「ヤクザの組長ってどんな人がいるの?」
「どんな人がヤクザの組長になるのだろう?」
ヤクザとは、暴力を背景とした犯罪活動に従事する集団です。ヤクザの特徴の1つに、親分子分の強い組織形態があることといえます。ヤクザのトップは「組長」と呼ばれ、組織全体の総括をしているのです。
そんなヤクザの組長はどんな人なのか?最大規模の指定暴力団「山口組」組長を含めた有名な組長・会長を12名紹介していきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
山口組の歴代組長を紹介
兵庫県神戸市に本拠地を置く広域暴力団「山口組」は、構成員数は推定1万人以上の大きい組織です。その山口組を束ねる歴代の組長を紹介します。
山口組初代組長:山口春吉
元々は漁師の仕事をしていましたが、神戸港に出てきて1915年に沖仲士50名程度を集めて「山口組」を創設。舎弟に暴力を振るった大長政吉さんを襲撃し、報復合戦の末に日本刀で刺殺し返り討ちに合わせたそうです。その後懲役8年の刑を受けています。1925年に長男・山口登さんに引継ぎ引退しており、10年間組長の座にいました。
山口組二代目組長:山口登
初代組長・山口春吉さんの長男で、1925年に23歳で組長を引き継ぎ、新進気鋭の若親分として「切戸の親分」と呼ばれました。この頃山口組は大島組の系列組でしたが、2代目就任後抗争が勃発。大島組に上納金を納めなかったため破門となり、その後大島組と仲違いしています。
吉本興業と提携したり、歓楽街・相撲界など港湾界だけでなく芸能界なども牛耳る布石を作り、ヤクザの仕事を増やしていきました。1940年に吉本興業が絡む抗争で、籠寅組と話し合うために下関に行きますが、日本刀で18か所も斬られてしまいます。その時は一命を取り留めましたが、1942年に傷が元で死去しています。享年41歳でした。
山口組三代目組長:田岡一雄
小学校の時に2代目組長の弟・山口秀雄さんと同級生であったため、秀雄さんに誘われ山口組に入っています。そして抗争で活躍し、殴り込みをかけてきた相手を日本刀で返り討ちにしたことから懲役8年の刑を受けている内に、2代目山口登組長が死亡。出所後は田岡組を作り闇市などを警備する「自警団」を設立。不良外国人の干渉を防いでいます。
その後山口組舎弟会が、田岡さんを組長に推挙。1946年に山口組3代目組長に就任しています。その後芸能プロダクションを飛躍させ組も大きくする一方、1950〜1960年代は各地で抗争事件を起こしています。1978年には対立していた組員から狙撃され、首を負傷しました。首の傷は治ったものの1981年に、急性心不全により68歳で死去しています。
山口組四代目組長:竹中正久
荒々しい性格から「荒ぶる獅子」とあだ名され、山口組に入る前から地元の不良を集めて「竹中組」を作っていました。28歳で山口組に入ってからは取り調べの時に、検事が組長を「田岡」と呼び捨てにしたために暴れたり、組員を守るために自分だけが起訴されたりしています。
4代目就任においては、山本広組長代行と跡目争いをしています。結局田岡の妻・文子さんの支持もあり、4代目に就任しますが、山本広さんと支持する直系組長らは山口組から分裂し「一和会」を作っています。結局竹中組長は「山口組」と「一和会」の抗争・山一抗争でヒットマンに胸と腹を撃たれ、病院に運ばれましたが26時間後に死亡が確認されました。
山口組五代目組長:渡辺芳則
学校卒業後は愚連隊を率いており、テキ屋を手伝ったことからヤクザと関わり合いを持つようになったといいます。22歳の時に山健組の組員となり、組長・山本健一の代わりに服役するなどして山本組長の信任を得ました。
その後山健組の二代目となり、山口組直参に昇格しています。山口組四代目組長・竹中正久さんの時代に山口組の若頭補佐となりました。そして竹中組長がヒットマンにより射殺されてしまい、その流れから山一抗争の末に五代目組長に就任しています。
組長就任後はブロック制を導入して組織を合理化し、近代的な組織にしました。そして64歳の時に体調不良を理由に引退し71歳で死去しますが、最後は六代目に挨拶されても認識できない程弱っていたそうです。
山口組六代目組長:司忍
本名は篠田健一さんといい、質素な生活を送って身体を鍛えることも欠かさない性格だといいます。物腰も低く、組の若いものにも優しく、阪神淡路大震災の時は率先して大量の焼きそばを作っていたそうです。「司忍」という名前は、「耐え忍んで司る」から取ったといいます。
経歴は学校卒業後、企業に就職するも三代目山口組系鈴木組内弘田組に入り、抗争では武闘派として活躍します。弘田の引退により「弘道会」を結成。山口組直参となった後は、中部ブロック長となりました。2005年に六代目山口組組長に就任しますが、抗争の銃撃戦における銃刀法違反により実刑判決が出て、府中刑務所に服役していました。2011年に刑期が満了して出所し、2022年現在も山口組を取り仕切っています。