法然とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や浄土宗にまつわる逸話も紹介】

法然にまつわるエピソード

エピソード1「菩提寺の大イチョウ」

法然の有名なエピソードといえば、「菩提寺の大イチョウ」の由来にまつわるお話。この大イチョウは現在、国の天然記念物に指定されているイチョウです。

法然が9歳の時、法然の生家・漆間家から菩提寺(勝田郡奈義町)へ向かう途中、法然は、ふもとにある阿弥陀堂のイチョウの枝を杖にして登ったそうです。そして、菩提寺に着いた法然は、この枝を「学成れば根付けよ」と言って境内に挿したといいます。これが、見事に根付いて成長し、現在の「菩提寺の大イチョウ」になったと言われているのです。

エピソード2「法然は師匠を論破したことがある」

法然が修業した比叡山黒谷に建てられた青龍寺

法然は師である叡空を言い負かしたことがあったそうです。法然は比叡山で修業していた時、黒谷別所にいた叡空を師匠としていました。叡空は法然の才能を高く評価し、彼を法然道理の聖と称賛した人物です。法然も師叡空を尊敬し、彼のもう一つの名である源空に彼の名を冠しています。

しかし、仏法に関することとなると二人とも妥協しませんでした。あるとき、叡空と法然が極楽往生に関することがら(往生業)に関することで論争しました。このとき、論争の最中に叡空が法然に木枕を投げつけたといいます。法然に言い負かされて、悔しかったのかもしれませんね。

法然の簡単年表

1133年
誕生

4月7日(旧暦)に美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)に生まれました。幼名を勢至丸(せいしまる)といい、父は美作国の押領使・漆間時国、母は秦氏君(はたうじのきみ)清刀自です。
1141年
父の死

父・時国と対立していた預所(荘園を管理する職)の明石源内武者定明による夜襲があり、時国は重傷を負って死亡しました。臨終の間際に時国は法然に、仇を討つのではなく、出家するように諭したといわれています。
1145年
出家

父親の死後、叔父が住職を務める菩提寺で仏教を学んでいましたが、さらに本格的に仏教を学ぶため比叡山に上って僧となり、法然房源空と名乗ります。
1175年
善導の言葉に出会う(浄土宗開宗)

比叡山で学問を究めながらも真の救いに到達できなかった法然は、奈良に遊学します。そこで中国浄土宗の祖である善導の書物にある、念仏を勧める言葉に出会い、専修念仏の教えに到達します。
1207年
承元の法難

専修念仏の教えが広まるにつれ、旧来の仏教からの批判も高まります。そのような中、後鳥羽上皇の女官2人が朝廷に無断で浄土宗で出家したことを契機に法然とその弟子は弾圧され、法然は土佐(高知県)へ流罪とされました。

1212年
死亡

流罪を解かれ、1211年に京都に戻った法然はすでに高齢で、流罪生活の疲れもあって間もなく病床に伏しました。そして年が明けた1月25日に京都東山で80歳(満78歳)で生涯を閉じました。

法然の生涯年表

1133年 – 0歳「誕生」

激動の時代

法然が生まれた平安時代の末期は、藤原摂関家による貴族中心の支配がゆらぎ、各地で武士が台頭するなかで戦乱に明け暮れる激動の時代でした。当時の日本の仏教界では、仏教の教えが衰退して世の中が乱れる末法の時代を迎えたとする、末法思想が語られていました。

このような時代にあって登場したのが、いわゆる鎌倉新仏教でした。乱世の中で、人々が真の救済を求めて模索した時代であったといえるでしょう。その鎌倉新仏教の一番手として登場したのが法然でした。

武士の子として生まれた法然

法然は、1133年(長承2年)4月7日(旧暦)に美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)に生まれます。生誕地は現在、誕生寺のある場所ですが、この誕生寺というお寺は、法然の弟子として出家した熊谷直実が師である法然を顕彰するために建立したものと伝えられています。法然の幼名は勢至丸(せいしまる)といいます。「勢至」というのは、智慧を司る菩薩である勢至菩薩からとったものでした。

法然の父は美作国で押領使を務める漆間時国です。押領使というのは、その土地の警察業務を司る役職で、当時は武士がこれを担当していました。つまり、法然の生家は武士であり、勢至丸と名乗っていた幼い法然は、武士となるべき漆間家の後継者として育てられます。母は秦氏君(はたうじのきみ)清刀自で、渡来人の家系である秦氏の子孫といわれています。

1141年 – 9歳「父の死」

不意の夜襲

勢至丸(のちの法然)は、武士として学問と武芸を熱心に学びます。その甲斐あって、幼いながら弓の名手として成長していきました。

武士として成長していた勢至丸を突然、ある出来事が襲います。1141年(保延7年)、父である漆間時国と対立関係にあった預所(荘園を管理する職)の明石源内武者定明が、夜に不意討ちを仕掛けてきたのでした。

弓が得意だった勢至丸は、定明に向かって矢を射て、定明の顔面に命中させ撃退に成功しました。ところが、この襲撃によって、父・時国は重傷を負ってします。

父の遺言

武士として成長しつつあった勢至丸は、瀕死状態に陥った父に「必ず復讐する」と誓います。ところが時国は勢至丸に対して、次のように諭しました。

「自分が討たれたのは前世からの宿業であるので、敵を怨むようなことは決してしてはならない。もし、お前が敵に恨みの感情を持てば、その恨みの連鎖は末代まで続くであろう。なので、お前は早く俗世から離れて出家して僧となり、私(時国)の菩提を弔いながら、自分の悟りをめざすのだ。」

つまり時国は勢至丸に対して、武士として復讐すれば、相手の子がまた勢至丸を親の仇と思って、攻撃し、さらに勢至丸の子は、その報復をする、という恨みと殺害の連鎖が永久に続くことを説いたのでした。そして、復讐の道とは異なる、僧侶として生きるよう勧めたのでした。時国は、間もなくして死亡したのでした。

1145年 – 13歳「出家(比叡山へ)」

仏教へと向かう法然

父の死後、勢至丸は叔父が住職をしていた漆間家の菩提寺に預けられることになりました。ここで勢至丸は仏教について熱心に学び、修行しました。

そして、1145年(天養2年)にいよいよ本格的に仏教を学ぶため、比叡山に登ることになりました。この時代の比叡山は、全国から優秀な人材が集まる、現在でいうトップの総合大学のような場所でした。この比叡山で才能を開花させていきます。

比叡山での学び

比叡山で僧侶となった勢至丸は、法然坊源空と名乗り、学問と修行に励みます。法然の求めた仏教は、万人を救うことのできる道でした。それを求めて比叡山の著名な学僧たちのもとを訪ねては教えを請い、多くの経典を読みあさりました。

このような苦悶の日々を30年、比叡山で送った法然は、「智慧第一の法然房」と呼ばれるほど、優秀な僧として知られるようになりました。ところが、比叡山ではついに自分が求める仏教に出会うことができませんでした。

1175年 – 43歳「善導の言葉に出会う(浄土宗開宗)」

善導の言葉に感化

万人が救われる道を求めて、法然は比叡山から奈良に向かいます。すでに43歳になっていました。そこで、ついに長年求めてきた仏教に出会うことになりました。

それは、中国で浄土教を大成させた善導(613―681)の著した『観無量寿経疏』にあった、「一心に弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざる者、これを正定業と名づく、彼の仏の仏願に順ずるが故に」という言葉でした。この「念仏こそが往生のための正しい行である、これは阿弥陀仏の願いに順うものだからだ」との善導の言葉によって、専ら念仏すれば浄土に往生できる、という専修念仏の教えに、法然は到達したのでした。

比叡山から京都吉水へ

自分の求めていた万人を救う道とは専修念仏であるという確信を得た法然は、比叡山を出て、現在、知恩院のある京都の吉水に草庵を結び、ここで人々に専修念仏の教えを説きました。

この教えは、多くの人々の共感を呼んで広まり、吉水を中心とした念仏集団が形成されることとなりました(吉水教団)。法然の浄土宗は諸宗の高僧や関白・九条兼実、さらには後白河法皇までもが信仰することとなり、吉水教団はさらに成長していったのでした。

1207年 – 75歳「承元(建永)の法難」

法難の発生

京都で隆盛を極めていた法然の吉水教団でしたが、その一方で、諸宗が連名で専修念仏禁止を朝廷に要請する「興福寺奏状」が出されるなど、対抗しようとする動きも活発でした。このような中、法然の晩年の吉水教団に激震が走ります。

法然門下の安楽・住蓮の法会に参加していた、後鳥羽上皇の女官2人(松虫・鈴虫)が朝廷に断りなく浄土宗で出家したのです。これに対して、上皇は大いに怒り、専修念仏は停止、吉水教団は解散、本件に直接関与した安楽・住蓮は死罪、法然はじめ親鸞など教団の主要構成員と女官たちは流罪とされました。これを「承元(建永)の法難」といいます。

流罪生活

法然は当初、土佐(現在の高知県)への流罪とされていました。これに対し、法然を師と仰いでいた九条兼実らが減刑を求めて、働きかけを行った結果、讃岐(現在の香川県)への流罪に変更となり、これも年内に赦免とされました。しかし、京都に帰ることは許されず、約4年のあいだ、摂津(現在の大阪府北部)にある勝尾寺で暮らしながら、布教を続けました。

法然は、流罪を各地の人々に布教するチャンスと考え、あらゆる人々に専修念仏の教えを説きました。流罪地である讃岐に向かう途中の漁村では、漁師たちを教化しました。このほか、現在の兵庫県に位置する室(むろ)の津で遊女に念仏を勧めたという話は有名です。さらに、流罪中に滞在した讃岐の小松荘では、法然のもとを訪ねる人々で僧俗の行列ができたほどです。

1212年 – 80歳「死亡」

法然の死

1211年になって、ようやく法然の入洛が許可されることになりました。京都に戻った法然はすでに高齢でした。流罪生活の疲れもあって、法然は間もなく病床に伏しました。

そして年が明けた1月25日に京都東山で80歳(満78歳)で生涯を閉じました。死の数日前から法然は念仏を称え続けます。死を前にした法然は弟子に「念仏を修せんところは、貴賎を問わず、海人漁人がとまやでも、みなこれ予が遺跡(ゆいせき)なるべし」(『法然上人行状画図』)と語り、念仏をする場所が、自分の墓であるので、葬儀や墓にこだわらず、ただ念仏せよ、と戒めたのでした。

法然の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

マンガ 法然入門

法然の波乱に満ちた生涯を、コンパクトかつ分かりやすく大人向けにマンガ化した本です。とにかく分かりやすい本を求めている人はもちろん、法然の著書などは解説文で補強してあるので、少し突っ込んで知りたいという人にもおすすめです。法然研究者として名高い大橋俊雄氏の監修なので、内容はしっかりしています。

選択本願念仏集―法然の教え (角川ソフィア文庫)

法然の主著である『選択本願念仏集』の原文と阿満利麿氏による現代語訳と解説が掲載されています。非常に読みやすい訳となっていて、法然の言葉に直接ふれることで、その教えのシンプルさと大衆性がよくわかる良書です。

おすすめおすすめ動画

郷土に輝く人々 法然

岡山県が作成した約5分間の教材ビデオです。岡山県内の関連遺跡の映像を取り入れつつ、絵を用いて中高生にもわかりやすく法然の生涯を紹介しています。

関連外部リンク

法然についてのまとめ

法然の80年にわたる生涯は、まさに波乱万丈でした。その中で、万人を救う道に出会い、これを広めるのだ、という信念があったからこそ、その生涯を生き抜くことができたのでしょう。

厳しい生存競争を生き残ることにエネルギーを費やしている、あるいは競争に疲れてしまっている、そのような時代を生きている私たちはつい、利己的になってしまいがちです。法然の生きざまは、そのような私たちに「あなたも、万人も、皆がよりよく生きる道はないのか?」と時代を超えた普遍的な問いを投げかけ、進むべき道を示しているように感じます。

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