同盟の締結」「海援隊の設立」などの偉業と、それに付随する苦労などを考えると、龍馬が人に好かれる性質の人物であったことは、疑いようのない事実であるように思えます。
新しい物好きで柔軟な性格
このようなイメージも、坂本龍馬という人物の性格を考えた際に、おそらく多くの人が思い浮かべる人物像でしょう。龍馬を題材にした漫画やアニメでは、周囲が日本刀を用いて戦う中、龍馬はピストルなどの近代的な銃火器で戦っていることも珍しくありません。
実際、史実においての龍馬も、懐には短刀ではなくピストルを忍ばせていたと記録に残っています。龍馬が用いた銃は二つあったとされ、一つは高杉晋作から贈呈されたもの。もう一つは自身で買い求めた2丁の銃で、妻のおりょうと1丁ずつを護身用に所持していたそうです。
このピストルについて龍馬は、「時代は銃だ。銃の前には刀なぞ役に立たん」と言ったらしく、彼がピストルを――ひいては外国からくる新しい物を、たいそう気に入っていたことがわかります。
また、龍馬の柔軟な性質を色濃く表すエピソードといえば、やはり勝海舟と初めて出会った時のエピソードでしょう。
龍馬と勝の出会いは後の関係性からは想像できない程に剣呑なものでした。その出会いのきっかけは、何と暗殺。尊王攘夷思想に傾倒していた頃の龍馬が、勝を暗殺しに行ったことがきっかけでした。
しかし勝はそんな龍馬に、開国の必要性を滔々と説いて説得。それに感銘を受けた龍馬は、尊王攘夷思想から開国思想に転向したというエピソードです。
ともすれば、龍馬が風見鶏的な人物のようにも見えてしまうエピソードですが、龍馬が、当時所属していた土佐勤皇党に対して居心地の悪さを感じていたことや、勝の思想が後の明治政府の根幹につながることも考えると、龍馬は単純に目新しいものばかりを好んでいるのではなく、その中から「正しいもの」「有用なもの」を選び出す”目”にも長け、そこからくる柔軟な発想を持ち合わせていたのだと言えそうです。
人に好かれ、人を好きになる性格
おおらかで柔軟な性質の龍馬は、やはり多くの人から好かれたようです。これもドラマやアニメなどで描かれる、坂本龍馬のイメージ通りですね。
また、龍馬はただ周囲から好かれていただけではなく、龍馬の方からも多くの人物を好み、愛し、交流したという記録が残っています。
そのような龍馬の人物像については、歴史に名を残す偉人の多くから評価されていますが、後の初代内閣総理大臣・伊藤博文からの「どこへ行こうともその場に溶け込める雰囲気を持った人物」というのが、最も端的に龍馬の人物像をあらわす言葉だと思います。
実際、伊藤博文からの評価の正しさを証明するように、龍馬の周りには様々な立場の人物が名を連ねています。
とくに有名な人物だけでも、維新の英雄であり、薩摩藩と長州藩の代表格でもある、西郷隆盛と木戸孝允(きどたかよし、通称:桂小五郎)。龍馬にとっての師匠筋となった、幕府の中でも、特に外国に関心を持っていた知識人の勝海舟。土佐の尊王攘夷派の筆頭であり、土佐勤皇党の盟主でもある武市半平太(たけちはんぺいた)と、その門人である幕末四大人斬りの一人・岡田以蔵(おかだいぞう)。
上記に上げた人物だけでも、薩摩藩士、長州藩士、土佐藩士に幕府の官吏と、その立場だけを見ても大きく違いがあります。彼らの思想に関してもそれは同様で、彼らはそれぞれに異なる思想を持ちながらも、坂本龍馬という一人の人物を仲介することで結びついています。自分と違う思想を受け入れることは、現在の我々にとっても難しい事です。そのことを考えるだけでも、龍馬の人間的な特長を見て取ることができるでしょう。
特に、同郷であった武市とは「顎(あぎ)」「痣(あざ)」とあだ名で呼び合う関係であり、土佐時代の彼らは親しく交流していたと記録されています。龍馬が脱藩し、彼らが思想的に袂を分かった後も、武市は龍馬のことを「度量が大きく、考えていることを余人には掴ませない人物」と高く評価していました。真面目で頑固な男であり、本来であれば龍馬のタイプとは根っから合わないだろう武市にこうまで言わせるという、龍馬の好かれやすい人格が伺えるエピソードです。
女性関係のエピソードも多く、正式な記録に残っているだけでも、平井加尾(ひらいかお)、千葉さな子(ちばさなこ)、楢崎龍(ならさきりょう、有名な龍馬の妻・おりょうのこと)という、3人の女性と浮名を流しています。
正式な記録外にも、「龍馬に抱かれた」「抱いてもらった」と証言する女性の言葉が随所に記録されていることもあり、龍馬が今で言うところの「モテ男」だったことがよくわかります。先に名前を上げた中でも、千葉さな子は龍馬にベタ惚れしていたらしく、龍馬の死を知り、その後の生涯独身を通したとすら言われています。
ともかく、同性からは多くの尊敬と信頼を。異性からは多くの恋慕と、やはり尊敬をうけた龍馬が、この上なく魅力的な人格の持ち主だったことに疑う余地はありません。“人間力”が叫ばれる現代に生きる我々も、真似できるのならぜひ真似したいものですね。
「学力」は低いが「頭」のいい人物
おおらかで柔軟な性格を持ち、後に日本初の株式会社を立ち上げる龍馬ですが、その学力は意外と高くありません。それどころか、現在基準で率直に言うと「バカ」であり、それ故に幼年期には塾を追い出されたとも言われています。
実際、同時代を生きた人物からの龍馬についての評価には「本を読まない人のため、間違えることも結構多い」「愛嬌のある人物だが、世の事情に疎く、何も知らない」など、龍馬のそういった人間性が記されています。
しかし、地頭の悪い人物であったかといえばそういうわけでもないらしく、後に龍馬と共に海援隊の立ち上げに尽力し、その後に陸援隊の隊長に就任した中岡慎太郎(なかおかしんたろう)からは、「龍馬は才知に優れた人物だ」と端的な言葉で評価されていることが伝わっています。
実際、龍馬のしていることは「(その時代の)常識外れ」ではありますが、そのほとんどが理に適った行動であり、「バカ」と評することには正直なところ疑問が残ります。実際、学力に優れた武市半平太が、志半ばで刑死していることもあり、そういう意味では龍馬の方が、自身の夢への道を賢く進んでいたとすら言えるかもしれません。
若き日の織田信長が「尾張の大うつけ(尾張の大バカ者)」とあだ名されたように、常識を破る人物は大概は馬鹿だと見られて始まるもの。龍馬についても信長と同様、そういう意味の「バカ」であったと言えそうです。
その時代には珍しい「いのちだいじに」のスタンス
龍馬が生きた幕末の時代は「国のため、志のためならば命も捨てる」という気風が蔓延していた時代でもありました。そのような気風の中、多くの志ある若者や知識人たちが、暗殺や切腹によってその命を散らしており、そのような幕末の時代をさして「日本刀が最も多くの血を吸った時代」と評価する言説も存在しています。
しかし龍馬は、そのような時代の背景に真っ向から背を向けるスタンスを貫き通しました。
そのような龍馬のスタンスがわかるエピソードには、従弟である山本数馬(やまもとかずま)とのエピソードがあります。
失態を犯した数馬が切腹を申し付けられた際、龍馬が秘密裏に彼の元を訪れて「こんなことで死ぬなどバカバカしい」と彼を逃がしたというエピソードです。数馬の失態も、本来であればおおよそ切腹に値するほど重いものではなかったため、現在の我々の基準から見ても、龍馬の判断は人道的にも法的にも正しいものだったと言えそうです。
龍馬によって助けられた数馬は、その後紆余曲折を経てキリスト教に入信。大司教として「命を大事にせよ」というキリストの教えを説きながら、その生涯を終えました。もしかすると、龍馬に命を救われたことに対する恩が、数馬の根底にはあり続けたのかもしれませんね。
他にも、龍馬は剣術や薙刀の腕前が達者であり、特に薙刀の腕は「北辰一刀流」の免許皆伝の域にまで達していましたが、龍馬自身は”実戦”を好まない性質であったそうです。過激な行動が目立った土佐勤皇党と袂を別ったことからも、その性質はうかがい知ることができるでしょう。
坂本龍馬の悪いところは?
常識外れの図々しさ
細かい事にはこだわらない、剛毅でおおらかな性格の龍馬でしたが、それは翻って「図々しさ」として周囲に映ることもあったようです。
大河ドラマ『龍馬伝』で、副主人公のように描かれた岩崎弥太郎(いわさきやたろう)は、海援隊設立当初、たびたび資金をせびりに来る龍馬たち海援隊の一行を指して「厄介者ども」と日記帳につけています。『龍馬伝』では、龍馬に対し愛憎入り混じった感情を抱いているように描かれた弥太郎ですが、その描写は割と真実に近かったと言えそうです。
また、武市半平太の妻である武市富子(たけちとみこ)も、「龍馬さんがたびたび庭に小便をしていくのです」と、率直かつ切実な苦言を吐露しています。余談ですが、12歳まで寝小便をしていたなど、龍馬には何故か小便に関する逸話が多いです。
ともかく、人の心のうちに巧みに入り込む「人たらし」の坂本龍馬。しかしその「人たらし」の本質は、ともすれば図々しさとして忌避されるものにも映っていたようです。
母代わりの姉に対するシスコン(マザコン?)ぶり
龍馬はよく手紙を書いていたようで、彼の自筆であるという手紙は数多く残っています。そしてその多くは、土佐にいる龍馬の実の姉・坂本乙女(さかもとおとめ)に宛てられた手紙です。
龍馬は幼い時分に母を亡くしていたため、姉である乙女が母親代わりに育てていたとも伝えられています。乙女は身長174㎝、体重112㎏ほどと、現在基準でも大柄な女性で、気弱ですぐ泣く龍馬少年を「それでも男か!」と叱りつけるような、たいへんに男らしい性格であったと伝わっています。
龍馬はそんな乙女を心から慕っていたらしく、勝海舟への弟子入りをしたことの自慢や、おりょうとの結婚についての相談。果てはたわいもない日常の事まで、事細かに手紙に記しては、乙女に宛てて送っていたことがわかっています。当時の手紙が高価だったこともあり、龍馬がいかに乙女を信頼し、何より慕っていたかがわかるエピソードでしょう。
そのような手紙のやり取りは、龍馬が死ぬまで続いていたらしく、龍馬が生涯に残した手紙のうち、そのほとんどが乙女に宛てられたものであるとも言われています。
龍馬の強い家族愛を示すエピソードでもありますが、龍馬のしていることは現在で言うと割と「シスコン」というか「マザコン」というか……。ともかく、龍馬が姉離れ(親離れ?)をすることは、生涯出来なかったと言えそうです。
坂本龍馬の性格がわかる名言
世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る
筆者個人としましては、坂本龍馬の名言の中で最もカッコいいのはこの言葉であると思います。後に大きな事柄を成し遂げ、文字通りに日本の未来を変えたと言える坂本龍馬。彼の強い決意と深遠な人間性を秘めた、とても詩的な言葉です。
余談ですが、このように詩的な表現で言葉を用いつつも、龍馬本人は生涯のうち、一つの詩も作ったことが無かったとのこと。変革が落ち着いた明治の世に彼が生きていれば、坂本龍馬作の詩を読むことも出来たのでしょうか?想像してみるのも面白いかもしれません。
万事、見にゃわからん。
これも龍馬の性格を象徴する一言です。
ことわざに「百聞は一見に如かず」というものがありますが、まさにそれ。あまり本を読まなかったという龍馬の根底には、この一言に集約される考えがあったのかもしれません。
人の世に失敗ちゅうことは、ありゃせんぞ。
偉大な業績ばかりがクローズアップされがちな龍馬ですが、海軍操練所の閉鎖など、多くの窮地や失敗も経験しています。
しかし、本来なら折れてしまうような状況でも彼が諦めずに偉業を成し遂げるに至ったのは、このような考えが彼のうちにあったからでしょう。落ち込んだときに思い出すためにも、心に留めておきたい一言です。
坂本龍馬の生き方や性格に影響を与えた人物は?
勝海舟
坂本龍馬に影響を与えた人物といって、真っ先に名が挙がるのはやはりこの人。ある意味で言えば、龍馬の師匠といってもいいかもしれません。
幕府に使える幕臣でありながら、討幕思想を持つ薩摩や長州、あるいは町の人々にも顔が効いた人物であり、外国の脅威に対して開国して備えを持つべきという考えは、ほとんどそのまま龍馬へと受け継がれています。人情に厚く、合理的な判断よりも人間的な判断を良しとするあたりも、もしかすると勝から龍馬に受け継がれた部分なのかもしれません。
他にも、割と図々しい部分も龍馬と共通していたようで、その図々しさから、『学問のすすめ』の著者である福沢諭吉(ふくざわゆきち)とは、生涯を通じて不仲であり続けたと言われています。
そのように、良い点も悪い点も龍馬と似ている勝海舟。彼がもう少し自由な立場にあったなら、もしかすると坂本龍馬よりも早く、薩長同盟や大政奉還を成し遂げてしまっていたかもしれません。
西郷隆盛
説明不要の、維新の英傑として有名な薩摩の志士です。最近では大河ドラマ『西郷どん』の主題にもなったため、彼については良く知っている方も多いのではないでしょうか?
薩長同盟の締結に当たって、龍馬は西郷に対し「長州は立場上同盟を言い出せない立場だから、ここは薩摩が男を見せてやれ」と発破をかけたことが伝わっています。また、勝海舟の海軍操練所が閉鎖され、途方に暮れる龍馬を支援して薩摩で再起をはからせたのも西郷の功績です。龍馬も西郷も、共に情に厚い人物であったと記録されているため、きっとそのあたりの性格でもウマが合ったのでしょう。
創作では龍馬暗殺の黒幕として描かれることもある西郷ですが、歴史書によれば、西郷は龍馬の死に対して声を上げて泣いたと記されています。真相は藪の中ですが、もしその記載が本当ならば、龍馬と西郷の間に硬く熱い友情があったことに疑いをはさむ余地はないでしょう。
武市半平太
龍馬の同郷である土佐藩の志士です。土佐勤皇党を設立し、過激な尊王攘夷活動を展開。最後は志半ばで獄につながれ切腹させられた、幕末に消えた知識人の一角でもあります。
武市が龍馬に与えた影響は、言い方は悪いですが「反面教師」的な部分が多いです。先述どおり、龍馬も当初は土佐勤皇党に所属していましたが、武市の掲げる過激な尊王攘夷論は、龍馬とは反りが合わず、その合わなさが、龍馬が土佐を脱藩するきっかけとなってしまいます。そしてその脱藩こそが、後に龍馬が成し遂げる大きな偉業へと繋がっていくのです。
もっとも、思想的に反りが合わなかっただけで、彼らの仲は良かったそう。真面目な知性派の武市と、飄々とした感覚派の龍馬。一見すると合わなそうな二人ではありますが、お互いにあだ名で呼び合うなど、親しい様子が伝わっています。
坂本乙女
龍馬の実の姉であり、母代わりでもあった女性です。非常に大柄で、並の男性よりも男らしい性格だったらしく、幼い頃の泣き虫だった龍馬を叱り飛ばすなど、肝っ玉なエピソードが数多く残っています。
龍馬は大人になり、脱藩をしてからも乙女の事をたいそう慕っていたらしく、現存する龍馬直筆の手紙のうち、そのほとんどは乙女に宛てたものであるとも言われています。当時の手紙は高価であったため、一体どれだけのお金を、乙女とのやり取りに使ったのでしょう。
龍馬の妻であるおりょうとの関係は、最近まで「不仲であった」という説が通説でしたが、研究が進んだ昨今では、「龍馬を喪ったおりょうに対して、何かにつけて世話を焼いていた」という研究結果も出ています。
どちらが真実かは確かめようがありませんが、「坂本龍馬を育てた、姉であり母」という観点から見ると、最近の研究結果の方が真実であるように感じられます。
トーマス・ブレーク・グラバー
幕末の日本で活躍した武器商人であり、龍馬にとっては大口の商売相手でした。龍馬の死後、日本が開国した後も日本に残り続け、現在でも世のお父さま方から広く愛される「キリンビール」の創始者ともなっています。
彼と龍馬の関係性は、記録上で見るとただの商売相手でしかないのですが、グラバーは龍馬の事をとても気に入ったいたらしいことが、様々なうわさから推測できます。
グラバーは”麒麟(きりん)”という神獣をとても気に入っていました。「太宰府天満宮の麒麟象を譲ってほしい」と、何度も打診していたほど気に入っていたそうです。自身の起こした会社のロゴや社名にするぐらいなので、その気に入り振りは誰にでも想像がつくことでしょう。
しかし、その麒麟について、グラバーは龍馬と麒麟を重ねて見ていたという説があるのはご存知でしょうか?将来有望な人物を「麒麟児」と表現することがあります。あくまで俗説程度ではありますが、グラバーも龍馬をそのように見て、麒麟と龍馬を重ねていたと考えると、面白く夢のある話のように思えます。
坂本龍馬の性格に関するまとめ
いかがでしたでしょうか?
筆者も坂本龍馬については、歴史の授業で習ったきりで、今回の執筆にあたってほとんど初めて調べたのですが、思っていたよりも意外性がないというか、イメージそのままの人柄だったんだなぁ、と少々感心しながら執筆させていただきました。
剛毅でおおらか。図々しくも人好きで人たらし。長期的な目標を見据えて、時に真剣に、時に気楽に物事にあたる、その飄々とした心根等、筆者自身見習いたい部分が多々見つけられる、とても有意義な執筆でした。
この記事が皆さんにとって、「坂本龍馬ってこんな人だったのか!」「龍馬についてもっと調べてみたい!」と思える時間を提供できていれば幸いです。
それでは、長時間をこの記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました。
とても良くまとめてあってわかりやすかったです。
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