水戸黄門のモデル!徳川光圀とはどんな人?【性格や名言、死因、逸話について紹介】

徳川光圀といえば、時代劇ドラマでも「この印籠が目に入らぬか!」でおなじみの「水戸黄門」の黄門様のモデルになった人物です。第2代水戸藩主です。

初代江戸幕府将軍だった徳川家康を祖父に持つ徳川光圀は、1628年に水戸国(現在の茨城県水戸市宮町)で生まれた徳川光圀は、1701年に73年の生涯を閉じています。

徳川光圀

さらに徳川光圀は、会津藩主の保科正之(ほしなまさゆき)、岡山藩主の池田光政(いけだみつまさ)と共に、「江戸初期の三名君」と称された人物で、当時の中国で大流行した儒教を基にした儒学と呼ばれる学問を奨励したことで、新たな学問・水戸学を創始した人物でもあります。

徳川光圀のことは、なんとなく時代劇ドラマ「水戸黄門」で知っている人も多いかと思いますが、実は時代劇「水戸黄門」での水戸光圀の活躍というのは、フィクションであり、実際とは異なる部分が多いんです。

例えば、徳川光圀が活躍していた当時は、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉が「生類憐みの令」を発布していた時期なのですが、なんと将軍に対して影響力を持つ数少ない人物として、「生類憐みの令」にモノ申したとされています。

今回は、時代劇「水戸黄門」からは想像もつかない徳川光圀について、ナショナル劇場「水戸黄門」の第22部 – 第28部の時代を愛してやまない筆者が、徹底的に解説していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

徳川光圀とはどんな人か?

名前徳川光圀
誕生日寛永5年6月10日(1628年7月11日)
生地水戸城下柵町(現在の茨城県水戸市宮町)
没日元禄13年12月6日(1701年1月14日)
没地西山荘(現在の茨城県常陸太田市)
配偶者正室:近衛信尋の次女・尋子(泰姫)
側室弥智(親量院)
埋葬場所瑞龍山、久昌寺義公廟、常磐神社

徳川光圀の生涯をハイライト

現在光圀は水戸市の常磐神社に神として祀られている

1628年、徳川光圀は水戸藩主・徳川頼房の三男として水戸で誕生しました。母が正式な側室でなかったため、兄の頼重とともに家臣の家で育てられます。

後に光圀は世継ぎに決定、藩主になるための教育を受けるようになりますが、長男の頼重を差し置いて藩主になることへの後ろめたさがあったのでしょう。手のつけられない不良と言われるようになりました。

しかし18歳のときに中国の書物「史記」に出会い、勉学に目覚め、その後は藩主への道を着実に進んで行きます。

藩主になってからの光圀は藩内の政治に取り組みながら、大日本史を編纂します。これは百代に渡って帝王の治世を克明に記録して、後世に伝える大仕事で、完成は1906年のことでした。

また、蝦夷地(現在の北海道)への探検を行うなど、光圀は当時としては画期的な藩主でしたが、63歳で隠居して藩主の座を兄・頼重の息子へ譲ります。兄を差し置いて藩主になってしまったことの罪滅ぼしがやっとできたのでしょう。

そして、食道がんにより光圀は亡くなりました。1701年、年齢は73歳になっていました。

徳川光圀は何をした人物なのか?

徳川光圀が何をした人物なのかはあまり知られていませんが、実はその一部は私たちの身近な部分に関係しています。

徳川光圀は、以下のようなことをした人物として、歴史に名を残しています。

  • 本格的な日本の通史「大日本史」の編纂を行う
  • 独自の学問「水戸学」を築く
  • 主君の死による後追いの殉死を禁止
  • 蝦夷地(後の石狩国/現在の石狩市周辺)の探検
  • 古典研究や文化財の保護活動
  • 徳川綱吉の将軍就任に協力するも、生類憐みの令に反対
徳川光圀が編纂した大日本史

文化財の保護活動や、大日本史の編纂という部分においては、幕末の思想に大きな影響を与えただけでなく、歴代の天皇をハッキリさせた、という意味では、大きな影響力があるのです。

また、蝦夷地の探検というところにおいては、これまでなかったとされていた北海道を発見するに至る、という大きな功績を残しています。

さらに、最後の「生類憐みの令」への反対という部分では、将軍・徳川綱吉に対しての影響力もかなり大きかったことがわかります。

徳川光圀の生まれは?

水戸黄門神社(義公生誕地)

徳川光圀は、寛永5年(1628年)に常陸国水戸藩(現在の茨城県水戸市周辺)主である父・徳川頼房(とくがわよりふさ)の三男として誕生しました。

三男として誕生はしたものの、実は家臣の屋敷で誕生した、という来歴を持っています。なんと、母は正式な徳川頼房の側室ではなかったそうです。その女性が藩主の寵愛を受けてしまったことで子どもを身籠った、と記録されています。

徳川光圀は、父・徳川頼房にとっては望まない子であったことから、密かに産むしかなかった、と言われています。

庶民のための政治を心がけた光圀

茨城県潮来市の長勝寺は光圀によって残された由緒正しい寺の1つ

光圀は藩主になって間もない1663年に、大胆な改革をします。

当時、幕府はキリスト教を禁じ、人々が寺の檀家となることを義務付けていました。檀家になるとキリスト教ではない証になりますが、それだけでなく寺の経済を支える義務がありました。

しかし、そこに乗じて檀家から強制的に金銭を取り、利益を追求する寺が出てきたのです。

光圀はそんな状況を改善するため、藩内の半数近い寺を統廃合しました。寺を廃した理由で最も多かったのが「不行跡(良くない行い)」だったということです。このことから、光圀が庶民のためを思っていたことがよくわかります。

徳川光圀は将軍に文句を言える立場だった!?

徳川光圀の影響力は、簡単に説明すると「将軍に文句を言える、数少ない立場である」というくらい、その影響力は大きなものでした。

将軍の綱吉にも意見できる貴重な人物だった

徳川綱吉を将軍にするために影響力を与えたと同時に、徳川光圀が隠居後に将軍となった徳川綱吉の発布した「生類憐みの令」に反対の声をあげたのですから、納得です。

何を隠そう、徳川光圀の祖父は江戸幕府初代将軍・徳川家康であり、正当な徳川将軍家の血を引いた水戸徳川藩主の出自だからです。

つまり、徳川家康から見たら、徳川光圀は孫の存在。それは、影響力があるわけです。

徳川光圀の死因は?

徳川光圀は満73歳で食道がんにより、隠居していた西山荘で亡くなったとされています。

72歳の頃より、食欲不振の兆候が表れていたことから、食道がんだったと言われていますが、真意は定かではありません。

徳川光圀の死因とは?その性格と先進的な食生活が病気の原因だった?

徳川光圀が残した心に刺さる名言

茨城県水戸市千波公園にある徳川光圀像

徳川光圀は、現代人の心にもグッとくる名言を数多く残している人物でもあります。
今回は、現代に生きる私たちにもグッとくる、徳川光圀の名言を3つご紹介しましょう。

生くべきときに生き、死すべきときに死す。

誕生日は、最も粗末な食事でいい。 この日こそ、母を最も苦しめた日なのだから。

苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし。

水戸光圀の功績

功績1「勉学で道が拓ける?若者たちに希望を与えた光圀」

現在の彰考館跡(水戸市立第2中学校前)

歴史学に強い興味を持っていた光圀は「彰考館」を設置して大日本史の編纂を行います。彰考館では編纂作業を行うだけでなく、日本各地に職員を派遣して調査活動も行いました。

光圀の時代、彰考館の職員として採用されたのは、武士として取り立てられた学者たちで、水戸藩出身でない者も多くいました。

彰考館の学者になれば身分は関係なかったため、水戸藩では学問で道を拓こうとする若者が多く出ることになりました。彰考館の存在は当時の若者たちの大きな希望となったのです。

功績2「人間に最も大切な水!光圀の『笠原水道』とは」

現在の笠原水道(浴徳泉の碑)

水戸下町はもともと湿地帯だったので、井戸を掘っても水が濁ってしまい、庶民は飲水にも不自由していました。

光圀は藩主になってすぐの1662年に水道を設置することを決定、笠原不動谷の湧き水を水源にして、全長約10kmの笠原水道が完成します。これは明治になり、近代的な水道ができるまで大切に改修しながら使われ続けました。

笠原水道は現在も観光名所として残されており、当時水道管として使われていた岩樋の複製品も見ることができます。どんな人間にも必要なのが水です。水道整備を命じた光圀は、藩主として賢明な判断ができる人だったことがわかります。

功績3「庶民の健康を気遣った?『救民妙』の作成 」

常磐神社・義烈館所蔵の救民妙薬

1693年、隠居していた光圀は、水戸藩の庶民が具合が悪くても医者の治療はおろか薬も手に入れられないことを知りました。そこで光圀は藩医に命じて、薬草や健康法についてわかりやすく記した本「救民妙薬」を作り、出版します。

この本には自分で手に入れられる野草などで薬を作る方法から、日常の健康法、そして身近な民間薬397種の使用法が載っていたため、大いに庶民の役に立ちました。その証拠に明治・大正時代には活字本として印刷され、水戸の人々を助けたのです。

現代でも十分に通用しそうな、光圀の心遣いです。

徳川光圀にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「いわゆる不良少年だった」

女性の着物のような派手な格好を好んでいた

若き徳川光圀は、今でいうところの不良少年だったそうです。女性の着物のような派手な格好を好み、元服もしないまま遊郭に出向き、最悪なことに、刀の練習でわけもなく知らない人を殺してしまう…なんていうレベルです。

しかもこれで、水戸藩主の息子、さらに「背が高く、色白の美男子」なんて言われていたのですから、手に負えません。

しかし、ここまでの不良少年になってしまうのには、彼にも理由がありました。それは、後述でも述べますが、水戸光圀は兄と共に生まれた自分自身の存在を、父・徳川頼房から認められていなかったのです。

父親に認められなかっただなんて、それはグレてしまいます。

都市伝説・武勇伝2「生類憐みの令」に対する反対度がすさまじかった

綱吉が発布したとして有名な「生類憐みの令」

先ほどから何度か、「徳川光圀が生類憐みの令に反対した」という話をしていますが、その反対っぷりがかなりすごかったことでも有名です。

隠居後の徳川光圀が反対した、将軍・徳川綱吉が発布した「生類憐みの令」は、年を増すごとにエスカレートしていました。なんと、牛、羊、犬、猫、鳥だけでなく、魚類、貝類、虫まで殺生を禁止しています。

しかし徳川光圀は、このエスカレートした「生類憐みの令」を無視し、平気でこれらの動物たちの肉を食べていたんだとか。

さらに、徳川綱吉に対して、犬50匹を使った犬の皮を献上したという逸話まで。これは頭が上がりません。

しかし、ここまで徳川光圀が反対のサインを出していても、徳川綱吉自身は死の淵にいる時までも「生類憐みの令」を守り抜くように遺言していたのですから、両者ともスゴイですよね(笑)

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