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杉原千畝とはどんな人?生涯・年表まとめ【命のビザや功績についても紹介】

杉原千畝(すぎはらちうね)は、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる日本の外交官です。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れるために逃げてきた約6000人に渡るユダヤ人に、彼の独断で亡命するためのビザを発行したことで知られています。本来であれば虐殺されてしまうところだった命を救ったことから「命のビザ」と呼ばれています。

「東洋のシンドラー」と呼ばれるゆえんは、同じく第二次世界大戦中に、ドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人の中で自身の工場で雇用していた1200人を虐殺から救ったオスカー・シンドラーから名付けられています。

杉原千畝

杉原千畝がリトアニアの領事館に着任した時、既にドイツではヒトラー率いるナチス政権がファシズムの勢力を強めていました。ナチス政党はユダヤ人の撲滅と、当時ユダヤ人の有力者が入党していた共産党にも反対し、ゲルマン人優位性を掲げて団結力を強めていったのです。

ポーランドを占領され、ナチスに迫害されたユダヤ人たちは、命の危険を感じて他国に逃れようとします。日本を経由して他国に亡命するためにビザの発行を求めて日本領事館に連日押し寄せてくるようになりました。

連日100人以上のユダヤ人が訪れましたといいます。脱出のために残されたルートは日本に渡ってアメリカやその他の国に逃れる道しかなかったのです。

千畝が実際に働いたリトアニアの領事館

しかし、戦争のさなか、ユダヤ人を受け入れる、ビザを発行できる国はそう多くありませんでした。そんな中、杉原は自らの危険を顧みず、ドイツやソ連を上手くかわしながら「命のビザ」を発行しました。イスラエルからは今なお「東洋のシンドラー」「正義の人」と称えられる存在であり、全世界に命のビザのルーツが広めた張本人です。

杉原のドキュメンタリー映画をみて、彼の決断に強く心が揺さぶられ、彼の人生を研究してきた筆者が、杉原千畝の人物像を心余すことなくご紹介していきます。

杉原千畝とはどんな人?

名前杉原千畝(すぎはらちうね)
誕生日1900年1月1日
生地岐阜県加茂郡八百津町
没日1986年7月31日
没地神奈川県鎌倉市
埋葬場所鎌倉霊園
配偶者杉原幸子(すぎはらゆきこ)1913年 - 2008年
子供男子4人うち三男は7歳で死去

杉原千畝の生い立ち

後列中央が千畝

1900年1月1日に岐阜県八百津市で杉原家の次男として誕生。父の仕事は税務署勤務で転勤族、小学校だけで3回も転校することとなります。父は千畝がまだ小学生の時に朝鮮の総督府財務部に単身赴任しましたが、その後京城(ソウル)で旅館業を営み事業は成功しました。

それに伴い家族は日本から京城に引っ越したのですが、千畝は日本に残り中学、高校と勉学に明け暮れました。杉原千畝は学校の成績がかなり良かったため、医者の道に進ませようと父親からはたいへん期待されていたようです。

杉原千畝の転機

早稲田大学にある杉原千畝のレリーフ

杉原千畝は医者になる気は毛頭ありませんでした。父親が用意した京城医学専門学校の受験を受けずに白紙答案を出し、弁当だけ食べて帰ったため、父親の逆鱗にふれました。そのため親の援助が全くもらえなくなったのです。杉原千畝は英語教師を目指して1918年に早稲田大学高等師範部英語科予科に入学しました。学費や生活費の全てはアルバイトで補っていたといいます。

大学2年の時に、運よく見つけた外務省の留学生募集広告に応募したところ、見事合格しこれが後に人生の転機となりました。これは官費によって3年間語学留学ができ、そればかりか、語学力によっては外交官になれる可能性もあるというものです。千畝は受験までの1か月間、死に物狂いで勉強して見事合格したとのことです。

杉原千畝の結婚相手は?

2度の結婚歴がある

杉原千畝は幸子夫人との婚姻前にロシア人女性と結婚していたことがあります。外務省の語学留学にスペイン語を希望してた千畝でしたが、人数調整でロシア語になったというのも何かの縁でしょうか。杉原千畝は19歳から3年間ハルビンに留学し、その後語学力を認められて24歳で外務省に入りました。

当時、中国のハルビンはソ連政権から逃れてきたロシア人が多く移り住む街でした。ハルビンはロシア人が作った街とも言われ、今でもロシア風の美しい建造物が多く残されています。1924年、杉原千畝は外務省に入るのと同時ぐらいに美しいロシア人女性のクラウディア・アポロノヴァと恋におちて婚姻を交わしています。

杉原千畝はロシア人との結婚により、ハルビンのロシア社会に溶け込みやすくなりました。この結婚こそがロシアに関する情報収集の基盤になったといえるでしょう。千畝はロシアに関する重要な情報を集め、対ソ外交を任せられるまでになりました。満州国外交でのソ連との交渉事に関しては様々な功績を残しています。

しかし、そんな杉原千畝の輝かしい功績に対する嫉妬や妬みも多くありました。1935年には通報もあったためか、ロシア人の妻を利用して「二重スパイをしている」と憲兵に疑いをかけられています。それが原因となり、ロシア人の妻クラウディアと協議離婚をするに至りました。ハルビンでの貯えは全て元妻に譲与しており、杉原千畝は全財産を失ったと言います。その後日本に帰国して友人の妹であった幸子夫人と出会い程なく結婚しました。

杉原千畝の性格は?

曲がったことが嫌いで意志が強い人物だった

杉原千畝の性格を一言で表すならば、「正義の人」と言えます。それに合わせて「曲がったことが嫌いな人」です。また「意志が強い」「正義感がある」といった性格が杉原千畝の行動に垣間見られます。戸主である父親の意見が絶対的な圧力がある時代に、医者にしようとした父の意向に背いて自分の希望する語学の道に進みました。当時、失望した父親からは勘当されています。

留学生になった時に人気のあるスペイン語を希望していた杉原千畝でしたが、当時ロシア語を理解できる職員が少なく、領事館での手続きが滞っているのを見て気持ちを切り替えてロシア語習得に邁進しました。困っている人の役に立ちたいという使命感でしょうか。その後4ヵ月という異例の速さでロシア語の日常会話をあっさりと習得。教師として人にロシア語を教えるほどになったのです。

杉原千畝の正義感の強さを語るには、他にも様々あります。満州国で中国人が日本人から人間以下の不当な扱いを受けているのを見るにつけ嫌気がさしてしまい、功績のある満州外交部をあっさり退任しています。曲がったことが嫌いで頑固な性格ですが、正義感に裏打ちされていたので後に立派な功績を残すことになりました。

杉原千畝の死因は?

2017年には初めてイスラエルの閣僚が千畝の墓を訪れた

1986年7月31日に持病の心臓病で死去。鎌倉市内の病院で最後を迎えたときは享年86歳でした。亡くなる1年前にイスラエル政府から6000人のユダヤ人を救ったことで「ヤド・バシェム賞」諸国民の中の正義の人という名誉な受賞をもらっています。しかし心臓病と高齢のため、エルサレムでの授賞式には杉原千畝の四男である伸生が代理で出席しました。

杉原千畝の葬儀にはイスラエル大使をはじめ300人に及ぶ有職者が参列したということです。また、帰国後に杉原千畝が外務省を辞めたことに多くのユダヤ人が抗議し、千畝の名誉の回復を訴え出ました。2000年には公式に日本国政府から杉原千畝の名誉回復が表明されています。最後の最後で名誉な賞を授与され彼を称える多くの人々が今でも杉原千畝の眠る鎌倉霊園を訪れているのです。

杉原千畝の名言は?

私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く

私のしたことは外交官としては、間違ったことだったかもしれない。しかし 私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった

外務省に背いて領事の権限を使って、この人たちにビザを発行しようと思う

世界は大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません

(奥様に対して)ビザを発行しようと思うんだけど、どう考える?ビザを発行すると、我々もドイツに捕まってしまうかもしれない。ユダヤ人を逃がそうとしてるんだから、私達もただではすまない。どう思う?

最初の回訓を受理した日は、一晩中私は考えた。考えつくした。回訓を、文字通り民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、私は本省に対して従順であるとして、ほめられこそすれ、と考えた。仮に当事者が私でなく、他の誰かであったとすれば、恐らく百人が百人、東京の回訓通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。それは、何よりも、文官服務規程方、何条かの違反に対する昇進停止、乃至、馘首が恐ろしいからである。私も、何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた

許して下さい。私には、もう書けない。みなさんのご無事を祈っています

杉原千畝にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「外務省でリストラ対象者になっていた」

外務省から千畝への退職通告書

1940年に杉原千畝がリトアニアで規定外のビザを多数ユダヤ人に発行したことでリストラ対象にされていたらしい事実。本人は依願退職と記しており、これは1947年帰国後の杉原千畝の履歴書が見つかったことで明らかになりました。帰国後に外務省を退職してからはの杉原千畝は生活のために職探しに苦労ししています。

ここでもやはり語学力が助けとなり、貿易商社、参院資料課、ニコライ学院教授、参院資料課、そしてNHKの国際局に入局しています。その後杉原千畝が60歳の1960年からは貿易会社に勤務し、モスクワにて再び海外生活を送ることになります。杉原千畝の海外生活は1975年に帰国するまで続いたようです。

都市伝説・武勇伝2「終戦後に現地の捕虜収容所に連行されていた」

旧日本領事館は現在杉原千畝の記念館になっている

ユダヤ人にビザを発行してから、リトアニア領事館を退去しルーマニアにいた杉原一家。1945年8月の終戦後には敗戦国外交官の責務を理由に一家全員は収容所に送られてしまいます。1年半の長期にわたり、過酷な生活に耐えて1947年にようやく5ヵ月かけて帰国することが出来ました。

しかし帰国後の千畝を待っていたのは外務省からの解雇宣告ともいえる通達でした。ビザの受け取り資格のない規定外のユダヤ人に多くのビザを発行した事で千畝に対して懲戒免職を匂わすものでした。外交官を辞職し仕事のない貧窮の生活の中、三男をわずか7歳で小児がんで失いました。また、欧州に同行して10年間ともに生活した妻幸子の妹も病死したといいます。

杉原千畝の年表

1900年 – 0歳「岐阜県加茂郡八百津町で生まれる」

岐阜県・八百津町

裕福な家庭での幼少期

父、杉原好水と母、やつの間に6人兄弟の次男として誕生。父は税務署勤務の公務員で裕福な家庭で育てられました。杉原千畝は兄弟の中では一番成績が優秀で父親に将来を期待され、医者の道を進むよう切望されていました。

1919年 – 19歳「外務省留学生の募集試験を受ける」

ハルビン

苦学生時代

杉原千畝は父の意向に反して医者にならずに語学に進む希望を貫いたため勘当されて、アルバイトをしながらの苦しい大学生活。たまたま見つけた外務省の試験を受けて見事合格し、杉原千畝は中国のハルビンにて語学留学することになります。

1933年 – 33歳「ヒトラー政権成立」

アドルフ・ヒトラー

満州国外交部の事務官時代

杉原千畝が満州国外交部の事務官として精力的にロシアと交渉をしていたさなか、アドルフヒトラー(1889-1945)がドイツ政権を獲得しています。反共産主義とユダヤ人の排斥を宣言し、ナチス党の指導者となりました。

1939年 – 39歳「リトアニアの日本領事館に派遣される」

リトアニアの首都・ヴィリニュス

ヨーロッパ情勢の動向を探る任務

杉原千畝は外務省から任命されてリトアニアに一家で渡ります。激しいヨーロッパ情勢の動向を探る任務のさなか、ドイツがポーランドを占領して第二次世界大戦が始まったのです。リトアニアでの杉原家の暮らしも、戦争勃発で安心できない日々が始まりました。

1939年 – 39歳「第二次世界大戦勃発」

第二次世界大戦

ドイツのポーランド侵略

杉原千畝が外務省に命じられリトアニアに領事館を開設した3日後の事です。ついに第二次世界大戦が勃発しました。ヒトラーの独裁政権は勢力を増していき、ゲルマン民族の優位性とユダヤ人の排除を掲げて団結力を固めていきます。ドイツ軍はまず、ポーランドを侵略しユダヤ人の廃絶を開始。これが第二次世界大戦の始まりと言われます。

1940年 – 40歳「6000人の命のビザ発行する」

千畝による手書きのビザ

独断でビザ発行

ポーランドを追われたユダヤ人がビザを求めて徐々に領事館を訪れるようになりました。数人なら杉原千畝の権限で発行できますが、数千人に及ぶビザの発行は外務省に通達し許可が必要です。ユダヤ人のビザは旅行書類の不備を理由に本国の許可が降りませんでした。しかし杉原千畝は独断で発行する決意をし、実行しました。

1940年 – 40歳「杉原千畝が命のビザに追加したこと」

ユダヤ人の人々

ただのビザ発行ではなかった

杉原千畝はユダヤ人の書類が不備だという理由でビザを拒否することは出来ませんでした。書類の抜けを補うため、彼なりに秘策を練って発行したのです。まず、外務省に電報を打ち、人道的に考えてビザの発行を拒めないこと、ユダヤ人のパスポートは形式通りでなくても領事館で認めること、ソ連横断の日数を20日、日本の滞在日数を30日とすることの許可を求めました。

結果的に外務省の返答は全面却下でした。そのため杉原千畝は独断で行動を起こすことになるのです。ソ連領事から運よくソ連の通過許可証をもらうことに成功。ここでは彼の流ちょうなロシア語が役に立ちました。

最終的な受け入れ場所がカリブ海の小島キュラソーというのも形だけ取り繕ったものでした。領事館の窓を開けて、「これよりビザを発行します!」と高らかに叫んだ時の、ユダヤ人達の歓喜の声と抱き合う姿を見て、杉原千畝はこれで良かったんだ…と心から安堵したことでしょう。

1940年 – 40歳「命のビザの裏に隠された事実」

ヘブライ文化研究家・小辻節三

杉原千畝の信仰と協力者

8月3日にリトアニアはソ連軍に占領され、領事館に退去命令が出ました。杉原千畝は寝る間も惜しんで9月1日にリストニアを去るまでの一か月間、ビザの発行を続けたといいます。

一人で手書きのため、番号付けや手数料の徴収は行わず、極力効率化をはかりました。それでも連日の作業で万年筆が折れた程です。気が付くとリトアニアの外国領事館は全て退去し、日本領事館だけになっていました。

ここまでしてもユダヤ人を見捨てることをしなかったのは、杉原千畝が聖ロシアキリスト教の敬虔な信者だったこと、正義感の強い人道主義者であったことが関係しているのでしょうか。この間に杉原千畝は2139通のビザを発行しており、家族兼用であったため約6000人のユダヤ人の命を救ったと言えます。

その後ユダヤ人達はシベリア鉄道でウラジオストックへ移動し、ハルピン丸で福井県敦賀港、そして神戸港へ向かいました。その後は赤十字やキリスト教団、神戸ユダヤ人協会からの支援でアメリカやイスラエルに渡っています。

ビザは通過用で日本での滞在期間を10日間と制限されていました。期限内に目的地に出発できなければ、非情にもまた戻るしかないのです。

この時滞在期間を延長するために尽力した人がヘブライ文化研究家の小辻節三氏。また秘策を練ったのは松岡外務大臣でした。二重の判子を押して、滞在期間を調整したという、今では考えられない事実です。

1941年 – 41歳「ルーマニアのブカレスト公使館に派遣される」

リトアニアを離れる杉原一家

家族の安全のためドイツ領を離れる

リトアニアがソ連に占領されたため日本領事館を閉鎖することを余儀なくされた杉原千畝。外務省からドイツ領ケーニヒスベルクで総領事館の勤務を命じられました。

その後、情報収集分析能力=インテリジェンス・オフィサーである杉原千畝は、ポーランドに好意的であったためかナチスから目を付けられ身の危険を感じ始めます。同じ年に杉原千畝は家族を連れてドイツ領を離れました。ルーマニアに転勤になりブカレスト公使館に着任しています。時同じくしてユダヤ人の大量虐殺がアウシュビッツで始まりました。

日本が真珠湾を攻撃し宣戦布告

杉原千畝がルーマニアブのカレスト公使館に着任した頃、時同じくしてユダヤ人の大量虐殺がアウシュビッツで始まりました。そして日本が真珠湾(現ハワイ)を攻撃し、ついに我が国が第二次世界大戦に参戦しました。

1944年 – 44歳「杉原千畝の妻幸子が戦火に巻き込まれる」

現在のブカレスト

妻幸子が奇跡的に生還

この頃になるとドイツの戦力が弱まり、連合軍の襲撃が杉原千畝のいるブカレストにまで及びました。そのためブカレスト近郊の別荘地で疎開していた杉原千畝一家でしたが、幸子夫人が自宅に貴重品を取りに外出したことが全ての始まりです。市内でドイツ軍とソ連軍との銃撃戦が始まり、巻き込まれてしまいます。撤退するドイツ軍と行動を共にし、森に逃げ込んで数日間立てこもったそうです。

その後パルチザンの襲撃に合い、守ってくれたドイツ軍は撃沈し、幸子夫人もパルチザンに拘束されました。銃口を突き付けられても、気丈な夫人は「私は日本人です!撃つなら撃てばいい!」と日本語で叫んだといいます。日本人で女性だったこともあり、別荘地に戻ることが出来たのは家族と離れ離れになってから8日目の事でした。

1945年 – 45歳「第二次世界大戦の終了」

第二次世界大戦の終結

敗戦国の外交官として

日本は長崎と広島に原爆が投下され、ボツダム宣言を受理したことによって敗戦国となりました。本国との連絡も途絶え、杉原千畝は情勢の流れに身をゆだねるしか方法がありませんでした。

1945年 – 45歳「杉原一家は捕虜収容所に連行される」

過酷な収容所生活

1945年8月に第二次世界大戦がポツダム宣言とともに終わりを告げました。敗戦国の外交官である杉原千畝は家族ともどもブカレストのソ連捕虜収容所に収監されています。1年半以上も過酷な収容所生活を送りました。その後5か月間の旅ルートで、ウラジオストックを経由して博多港に到着したのは1947年のことでした。

1947年 – 47歳「外務省に言い渡されたのはリストラ宣告」

戦後の東京

帰国後の貧窮生活

ようやく帰国した杉原一家でしたが、既に残されたポストは無く、外務省のリストラ対象にされていました。戦火のヨーロッパでの優れた諜報活動を評価することもないまま外務省を去ったのです。その後は職を転々とする苦しい生活が続きます。杉原千畝の三男と妻の妹が相次いで病気で亡くなったのもこの頃でした。

1960年 – 60歳「商社の仕事でモスクワに単身赴任」

ロシア・モスクワ

単身で海外生活

60歳になってから商社の局長としてモスクワでの海外生活が始まります。この年で単身赴任というのも驚きですが、よっぽどモスクワが気に入ったのか、川上貿易の後、国際交易と会社を2回変わり75歳まで勤め上げました。

1985年 – 85歳「イスラエルから贈られた名誉な賞」

ヤド・バシェム賞

全てが正しかったと思える瞬間

杉原千畝が85歳の年にイスラエル政府からヤド・バシェム賞が贈られました。これは多くのユダヤ人を救ったことの功績をたたえる「諸国民の中の正義の人賞」で、日本人では初めての事です。この賞をきっかけに杉原千畝の名前は、日本だけでなく世界中に広まりました。この1年後に杉原千畝は持病の心臓病が悪化して亡くなっています。

杉原千畝の関連作品

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ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌

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杉原千畝資料館、23日開館=「命のビザ」など公開

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杉原千畝 スギハラチウネ

第二次世界大戦の激動の中、杉原千畝という日本人がいたということは一筋の光のようです。ただのヒューマニズムではない、6000人のビザを発行したことで何万人もの命を繋げた功績は、はかりしれません。その時代の背景とや外交官の使命を重ね合わせて深く考えさせられる重要な映画です。

ユダヤ人の記憶に生きる日本人 杉原千畝

この記録映画では杉原千畝に命のビザをもらったユダヤ人やその子孫の真実の声が聞けます。杉原千畝がリトアニアに赴任したのがポーランドのドイツ占領が行われる数日前という事もはじめて知りました。杉原千畝をクローズアップした映画の中で必ず見ておくべき1作品です。

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杉原千畝のご子息にインタビューし、様々なエピソードを語っていただいた番組です。杉原千畝の四男で現在はベルギー在住の杉原伸生さんから見た父親と家族との知られざるストーリーが満載です。特に1947年に日本に帰国してからの生活環境や苦労がどんなものだったのか、真実を知れることがたいへん貴重です。

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日本のシンドラー 杉原千畝物語 六千人の命のビザ

杉原千畝は同盟国であるドイツや外務省からの命令に反して、ユダヤ人にビザを発行していたわけです。いつか自分の家族も危険な目に合うかもしれないと自問自答する苦しい日々でした。それでも杉原千畝はユダヤの人々を助ける道を選んだのです。また、このドラマによって他にも多くの日本人が一人のユダヤ人を救うために協力したことがわかり深い感動を覚えます。

関連外部リンク

杉原千畝についてのまとめ

杉原千畝の存在を我々日本人より強く感じているのは、ビザをもらったユダヤの人々とその子孫でしょうか。リトアニアを離れる日にロシア軍から強制的に列車に乗せられた杉原千畝。列車の中でもビザを発行し続け、最後は窓からビザを手渡したと記述に残されています。

最後の最後まで命のビザを発行続けた杉原千畝は偉大な人と言われますが、本人は「私は偉大な人なんかじゃない。目の前で溺れそうな人に手を差し伸べて船に乗せた。ただそれだけの事。当たり前のことをしただけですよ」と静かに言っている気がします。

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