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法然とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や浄土宗にまつわる逸話も紹介】

法然(ほうねん)は、浄土宗を開いた僧侶です。「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という念仏、一度は聞き覚えがあるのではないでしょうか。

阿弥陀仏(あみだぶつ)を信じ「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえれば浄土に往生できると説いたのが、僧侶の法然でした。法然が説いた教えは、現代に引き継がれるほど大きな影響を与えたのです。

法然は浄土宗を開いた僧侶

しかし教えとは反面、法然自身が実際にどんな人だったのかと問われると、詳しくわからなかったりしますよね。かといって、いざ調べても難しい漢字ばかりで読むだけで一苦労。結局よくわからないまま、なんて人もいるはず。

そこで今回は、浄土宗の開祖法然の生涯について解説。生まれや育ちはもちろん、逸話や功績も年表形式でまとめつつ網羅的に解説します。

この記事が法然への理解と興味の一助となれば幸いです。それでは参ります。

法然とはどんな人物か?

名前円光大師法然房源空
(一般に法然として知られる)
誕生日1133年4月7日
生地美作国久米
(現在の岡山県久米郡)
没日1212年1月25日
没地京都東山大谷
配偶者なし
埋葬場所京都東山大谷
(現在の知恩院法然上人御廟)

法然の生涯をハイライト

幼いころの法然(勢至丸)

法然は、1133年(長承2年)4月7日(旧暦)に現在の岡山県久米郡久米南町にあたる美作国久米で生まれました。幼名を勢至丸といい、押領使(現在の警察的役割の官職)漆間時国の子として育ちます。名前の由来は、知恵に秀でた勢至菩薩です。

勢至丸は名前に恥じず、文武両道の才能を発揮しました。ところが、1141年に父が武士同士のトラブルで重傷を負います。勢至丸はかたきを討とうとしますが、父から「決して敵を討とうと考えてはならない」と諭され断念。その後、法然は出家することになります。

法然が修業した比叡山

はじめは地元の寺院で修業していましたが、より仏法を深めるため比叡山延暦寺に上り、源空や皇円、叡空のもとで修業します。叡空は法然の姿勢や才能を絶賛し、「法然道理の聖」と評しました。これが法然という名の由来となり、後には「智慧第一の法然房」として有名になります。

人々を極楽浄土に導くとされる阿弥陀如来(阿弥陀仏)

その後43歳になった法然に転機が訪れます。彼は僧の善導が書いた『観無量寿経疏』を読み、「南無阿弥陀仏」とひたすら唱え(念仏)誰もが阿弥陀仏に救われるとする「浄土宗」の開宗に至りました。

浄土宗の教えは、念仏を唱えると誰でも極楽往生できるというわかりやすいものだったため、多くの人に広まります。しかし、法然の教えは、旧来の仏教勢力から強く非難され、法然はたびたび迫害されます(法難)。

法然を流罪とした後鳥羽上皇

特に1204年の承元の法難では、後鳥羽上皇の怒りを買い土佐(現在の讃岐)へ流罪に、一番弟子の親鸞は越後に流されました。1207年にようやく許され1211年に帰京しますが、その翌年に京都でなくなります。享年80歳でした。

現在の岡山県にあたる美作国久米で生まれた法然

法然は、1133年(長承2年)4月7日(旧暦)に美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)に生まれました。生誕地は、法然の弟子として出家した熊谷直実建立と伝わる誕生寺とされています。幼名を勢至丸(せいしまる)といい、智慧を司る菩薩である勢至菩薩からとったものでした。

法然の父は美作国の押領使・漆間時国で、母は秦氏君(はたうじのきみ)清刀自です。押領使というのは、その土地の警察業務を司る役職で、当時は武士がこれを担当していました。つまり、法然はもともと父親の跡を継いで武士となるべき身だったのです。

出家のきっかけは父の一言

法然は父の一言をきっかけに出家を決意しました。勢至丸(のちの法然)は、武士として学問と武芸の実力を蓄え、幼いながら弓の名手として成長していきます。ところが、武士としての人生を歩み始めた勢至丸に、人生を変える出来事が起こります。1141年(保延7年)、父である漆間時国と対立関係にあった明石源内武者定明が、夜に不意討ちを仕掛けてきたのでした。

これによって、時国は重傷を負ってします。弓が得意だった勢至丸は、定明に向かって矢を射て、定明の顔面に命中させ撃退に成功しました。

武士として育った勢至丸は、瀕死状態の父に復讐を誓います。ところが時国は勢至丸に対して、「仇を討てば、さらにその子がお前を仇に思うだろう。そうすれば、次はお前が討たれる。そのようなことを繰り返す原因になる仇討ちはしてはならない」と諭します。そして、僧侶として生きるよう勧めたといわれています。時国は、間もなくして死亡、その後、法然は比叡山で出家し、僧侶となりました(ただし、一般的な説によるもので、出家の動機については、異説もあります)。

「専修念仏」の教えを説いた法然

浄土宗として知られる法然の教えは、「専修念仏」、つまり阿弥陀仏を信じて専ら「南無阿弥陀仏」と念仏を称えれば、浄土に往生できる、という非常にシンプルなのでした。これは従来の自分の修行によって悟りを開く「自力」の教えに対し、「他力」という新しい救済のかたちを示すもので、その実践の容易さから、修行仏教を「難行道」と呼ぶのに対して「易行道」と呼んでいます。

法然の説く他力・易行の仏教は、出家して仏門に入ったり、寺院に寄付をすることのできない庶民や社会的弱者でも実践可能なものでした。つまり、仏教の救いに到達するためのハードル(条件)を取り払う教えであったため、関白・九条兼実のような貴族から被差別民にいたるまで幅広い人々の信仰を集めました。

法然の登場が刺激となり、今日「鎌倉新仏教」と呼ばれる多様な宗派が現れました。このころから、仏教信仰が広く庶民の間にも本格的に浸透するようになったのです。

法然の弟子だった親鸞

仏教界に大きな衝撃を与えた法然には、多くの弟子がいました。その中で、教科書にも登場するほど有名な人物として親鸞がいます。

法然の弟子・親鸞

親鸞は浄土真宗の宗祖とされていますが、生涯、自分の師は法然であると仰ぎ、新宗派を自ら開いたという意識はなく「浄土真宗を開いたのは法然」という立場でした。親鸞は結婚をしたことでも知られていますが、法然は親鸞の結婚に賛成でした。法然にとっては戒律よりも阿弥陀仏を信じて念仏することのほうが重要だったので「結婚したほうが念仏できるなら、結婚すればいい」という考えでした。   

親鸞の他にも、知恩院や増上寺など今日の浄土宗(鎮西派)に連なる弁長・聖覚や、彼らと論争した証空といった高僧がいます。弁長・聖覚ら鎮西派系と証空の違いをざっくりというと、念仏を一回でも称えればいい(一念義)のか、たくさん称えたほうがいい(多念義)のか、という念仏の回数に関するものでした。弁長・聖覚は多念義、証空は一念義です。法然は回数についてどちらが正しいということを言っていませんでしたので、それだけ多様な解釈が可能だったということです。

このほか、『平家物語』で、わずか17歳であった平敦盛との一騎打ちで有名な武将の熊谷直実も、法然の弟子でした。若い敦盛など、武士として多くの殺生を重ねたことを悔いて、直実は法然のもとで僧侶・法力房蓮生となり、念仏三昧の日々を送りました。

弟子である親鸞との思想の違いは?

結論から言えば、法然と親鸞の根本思想に大きな違いはありません。

高野山所蔵の「聖衆来迎図」(阿弥陀如来が人々を救う様子を描く)

法然は、ひたすら「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えれば誰でも極楽往生できると説きます。親鸞も同じ立場に立ちますが法然の思想に加え、念仏を唱えようという気持ちがあれば、念仏を唱えずとも極楽往生できると考えました。

親鸞の考えを弟子の唯円がまとめた『歎異抄』

さらに親鸞は、阿弥陀仏の願い(本願)が煩悩にまみれた悪人を救うとする悪人正機の考えを重要視します。

つまり親鸞は、法然の教えを否定するのも、法然が開いた浄土宗から独立するのも考えておらず、法然の思想をもとに矛盾しないものを追加したと考えてよいのではないでしょうか。

比叡山や興福寺に訴えられ弾圧された

法然は、生きている間に大きな弾圧(法難)を受けています。法然が法難を受けた理由は、彼の説く専修念仏(ただひたすら、念仏を唱えればよい)という考えが急速に広まったからです。

朝廷に念仏停止を訴えた興福寺

興福寺や比叡山は南都北嶺と呼ばれ、古代から日本仏教をリードしてきたという自負があります。彼らからすれば、法然の教えは極端なものに思えたのでしょう。南都北嶺の僧侶たちは、朝廷に浄土宗の禁止ともいえる念仏停止を訴えました。

法然の弟子の一部が後鳥羽上皇の女房たちを勝手に出家させたのもあり、朝廷は浄土宗の禁止と法然や親鸞の流罪を決定します。その後、法然は許され都に戻りますが、南都北嶺との緊張関係は続きました。

法然の功績

功績1「浄土宗を開いた」

比叡山延暦寺の根本中堂

法然は、鎌倉新仏教の一つである浄土宗を開きました。当時の仏教大学ともいえる比叡山延暦寺で、「智慧第一」と呼ばれるほど学識があった法然。。その彼がたどり着いたのが、の善導が説いた浄土宗でした。

ある時、法然は夢の中で会ったことのない善導と対面。善導は夢の中で「汝専修念仏を広むること、貴きが故に来れるなり」と法然に語り掛けます。浄土宗で“二祖対面”というこの出来事を機に法然は浄土宗を開宗しました。

功績2「『選択本願念仏集』を著した」

法然は、1197年に『選択本願念仏集』を著しました。関白の九条兼実から浄土宗の大事な教えをまとめてほしいと依頼されたのが、著作のきっかけです。。法然はこの要請を受け、3人の弟子とともに浄土の教えの重要な部分をまとめます。

『選択本願念仏集』で法然は、様々な苦行を通じて悟りに達する方法ではなく、ただひたすら南無阿弥陀仏と唱え続ける称名念仏こそが、末法における仏教の在り方だと主張しました。

西方浄土の主で人々を極楽にいざなうと考えられた阿弥陀如来

法然の主張はシンプルで、一般人でも念仏を唱えれば極楽往生のチャンスがあるというものです。このシンプルさが受けて、浄土宗はあらゆる階層の人々に広がりを見せました。

功績3「有力者に浄土宗を広めた 」

法然の弟子となった九条兼実

法然の浄土宗は、朝廷の有力者にも受け入れられました。その代表が藤原北家の出身である九条兼実です。彼は保元の乱で弱体化した藤原北家を再興しようと奔走しました。その後、源頼朝の信任を得て関白となり朝廷のトップとなります。

しかし、院政を行う後鳥羽上皇と関係が悪化したため、兼実は失脚してしまいました。そして、1202年に法然の導きで出家。兼実のほかにも皇族の式子内親王や武士の熊谷直実、宇都宮頼綱などが法然の支援者となります。

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