「名張ぶどう酒事件には真犯人がいるって本当?」
「ドキュメンタリーをやってたけど、不審な点が多そう…」
名張ぶどう酒事件とは、1961年に起きたぶどう酒に薬品を混入した無差別殺傷事件です。事件では犯人と思しき人が逮捕され解決したことになっていますが、今でも根強い冤罪説と真犯人説が存在します。そこでこの記事では、名張毒ぶどう酒事件の真犯人と噂される「会長」のことを中心に解説していきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
名張毒ぶどう酒事件とは?
名張毒ぶどう酒事件とは、1961年に三重県名張市で起きた大量殺人事件です。名張市の山の手にある集落の懇親会で振舞われたワイン(ぶどう酒)に毒物が混入されており、ワインを飲んだ女性17名が中毒症状を起こし、内5名が亡くなっています。
集まりは農村生活改善クラブ「三奈の会」の集まりであり、男性12名・女性20名の合計35名が参加していました。会の集まりの懇親会の時に、突然17名の女性が苦しみ始め病院搬送されます。警察の捜査で17名の女性はみんなぶどう酒を飲んでいたことが判明し、ぶどう酒を調べると劇薬である「ニッカリン」が含まれていたとされました。
ニッカリンは当時農薬として使用されており、強い毒性を持っていたために被害者は非常に激しい中毒症状に侵されたそうです。
第二の帝銀事件と話題に
名張毒ぶどう酒事件は、当時「第二の帝銀事件」と呼ばれました。理由は毒物を使った大量殺人事件であることが共通していたからです。ちなみに帝銀事件とは1948年に東京の帝国銀行で起きた毒物殺人事件で、名張毒ぶどう酒事件と同じく毒物により12名の死者を出しています。
帝銀事件の犯人として逮捕された平沢貞通は、事件を自白したことにより死刑判決を受けました。しかし後に冤罪を主張し、再審請求するも通らず結局獄死してしまいます。後述しますが毒ぶどう酒事件で逮捕された奥西勝も同じように自白により死刑判決が出るも、冤罪を長らく主張し獄死してしまっています。そのため2つの事件は非常に似ていることから、「第二の帝銀事件」と呼ばれるようになったのです。
3人の重要参考人がいた
警察は集落の中に犯人がいると考え、3名の重要参考人をマークしています。1人はワインを購入し手配した「三奈の会」会長の奥西楢雄氏と、酒屋から奥西楢雄宅までワインを運搬した農協職員の石原利一、最後に奥西楢雄宅から公民館までお酒を運んだ奥西勝でした。
この3人の重要参考人の中で特に怪しまれたのが、村内の人間関係などから「奥村勝」が浮上。そして連日厳しい取り調べの末「お茶の消毒に使う薬をぶどう酒に入れた」と自白したために殺人未遂容疑で逮捕されたのです。
しかしその後一転して奥西は無罪を主張しますが、当時奥西がお茶の栽培で毒物を取り扱っていたこと、口でワインを開けたという自供に対してワインの蓋の歯形が奥西と一致したために起訴され裁判となりました。
1964年の一審では歯形が一致とは断言できず、村民の証言が奥西の自白前と大きく変化している点から証拠不十分で無罪の判決がでています。しかし1969年に名古屋地裁の控訴審で一審は破棄され、ワインの歯形が一致したことや、状況的に混入ができたのは奥西だけと死刑判決が下されています。そして1972年に上告を棄却し死刑が確定したのです。
事件の犯人は誰?
上で簡単に説明しましたが、重要参考人は3名いました。その中で犯人として逮捕された人物を紹介します。
逮捕されたのは奥西勝
逮捕されたのは、ぶどう酒を公民館まで運んだ奥西勝でした。奥西は当時のメディアから「美男子と評判だった」といわれており、村でも有名なイケメンだったようです。犯行動機は「妻と愛人の関係を清算したかった」と自白の時に語っています。
事件当時は「夜這い」という風習が葛尾地区には残っていました。葛尾地区では夜這いはルールとして存在しており、奥西勝は妻がいながら夜這いし、愛人関係を持つ女性がいたのです。なお今回の事件で、奥西勝の妻と愛人は死亡しています。
動機は三角関係といわれた
事件の動機は、愛人関係のトラブルが原因だといわれました。奥西勝は結婚して妻がいましたが、夜這いの風習により奥寺勝に愛人ができてから夫婦仲は上手くいかなくなっていったようです。そして妻の方にも愛人となる男性ができてしまい、夫婦仲は険悪になってしまっていました。
つまり奥西勝と妻は、お互い不倫をしていたことになります。そして奥西勝の愛人とは別れ話が出ていたらしく、2人を狙って関係を全て清算させようという事件だとされました。