ヤクザの組長一覧!山口組やその他有名な歴代組長も紹介

その他の有名な組長・会長を紹介

有名な組長・会長を6名紹介
出典:MADAMERIRI

ここでは山口組系組長や、それ以外の組長で有名な人物を6名紹介します。

二代目竹中組組長:竹中武

竹中武組長
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二代目竹中組組長であり、1961年に山口組の二次団体になってからは、1971年に三代目山口組若頭補佐になりました。竹中家に養子に入り、兄に山口組四代目組長・竹中正久さんがいます。別名「異端児」「最後の極道」といわれており、孤立無援の中でも敵対勢力に乗り込み破れなかった武闘派でならした人物です。信条は「一般人を絶対泣かさない」だったそう。

山一抗争の後始末に納得できずに、山口組を脱退。理由は、兄・正久さんを殺害した山本広が存命だとけじめがついていないとし、山本の引退で幕引きとなった山一抗争に不満であり、山口組最高幹部の椅子を蹴って脱退することとなりました。脱退後竹中組は山本さんの居場所を突き止めようとして、結果的に山口組と不和になっています。しかし1993年に山本さんが病死したために、山竹抗争も自然消滅したそうです。

弘道会会長:竹中照明

弘道会会長・竹中照明さん
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2013年から名古屋を拠点とする弘道会の会長を務めており、七代目山口組組長の最有力候補の1名といわれています。2022年現在、山口組のトップが司忍組長であり、次に若頭の高山清司さん、3番目が竹中照明会長です。

山一抗争では後藤組を解散させるために活動し、後藤組の解散を促した後に拉致暴行の罪で数年間服役しています。出所後は「高山清司若頭の子分中の子分」とされ、2013年に高山から弘道会を譲られました。そして高山組若頭だった中野寿城さんを弘道会若頭に昇進させて弘道会を支えています。そして2015年に中部ブロック長となり、八代目世代の山口組運営も視野に入れていると考えられています。

後藤組組長:後藤忠政

後藤組組長・後藤忠政さん
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暴力団・後藤組を結成し、山口組幹部構成員となり、五代目山口組若頭補佐、六代目山口組舎弟を勤めています。しかし病気を理由に定例会を欠席していながらゴルフコンペを行っていたこともあり、山口組を除籍。そのため、やくざは引退しています。

2009年に天台宗寺院で得度し、法名は忠叡を名乗っています。その後東日本大震災の物資運搬の支援などチャリティー活動に従事。2011年にはカンボジアに移住し、養鶏場経営を手がけるとともに、学校を建てたりと支援しているそうです。2012年にはカンボジア国籍を取得し、伯爵に相当する「オンニャー」の称号を得てます。

山健組組長:山本健一

山健組組長・山本健一さん
出典:MATOMEDIA

山口組四代目の最有力候補でしたが、病死してしまい「山一抗争」のきっかけにもなった人物です。性格は昔気質で一本気だったといいます。山口組系安原会の構成員でしたが、芸能プロモーターとのトラブルで当時のトップスターを襲撃する「鶴田浩二襲撃事件」の実行犯として、鶴田浩二さんに頭と手に11針縫うほどの怪我を負わせました。

その他敵対勢力だった「谷崎組」の若頭・野沢修を襲撃し、全身をドスで斬り刻む怪我を負わせ、懲役3年の実刑を受けています。出所後は働きぶりが認められ直参に昇進。山口組三代目・田岡組長の信頼を得て、秘書兼ボディーガードを務めていました。そして1978年の「大阪戦争」では、田岡組長を狙撃したことにより、徹底的な報復をしています。田岡組長の死後は組長になる予定でしたが、肝臓病の悪化により就任せずに獄中死しました。

章友会会長:石田章六

章友会会長・石田章六さん
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柳川組の組長であり、「柳川組四天王」の1人です。柳川組は最盛期の時には、約2800名を抱える大きな組でした。大阪の勢力争いの抗争では敵対勢力100人に対して、8名で日本刀を持って殴り込みをかけたといいます。「殺しの軍団」と恐れられたといい、山口組でも「柳川と喧嘩するな、みなやられるから」と言われる程恐れられたそうです。

三代目山口組の時代には、二次団体でありながら広域暴力団に指定された唯一の団体でした。しかし1969年に柳川組は解散、山口組直参に昇格しています。四代目山口組の発足に伴い舎弟に入り、六代目山口組発足に伴い顧問に就任しました。超武闘派で恐れられていましたが、普段は温和で気さくな人だったそうです。

波谷組組長:波谷守之

波谷組組長・波谷守之さん
出典:MATOMEDIA

東映実録映画「最後の博徒」の主人公のモデルとなった人物です。「堅気に迷惑をかけない」をモットーとしており、生涯賭博以外のしのぎを持たなかったといいます。博打も豪快で、一晩で1億勝ったり負けたりするような勝負をしかけていたそうです。波谷組の組長であり、10代の頃の島田紳助さんは憧れて心酔していたとか。

1990年に波谷組系の岩田組と山口組弘道会系西岡組のトラブルにより、波谷組と山口組の「山波抗争」と呼ばれる抗争に発展。この時は一般人を誤って殺害してしまうトラブルも起きたために、早期の解決を目指し、「波谷守之はヤクザを引退しないが、若衆を手放すこと」という手打ち条件を飲み抗争は終結。しかし山波抗争の贖罪意識からか、1994年に自宅で拳銃自殺しています。

ヤクザの組長に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?今回はヤクザの有名な組長・会長の簡単なプロフィールを紹介しました。筆者は名前を聞いたことがある組の親分は、どういった人物なのかが分かる執筆となった印象です。この記事を読んで「私も初めて知った」という方の参考になれば幸いです。最後までお読みいただきありがとうございました。

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