今でもたくさんの人たちに親しまれている徳川光圀。テレビの時代劇「水戸黄門」でもおなじみで、知らない人はいないかもしれませんね。
光圀が生涯を終えたのは1701年、もっとも江戸時代らしい世の中を生きたわけですが、彼の人生は私たちが持っている江戸時代のイメージとはかけ離れたものでした。光圀の人生とはどんなものだったのか、そしてどんな最期を迎えたのかをこれから解説していきます。
それにはまず光圀の死因が何だったのかを知る必要があります。死因を探ることで、彼の性格だけでなく人生や功績まで知ることができますよ。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
徳川光圀の死因は「食道がん」
水戸藩の藩主だった徳川光圀が亡くなったのは74歳(満年齢では73歳)のときでした。その2年前から食欲不振が目立つようになり、最後には眠るように静かに亡くなったと記録されています。
食欲不振以外の症状についてはあまり記されていないために、胃がんか食道がんであったと考えられています。
「食道がん」とはこんな病気
現在も食道がんにかかる人は少なくありません。飲酒や喫煙などが大きく関係すると考えられ、患者のほとんどが40代以上の男性です。
この病気は初期にはほとんど症状がありません。食べ物がつかえるなどの症状が出たときには、もはや初期状態ではないと言われています。
江戸幕府の初代将軍・徳川家康は胃がんで亡くなったと言われていますが、長い期間の闘病生活と苦しむ様子が記録として残っています。食欲不振以外の症状が伝わっていないことからも、光圀の病気は食道がんで間違いないように思われます。
徳川光圀の性格は「食道がん」に影響したのか
光圀は強い性格の持ち主だったと言われています。
若いころは辻斬りを行ったほどの不良でしたが、18歳のときにはそれを改め、一途に勉学に打ち込んだところなどはその強さをよく表しています。この後光圀は生涯を通して勉学を大切にしています。彼は自分の信じた道を大切にする人だったようです。
また、好奇心も旺盛で新しいものを取り入れ、自分でも試すことが大好きでした。それは政治的に大きなことから身の回りの小さなことまでに及び、まるで学者が自分を実験台にしているようでした。
新しいものに物怖じしなかった光圀
光圀の好奇心旺盛な性格がよく現れているのは、蝦夷地(現在の北海道)の探検です。藩主だった光圀が自ら関わり、巨船を仕立てて行った探検は3度目では石狩まで到達しました。このときは米や麹、酒などと引き換えに、熊の革や鮭に加えてラッコやトドの革も持って帰ってきました。
この探検の後、水戸藩は蝦夷地への強い関心を持つようになりました。水戸藩はほかの藩の1歩先を行く進歩的な考えを持っていたと言えます。光圀の新しいものに物怖じしなかった性格が藩の行く先をも左右したわけです。
先進的な食生活!これが病気の原因に?
光圀はその性格のために、食生活も当時としてはかなり先進的でした。肉を食べていたのははもちろん、ワインも好んでいたそうです。
また、光圀は餃子やチーズを日本で最初に食べた人物としても有名です。好奇心が旺盛というだけでは、これらのものを口にできなかったでしょう。やはり光圀の性格には好奇心とともに強さがあったと言えます。
光圀の食生活は現在の私たちと変わりがないようですが、飲酒や喫煙と並んで食生活の欧米化が食道がんの原因と言われているのも事実です。早すぎる食生活の欧米化が光圀に食道がんを招いてしまったのかもしれません。結果として、光圀の性格は食道がんに影響を与えたと言えるでしょう。
徳川光圀の功績
テレビの時代劇で見せる穏やかな顔だけが光圀のすべてではありません。水戸藩は幕末に大きな役割を果たしますが、彼の功績は藩主として水戸藩の基礎を作ったことです。
これは光圀の性格によるところが大きいのですが、それに加えて彼の立場も関係しています。
将軍に物言える唯一の存在だった
光圀は水戸藩の藩主でしたが一大名だったわけではありません。初代将軍・徳川家康の十一男であった徳川頼房によって始まったのが水戸藩です。
つまり光圀は徳川家の直系であり、家柄と性格が相まってほかの大名たちよりも一段高いところにいたことがわかります。光圀は当時の5代将軍・徳川綱吉にもハッキリと意見ができたそうです。悪法と言われた「生類憐れみの令」についても光圀は異論を唱え、肉食を止めませんでした。
その上、光圀は参勤交代が免除されていて常に江戸にいました。将軍に意見ができることに加えて、いつも将軍のそばにいることから副将軍という呼び名ができたのです。光圀が藩主だったおかげで、水戸藩は幕府の顔色を伺わなくても済みました。
学問の奨励で若者たちに希望を与えた
光圀が学問を奨励し、学者を優遇したことから、水戸藩では学問で身を立てる者が多く出ることになりました。職業は世襲制が当たり前だった江戸時代に、どんな身分の人間でも学問を修めることで生活ができる、出世ができる人生は新しいものでした。
光圀が奨励した学問は「水戸学」として幕末にかけて、多くの人の政治思想に影響を与えました。そして水戸学の学者たちにとって、光圀は後の時代まで絶大な人気を誇ったのです。
光圀の新しいものに物怖じしない性格は病気を招いたかもしれませんが、水戸藩の若者たちに夢と希望を与え、その後の水戸藩の基礎を築きました。
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徳川光圀の死因に関するまとめ
徳川光圀の死因と彼の性格は無関係ではありませんでした。新しいものに物怖じしない、強い性格は食生活でも発揮され、江戸時代という早い時期から食生活の欧米化を招き、食道がんの原因になったと思われます。
しかし同時にその性格のおかげで、幕末に大きな影響力を持つ水戸藩の基礎ができました。そして、たくさんの若者たちが身分に関係なく、勉学で身を立て自分の思う通りの人生をおくることができました。光圀は副将軍として水戸藩の基礎を作り、守ったのだと言えます。
食道がんにかかったのは不幸なことかもしれませんが、光圀が亡くなったのは74歳のときです。当時としては決して短命ではありませんでした。偉大な功績を遺し、亡くなった後も多くの人に愛され、親しまれた光圀は幸せを感じていたに違いありません。