杉原千畝にまつわる逸話
逸話1「外務省でリストラ対象者になっていた」
1940年に杉原千畝がリトアニアで規定外のビザを多数ユダヤ人に発行したことでリストラ対象にされていたらしい事実。本人は依願退職と記しており、これは1947年帰国後の杉原千畝の履歴書が見つかったことで明らかになりました。帰国後に外務省を退職してからはの杉原千畝は生活のために職探しに苦労ししています。
ここでもやはり語学力が助けとなり、貿易商社、参院資料課、ニコライ学院教授、参院資料課、そしてNHKの国際局に入局しています。その後杉原千畝が60歳の1960年からは貿易会社に勤務し、モスクワにて再び海外生活を送ることになります。杉原千畝の海外生活は1975年に帰国するまで続いたようです。
逸話2「終戦後に現地の捕虜収容所に連行されていた」
ユダヤ人にビザを発行してから、リトアニア領事館を退去しルーマニアにいた杉原一家。1945年8月の終戦後には敗戦国外交官の責務を理由に一家全員は収容所に送られてしまいます。1年半の長期にわたり、過酷な生活に耐えて1947年にようやく5ヵ月かけて帰国することが出来ました。
しかし帰国後の千畝を待っていたのは外務省からの解雇宣告ともいえる通達でした。ビザの受け取り資格のない規定外のユダヤ人に多くのビザを発行した事で千畝に対して懲戒免職を匂わすものでした。外交官を辞職し仕事のない貧窮の生活の中、三男をわずか7歳で小児がんで失いました。また、欧州に同行して10年間ともに生活した妻幸子の妹も病死したといいます。
杉原千畝の年表
1900年 – 0歳「岐阜県加茂郡八百津町で生まれる」
裕福な家庭での幼少期
父、杉原好水と母、やつの間に6人兄弟の次男として誕生。父は税務署勤務の公務員で裕福な家庭で育てられました。杉原千畝は兄弟の中では一番成績が優秀で父親に将来を期待され、医者の道を進むよう切望されていました。
1919年 – 19歳「外務省留学生の募集試験を受ける」
苦学生時代
杉原千畝は父の意向に反して医者にならずに語学に進む希望を貫いたため勘当されて、アルバイトをしながらの苦しい大学生活。たまたま見つけた外務省の試験を受けて見事合格し、杉原千畝は中国のハルビンにて語学留学することになります。
1933年 – 33歳「ヒトラー政権成立」
満州国外交部の事務官時代
杉原千畝が満州国外交部の事務官として精力的にロシアと交渉をしていたさなか、アドルフヒトラー(1889-1945)がドイツ政権を獲得しています。反共産主義とユダヤ人の排斥を宣言し、ナチス党の指導者となりました。
1939年 – 39歳「リトアニアの日本領事館に派遣される」
ヨーロッパ情勢の動向を探る任務
杉原千畝は外務省から任命されてリトアニアに一家で渡ります。激しいヨーロッパ情勢の動向を探る任務のさなか、ドイツがポーランドを占領して第二次世界大戦が始まったのです。リトアニアでの杉原家の暮らしも、戦争勃発で安心できない日々が始まりました。
1939年 – 39歳「第二次世界大戦勃発」
ドイツのポーランド侵略
杉原千畝が外務省に命じられリトアニアに領事館を開設した3日後の事です。ついに第二次世界大戦が勃発しました。ヒトラーの独裁政権は勢力を増していき、ゲルマン民族の優位性とユダヤ人の排除を掲げて団結力を固めていきます。ドイツ軍はまず、ポーランドを侵略しユダヤ人の廃絶を開始。これが第二次世界大戦の始まりと言われます。
1940年 – 40歳「6000人の命のビザ発行する」
独断でビザ発行
ポーランドを追われたユダヤ人がビザを求めて徐々に領事館を訪れるようになりました。数人なら杉原千畝の権限で発行できますが、数千人に及ぶビザの発行は外務省に通達し許可が必要です。ユダヤ人のビザは旅行書類の不備を理由に本国の許可が降りませんでした。しかし杉原千畝は独断で発行する決意をし、実行しました。
1940年 – 40歳「杉原千畝が命のビザに追加したこと」
ただのビザ発行ではなかった
杉原千畝はユダヤ人の書類が不備だという理由でビザを拒否することは出来ませんでした。書類の抜けを補うため、彼なりに秘策を練って発行したのです。まず、外務省に電報を打ち、人道的に考えてビザの発行を拒めないこと、ユダヤ人のパスポートは形式通りでなくても領事館で認めること、ソ連横断の日数を20日、日本の滞在日数を30日とすることの許可を求めました。
結果的に外務省の返答は全面却下でした。そのため杉原千畝は独断で行動を起こすことになるのです。ソ連領事から運よくソ連の通過許可証をもらうことに成功。ここでは彼の流ちょうなロシア語が役に立ちました。
最終的な受け入れ場所がカリブ海の小島キュラソーというのも形だけ取り繕ったものでした。領事館の窓を開けて、「これよりビザを発行します!」と高らかに叫んだ時の、ユダヤ人達の歓喜の声と抱き合う姿を見て、杉原千畝はこれで良かったんだ…と心から安堵したことでしょう。
1940年 – 40歳「命のビザの裏に隠された事実」
杉原千畝の信仰と協力者
8月3日にリトアニアはソ連軍に占領され、領事館に退去命令が出ました。杉原千畝は寝る間も惜しんで9月1日にリストニアを去るまでの一か月間、ビザの発行を続けたといいます。
一人で手書きのため、番号付けや手数料の徴収は行わず、極力効率化をはかりました。それでも連日の作業で万年筆が折れた程です。気が付くとリトアニアの外国領事館は全て退去し、日本領事館だけになっていました。
ここまでしてもユダヤ人を見捨てることをしなかったのは、杉原千畝が聖ロシアキリスト教の敬虔な信者だったこと、正義感の強い人道主義者であったことが関係しているのでしょうか。この間に杉原千畝は2139通のビザを発行しており、家族兼用であったため約6000人のユダヤ人の命を救ったと言えます。
その後ユダヤ人達はシベリア鉄道でウラジオストックへ移動し、ハルピン丸で福井県敦賀港、そして神戸港へ向かいました。その後は赤十字やキリスト教団、神戸ユダヤ人協会からの支援でアメリカやイスラエルに渡っています。
ビザは通過用で日本での滞在期間を10日間と制限されていました。期限内に目的地に出発できなければ、非情にもまた戻るしかないのです。
この時滞在期間を延長するために尽力した人がヘブライ文化研究家の小辻節三氏。また秘策を練ったのは松岡外務大臣でした。二重の判子を押して、滞在期間を調整したという、今では考えられない事実です。
1941年 – 41歳「ルーマニアのブカレスト公使館に派遣される」
家族の安全のためドイツ領を離れる
リトアニアがソ連に占領されたため日本領事館を閉鎖することを余儀なくされた杉原千畝。外務省からドイツ領ケーニヒスベルクで総領事館の勤務を命じられました。
その後、情報収集分析能力=インテリジェンス・オフィサーである杉原千畝は、ポーランドに好意的であったためかナチスから目を付けられ身の危険を感じ始めます。同じ年に杉原千畝は家族を連れてドイツ領を離れました。ルーマニアに転勤になりブカレスト公使館に着任しています。時同じくしてユダヤ人の大量虐殺がアウシュビッツで始まりました。
日本が真珠湾を攻撃し宣戦布告
杉原千畝がルーマニアブのカレスト公使館に着任した頃、時同じくしてユダヤ人の大量虐殺がアウシュビッツで始まりました。そして日本が真珠湾(現ハワイ)を攻撃し、ついに我が国が第二次世界大戦に参戦しました。
1944年 – 44歳「杉原千畝の妻幸子が戦火に巻き込まれる」
妻幸子が奇跡的に生還
この頃になるとドイツの戦力が弱まり、連合軍の襲撃が杉原千畝のいるブカレストにまで及びました。そのためブカレスト近郊の別荘地で疎開していた杉原千畝一家でしたが、幸子夫人が自宅に貴重品を取りに外出したことが全ての始まりです。市内でドイツ軍とソ連軍との銃撃戦が始まり、巻き込まれてしまいます。撤退するドイツ軍と行動を共にし、森に逃げ込んで数日間立てこもったそうです。
その後パルチザンの襲撃に合い、守ってくれたドイツ軍は撃沈し、幸子夫人もパルチザンに拘束されました。銃口を突き付けられても、気丈な夫人は「私は日本人です!撃つなら撃てばいい!」と日本語で叫んだといいます。日本人で女性だったこともあり、別荘地に戻ることが出来たのは家族と離れ離れになってから8日目の事でした。
1945年 – 45歳「第二次世界大戦の終了」
敗戦国の外交官として
日本は長崎と広島に原爆が投下され、ボツダム宣言を受理したことによって敗戦国となりました。本国との連絡も途絶え、杉原千畝は情勢の流れに身をゆだねるしか方法がありませんでした。
1945年 – 45歳「杉原一家は捕虜収容所に連行される」
過酷な収容所生活
1945年8月に第二次世界大戦がポツダム宣言とともに終わりを告げました。敗戦国の外交官である杉原千畝は家族ともどもブカレストのソ連捕虜収容所に収監されています。1年半以上も過酷な収容所生活を送りました。その後5か月間の旅ルートで、ウラジオストックを経由して博多港に到着したのは1947年のことでした。
1947年 – 47歳「外務省に言い渡されたのはリストラ宣告」
帰国後の貧窮生活
ようやく帰国した杉原一家でしたが、既に残されたポストは無く、外務省のリストラ対象にされていました。戦火のヨーロッパでの優れた諜報活動を評価することもないまま外務省を去ったのです。その後は職を転々とする苦しい生活が続きます。杉原千畝の三男と妻の妹が相次いで病気で亡くなったのもこの頃でした。
1960年 – 60歳「商社の仕事でモスクワに単身赴任」
単身で海外生活
60歳になってから商社の局長としてモスクワでの海外生活が始まります。この年で単身赴任というのも驚きですが、よっぽどモスクワが気に入ったのか、川上貿易の後、国際交易と会社を2回変わり75歳まで勤め上げました。
1985年 – 85歳「イスラエルから贈られた名誉な賞」
全てが正しかったと思える瞬間
杉原千畝が85歳の年にイスラエル政府からヤド・バシェム賞が贈られました。これは多くのユダヤ人を救ったことの功績をたたえる「諸国民の中の正義の人賞」で、日本人では初めての事です。この賞をきっかけに杉原千畝の名前は、日本だけでなく世界中に広まりました。この1年後に杉原千畝は持病の心臓病が悪化して亡くなっています。
杉原千畝の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
新版 六千人の命のビザ
杉原千畝の妻である杉原幸子が真実を物語った貴重な1冊。なぜ杉原千畝が外務省にそむいてユダヤ人難民の大移動を助けたのかが克明にえがかれている。そればかりでなく、そこまでに至ったいきさつや、その後の人生まで記述されているのでたいへん興味深い。
ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌
ナチスのユダヤ人排斥「ホロコースト」になるまでの全貌を7つの過程で分かりやすく記している。最初はユダヤ人国外追放から始まり、徐々に自由を奪う強制執行に変化する。最終的には戦争下で受け入れる体制や輸送が不可能で、大虐殺によるユダヤ人根絶になってしまった。
諜報の天才 杉原千畝 (新潮選書)
杉原千畝の優れた諜報活動にスポットを当てています。外交官であり正義の人という表の顔ではなく、杉原千畝は機密情報を手に入れる手腕にたけていたという事を知り、天才的なインテリジェンス・アセスメントの側面を見てより深く理解が出来るというもの。
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杉原千畝がよくわかるおすすめ本・書籍6選【漫画からエッセイ、小説まで】
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杉原千畝資料館、23日開館=「命のビザ」など公開
2019年に東京の八重洲にできた杉原千畝資料館のオープンセレモニーから始まります。「杉原千畝センポミュージアム」の展示物の中には、決断を記した杉原千畝直筆の原稿があり感銘を受けました。また、実際にユダヤ人に発行した「命のビザ」を見ることが出来ます。ビザの発行は、全て杉原千畝1人による手書きで、手が腫れてペンが持てなくなったと言います。彼の想いが展示されたビザから強く伝わってくるのを感じてください。
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杉原千畝 スギハラチウネ
第二次世界大戦の激動の中、杉原千畝という日本人がいたということは一筋の光のようです。ただのヒューマニズムではない、6000人のビザを発行したことで何万人もの命を繋げた功績は、はかりしれません。その時代の背景とや外交官の使命を重ね合わせて深く考えさせられる重要な映画です。
ユダヤ人の記憶に生きる日本人 杉原千畝
この記録映画では杉原千畝に命のビザをもらったユダヤ人やその子孫の真実の声が聞けます。杉原千畝がリトアニアに赴任したのがポーランドのドイツ占領が行われる数日前という事もはじめて知りました。杉原千畝をクローズアップした映画の中で必ず見ておくべき1作品です。
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杉原千畝の肉声が聞ける大変貴重で感動のドキュメンタリー。杉原千畝本人が外務省に背いてユダヤ人にビザを発行した時の心情を語っています。妻の杉原幸子も同席してのインタビューで、2人の生前の映像が残っていて良かったと心から思える番組です。
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杉原千畝のご子息にインタビューし、様々なエピソードを語っていただいた番組です。杉原千畝の四男で現在はベルギー在住の杉原伸生さんから見た父親と家族との知られざるストーリーが満載です。特に1947年に日本に帰国してからの生活環境や苦労がどんなものだったのか、真実を知れることがたいへん貴重です。
おすすめドラマ
日本のシンドラー 杉原千畝物語 六千人の命のビザ
杉原千畝は同盟国であるドイツや外務省からの命令に反して、ユダヤ人にビザを発行していたわけです。いつか自分の家族も危険な目に合うかもしれないと自問自答する苦しい日々でした。それでも杉原千畝はユダヤの人々を助ける道を選んだのです。また、このドラマによって他にも多くの日本人が一人のユダヤ人を救うために協力したことがわかり深い感動を覚えます。
関連外部リンク
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- 難民遺族、感謝の来日「杉原は家族全員救った」
- グーグルのロゴになった杉原千畝氏「命のビザ」はオランダ領事、駐日ポーランド大使とのリレーだった」
- ユダヤ人を救うため”ビザを発給し続けた男”の知られざるもう一つの奇跡」
- 杉原千畝記念館
- 杉原千畝 Sempo Museum
- 杉原記念館(リトアニア・カウナス)
杉原千畝についてのまとめ
杉原千畝の存在を我々日本人より強く感じているのは、ビザをもらったユダヤの人々とその子孫でしょうか。リトアニアを離れる日にロシア軍から強制的に列車に乗せられた杉原千畝。列車の中でもビザを発行し続け、最後は窓からビザを手渡したと記述に残されています。
最後の最後まで命のビザを発行続けた杉原千畝は偉大な人と言われますが、本人は「私は偉大な人なんかじゃない。目の前で溺れそうな人に手を差し伸べて船に乗せた。ただそれだけの事。当たり前のことをしただけですよ」と静かに言っている気がします。