チャールズバベッジは、19世紀に活躍したイギリスの数学者です。
突然ですが、現在このページを見ている皆さんは、何を用いてこのページを見ているでしょうか?スマホ?パソコン?それともタブレットでしょうか?
現在の社会では、インターネットに繋いで動作する機械が数多く存在し、ほとんどの家庭にはプログラミングによって動く機械が置かれています。現在の社会や生活はコンピューターによって支えられていると言っても、決して大げさではありません。
そして実は、それらのコンピュータの原型は全て、チャールズ・バベッジが作ったといってもいいものなのです。バベッジは「コンピュータの父」とも呼ばれ、予算の都合で実用化こそされませんでしたが、19世紀当時の技術と材料で、きちんと動作するコンピューターを設計していました。

「機械に計算を行わせる」という、当時としてはあまりにも画期的な発想と、それを実現させるべく設計を行ったバベッジは、紛れもない天才だったと言えます。その功績は現在も色あせず、現在でもイギリスには「チャールズバベッジ研究所」と名付けられた情報科学の研究所が存在するほか、ロンドンのサイエンス・ミュージアムには、なんと「バベッジの脳の半分」が展示されています。
そんな世界史上、そして現代社会の礎に純然たる功績を残しながら、意外なほどに日本ではあまり名の知られていない、チャールズ・バベッジという人物。
この記事では、バベッジの功績や人柄等を中心に、スチームパンク系SF作品でバベッジの名前を知り、にわか仕込みで興味を持ったミーハーオタク野郎の筆者が執筆を担当いたします。どうぞ最後までお付き合いください。
チャールズ・バベッジとはどんな人?
名前 | チャールズ・バベッジ |
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誕生日 | 1791年12月26日 |
生地 | イングランド・ロンドン |
没日 | 1871年10月18日(享年:79歳) |
没地 | イングランド・ロンドン |
配偶者 | ジョージアナ・ホイットモア |
埋葬場所 | ロンドン、ケンサル・グリーン墓地 |
チャールズ・バベッジの生まれ
チャールズ・バベッジは、1791年12月26日に、イギリス・ロンドンで生まれました。『タイムズ』紙によるバベッジの死亡記事では「1792年12月26日生まれ」とされていますが、これは誤りです。このような誤りが生じたのには、チャールズが洗礼を受けたのが1792年1月6日であったため、誕生と戸籍への登録年にズレが生じたことが理由であるとされています。

父であるベンジャミン・バベッジは金細工職人から銀行家に転身した人物であり、そのためバベッジ家は相当に裕福な家系でした。そのような家系に生まれたチャールズは、幼い頃から複数の家庭教師による英才教育を施され、本人も幼いながら機械の仕組みに興味を持つような、いわゆる”神童”であったようです。
そんな彼でしたが、10歳の頃には生死の境をさまようような発熱を経験。田舎の学校に通うことになります。両親はチャールズのことを心配し、学校に対して「あまり脳に負担を掛けないようにしてほしい」と依頼していましたが、チャールズはそのような中での教育に対し「ここまで暇だと、馬鹿になってしまうかもしれないと思った」と、後に不満を口にしています。
チャールズ・バベッジが数学に目覚めたきっかけ
前述の通り、幼い頃から”神童”として名高かったチャールズが数学に目覚めるきっかけは、ミドルセックス州にあるホルムウッド・アカデミーへの入学でした。
そこでチャールズを教育したのは、スティーブン・フリーマンと言う牧師だったそうで、チャールズは彼との出会いと、ホルムウッド・アカデミーの所蔵する数学や化学に関する書籍との出会いによって、数学と科学に対する強い興味を抱いたと言われています。
その後、ホルムウッド・アカデミーを出たチャールズは、2人の家庭教師を付けられながら、ほとんど独学で数学を学んでいたそうです。2人の家庭教師についてチャールズは、「一方の聖職者からは、特に何も得るものはなかった」「もう一方のオックスフォードの家庭教師からは、ケンブリッジに入学できるだけの古典を学んだ」と評しています。

そうして難関であるケンブリッジ大学のトリニティカレッジに入学したチャールズは、その蔵書であるゴットフリート・ライプニッツ、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ、トーマス・シンプソンら偉大な数学者たちの蔵書を読みふけると同時に、ケンブリッジの数学教育の質の低さに愕然としたようです。チャールズはケンブリッジの数学教育について「ニュートンの時代から何も進歩していない」と、痛烈な評価を後に述べています。
その結果、チャールズは自ら「解析数学学会」という研究団体を設立し、数人の同志たちと共に革新的な数学研究に励むようになったとされています。また、大学入学から2年後にケンブリッジ大学のピーターハウス・カレッジに移り、そこで数学者のトップになりましたが、卒業はしておらず、名誉学位を与えられる形で1814年に大学を出ています。
また、チャールズの興味は数学や化学だけにとどまっていたわけではなかったらしく、超常現象を研究する団体にも所属していたことが記録されています。
チャールズ・バベッジの妻と子

1814年に、チャールズはジョージアナ・ホイットモアと言う女性と結婚。自らがセントラルヒーティングシステムを設計した、ダッドマストン・ホールという豪邸を新居としましたが、その後ロンドンへと引越しをしています。
チャールズとジョージアナは8人の子を設けましたが、成人したのは4人だけ。ジョージアナも1827年に、若くしてこの世を去っています。ジョージアナがこの世を去った1827年には、父であるベンジャミンや次男、末の子供も相次いで亡くなっており、チャールズはその後、その悲しみを癒すためか1年間のヨーロッパ旅行に出かけていたようです。
この頃のチャールズは、既に階差機関の設計に着手していましたが、それを放ってまで旅行に出かける辺り、バベッジが家族を愛していたことと、それらを喪った悲しみを察することが出来そうです。
チャールズ・バベッジの性格
チャールズ・バベッジの性格は、良く言えば職人気質で真っすぐ。悪く言えば頑固で偏屈だったと言えそうです。家庭教師に対して「得るものは何もなかった」と発言しているあたりからも、若干偏屈な彼の気性は読み取れるかと思います。
特に彼の音楽嫌いは有名であり、オルガン演奏などを行うストリートパフォーマーに対しては嫌悪を通り越して憎悪すら覚えていたようです。ストリートでの手回しオルガン演奏が聞こえると、その場所に乗り込んでパフォーマーを罵倒していたことが記録に残っています。彼はストリートパフォーマーの演奏に対して「数千人に精神的苦痛を与え、多くの知的労働者の時間を奪うことで金銭的損害を与える悪」だと考えていたことも記録に残されています。

若干偏執的な部分も記録に散見され、『通りの迷惑の観察』という彼が出版した書籍には「80日間で165回の”迷惑”を数えた」という記載が見られるほか、ある工場の壊れた窓ガラスの数を数え、その原因を考察した本を出版するなど、常軌を逸している面も見られます。
また、世襲貴族の制度を嫌悪していた事も記録されており、世襲可能な貴族としての地位提供を申し出られた時にはこれを固辞し、一代貴族の地位提供を望んだというエピソードも残されています。しかし一代貴族の地位は認められず、結局チャールズは生涯を平民として過ごしました。
これらのエピソードを「天才ゆえの奇矯」ととるか「気の触れかけた奇人」と見るかは人それぞれですが、チャールズが”数”というものに異常なほど執着していたことや、若干自己中心的すぎるきらいがあったこと、そして自身の考えにはとことん真っすぐだったことは、動かしようのない事実であると考えられそうです。
チャールズ・バベッジの死因
前述の通り、晩年に至るまで解析機関の設計と改良を行っていたチャールズでしたが、彼は1871年10月18日に、79歳でこの世を去ってしまいました。直接的な死因は、腎臓を患ったことで併発した膀胱炎であることが明らかになっています。彼の遺体は、ロンドンのケンサル・グリーン墓地に埋葬され、現在も観光客が訪れることが可能となっています。

また、バベッジの脳は分割されて標本として保管されており、一方はイングランド王立外科医師会に保管、もう一方はサイエンス・ミュージアムにて、なんと一般にも公開されています。倫理的に見ると若干眉をひそめたくなる話ですが、個人としては一見の価値のある展示ですので、ロンドン旅行の際にはぜひともお立ち寄りください。
チャールズ・バベッジが影響を受けた考え方
チャールズ・バベッジの思想に強く影響を与えたものとしては、インド思想があげられます。インド思想の中でも、チャールズはとりわけインド論理学に強く影響を受けており、そのため彼の考え方は、キリスト教的というよりは、ヒンドゥー教的であると言われることもあります。
もっとも、チャールズの生きた時代の数学者がインド論理学などのインド思想に影響を受けることはさほど珍しい事ではなかったらしく、チャールズの他にも、フレデリク・ウィリアム・ハーシェルやオーガスタス・ド・モルガンなどの数学者も、インド論理学に影響を受けている部分が、思想の中に散見されています。
しかしながら、チャールズはヒンドゥー教徒であったわけではなく、むしろ幼少の時からこの世を去るまで、敬虔なプロテスタントとして信仰を持ち続けていたようです。
チャールズ・バベッジの発明品
発明品①:「階差機関」

チャールズ・バベッジの名前を聞いたことがある方は、それと同時に「階差機関」と「解析機関」という言葉もセットで聞いたことがあるかと思います。チャールズはこの二つの機関に関する構想によって、現代で「コンピューターの父」と呼ばれるようになったのです。
チャールズが誕生したころ、様々な科学や研究で基礎として使われる「数表」は、計算手と呼ばれる労働者が、それぞれ流れ作業的に単純な計算をするという、アナログな方法で作られていました。人の手による計算であるため、ケアレスミスによって信用に値しない値が出ている数表も、当時は数多く存在していたようです。
チャールズはそのような現状を見て「そんな計算は蒸気機関にでもやらせればいい」と考えたとされています。その発想を原点にして生まれたのが、蒸気機関によって動く計算機である「階差機関」という発想だったのです。
しかしチャールズによる階差機関開発は最終的にとん挫。これは部品の設計に伴う技術的な問題ではなく、金銭的な問題や時間的な問題によるものであり、チャールズが考案した階差機関の設計そのものは、問題なく動作することが後の世で証明されています。
発明品②:「解析機関」
前述の「階差機関」の発明がとん挫してから、チャールズは少しの間、研究への情熱を失ってしまっていたようです。そんなチャールズに再び情熱を取り戻させたのは、エイダ・ラブレスと言う一人の少女でした。
数学に優れた能力と関心を示すエイダとの触れ合いの中で、チャールズは階差機関の発展形である「解析機関」を構想します。
チャールズが構想した解析機関は、計算に必要な数を人の手で入力しなくてはならない階差機関とは異なり、計算式や数列を記録したパンチカードを機関に読み込ませることで、半自動的に計算による数列を出力できるというもの。すなわち、現在の社会におけるプログラミングの原型とも言えるシステムでした。

エイダもこの研究や設計に携わっていたとされ、解析機関のバグの発見や、動作確認のためのプログラムを作成していたことが明らかになっています。そのため彼女は「世界最初のプログラマー」と呼ばれることもあり、プログラミング言語の中には彼女の名前にちなんだ「Ada」という言語も存在しています。
チャールズは解析機関の改良に余念がなく、その設計は晩年まで続きました。しかしチャールズ自身はその完成を見ることはできず、1871年に永眠。チャールズの死後、息子のヘンリー・バベッジが、父の研究をもとにした「解析機関2号機」を発表しましたが、それは厳密にはチャールズの設計した解析機関の一部を流用した、全く別の装置に過ぎないものでした。
そして2011年に、イギリスのプログラマーであるジョン・グラハム=カミングが「バベッジが設計した」解析機関の設計プロジェクトを開始。バベッジの没後150周年に当たる2021年の完成を目指して、現在も設計が行われています。
その他の発明や功績
「コンピューターの父」として、「階差機関」と「解析機関」を設計した功績がクローズアップされがちなチャールズ・バベッジですが、彼はそのような機械設計の他にも、様々な分野に功績を残しています。
中でも有名なのは暗号解読に関する功績で、ヴィジュネル暗号と呼ばれる難解な暗号を解読し、イギリス陸軍の作戦行動に大きく影響を与えたことでしょう。しかし、その有用性から発見はしばらく秘密にされ、そのために暗号解読の成功者の名誉は、数年後に同様のヴィジュネル暗号を解読した、プロイセンの将校に与えられてしまっています。

また、機関車の部品の一つであるカウキャッチャーの発明や、実用化こそされませんでしたが検眼鏡の発明などにも携わり、当時の技術発展に大きく貢献しています。
現在の我々の生活に関わるところから、コンピューターの部分にまつわる功績だけがクローズアップされがちなチャールズですが、その他の発明や功績も当時としては画期的なものばかりであり、チャールズの優れた頭脳を端的に示しています。
チャールズ・バベッジの名言
この機械を使って結果を求めるときはいつでも、1つの問いが生じる。最短で結果を得るためには、どのような計算方法を用いればよいかという問いだ。
不十分なデータを使ったために生じた誤りは、まったくデータを使わないために生じた誤りほど大きくはない。
一度でいい、五百年後の世界を見てみたい。それが叶うのなら、いつ死んだってかまわない。
チャールズ・バベッジにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「階差機関の生みの親は、チャールズ・バベッジではない?」
前述までのトピックを否定するような見出しですが、これは真実だとも言え、そうでないとも言えるでしょう。実際に、チャールズよりも先に「自動で計算を行う機械」を考案した人物は存在しています。
その人物は、ドイツの軍人であり技術者であるヨハン・ヘルフリッヒ・フォン・ミュラー。

彼はバベッジが階差機関を発送する40年ほど前に、自身が執筆した本の中で「自動で計算を行う機械」について言及。そのアイディアを公表しています。
しかしヨハンが出来たのは、その発想と公表まで。資金が集まらないという純粋な経済的問題により、ヨハンの事業は実行に移されることはありませんでした。
そのようなことを考えるに、「計算機械」の発想の生みの親はヨハン。「階差機関」としての技術や制作の親はチャールズと考えるのが、厳密に考えると正しいと言えそうです。
都市伝説・武勇伝2「数学と科学だけじゃない!チャールズ・バベッジが『文学』に与えた影響」
「コンピューターの元祖」を開発したチャールズ・バベッジは、主に数学や科学の分野に大きな影響を与えた人物として知られています。しかし、彼が世界に与えた影響はそれだけではなく、それどころか、一見関わりのなさそうな文学の分野にも、大きな影響を与えていることをご存じでしょうか?
文学のジャンルの一つに「スチームパンク」と呼ばれるものがあります。その分野の作品は、主に「蒸気機関が発達した世界」や、そこから派生した「現実とは別の技術を核とする世界」を舞台としており、それ故にチャールズ・バベッジの「蒸気機関による計算機」とは、切っても切れない関係にあるのです。

「スチームパンク」ジャンルの文学作品としては、ウィリアム・ギブスン、ブルース・スターリングの共著による『ディファレンス・エンジン』や、伊藤計劃、円城塔の共著による『屍者の帝国』があげられます。他には『鋼鉄城のカバネリ』や『鋼の錬金術師』、ジブリ作品の『天空の城ラピュタ』も、広い意味ではスチームパンク作品に当たると言えるでしょう。
チャールズの功績は現在の社会の根底だけでなく、意外と身近な娯楽の分野にも存在していると言えそうです。
チャールズ・バベッジの略歴年表
チャールズ・バベッジの具体年表
1791年 – 0歳「イギリス・ロンドンの銀行家の下に生まれる」
チャールズ・バベッジの誕生
1791年の年の瀬に当たる、12月26日。ロンドンの銀行家、ベンジャミン・バベッジと、その妻であるベツィー・バベッジの間に、チャールズ・バベッジは生を受けました。
正確な生誕地については議論がありますが、44 Crosby Row, Walworth Road の生まれであるという説が最も有力であり、イギリスによく見られるブルー・プラーク(著名人の生誕地などを示す看板)も、ウォルワース・ロードの交差点付近に存在しています。
神童「チャールズ・バベッジ」

裕福で教育熱心な両親のもとに生まれたチャールズは、幼い頃から何人もの家庭教師による英才教育を受けてきたことが伝わっています。
チャールズ自身も、その英才教育を苦にしてはいなかったようで、特に機械工学の分野や、機械の仕組みなどについては自ら熱心に調査を行うほどの強い興味を抱いていたようです。後の「コンピューターの父」の片鱗が窺えるエピソードだと言えるでしょう。
1801年 – 10歳「療養のために田舎の学校に通学」
発熱により命の危機に
この年、チャールズは高熱に倒れることになってしまいます。
その病名や原因については分かっていませんが、チャールズは生死の境をさまようほどの状態だったようです。なんとか彼が回復した後も両親の心配は解けず、チャールズは両親の計らいで、田舎の学校に通学させられることになりました。
田舎の学校にて

チャールズを心配する両親の計らいで、田舎の学校に通うことになった彼ですが、彼自身はその学校生活に、大いに不満を持っていたようです。
両親はチャールズの高熱を、脳のオーバーヒートのようなものだと考えていたのか「あまり脳に負担を掛けないようにしてください」と学校に依頼していました。しかしチャールズ自身はそのような退屈な授業が不満であったようで「こんなに暇だと馬鹿になってしまうかもしれないと思った」と、後に自分の幼少期を振り返った言葉を残しています。
180?年 – ??歳「ホルムウッド・アカデミー」
数学との出会い

正確な年代は不明ですが、大学に入学する1810年までの間に、チャールズはホルムウッド・アカデミーに入学しています。
そこでチャールズはスティーブン・フリーマン牧師から指導を受け、数学と科学の分野に強い興味を抱くことになるのです。ホルムウッド・アカデミーには、数学や化学分野に関する数多くの蔵書があったことも手伝って、チャールズ少年は理数分野への興味をめきめきと伸ばしていくこととなりました。
2人の家庭教師
ホルムウッド・アカデミーを離れたバベッジには、2人の家庭教師が付けられました。しかし二人はチャールズに教えられるほどの数学知識がなかったため、この頃のチャールズは書物を用いてほぼ独学で数学を研究していたようです。
当時に付けられていた二人の家庭教師について、バベッジは「一方の聖職者からは、何も学ぶべきところがなかった」「もう一方の家庭教師からは、ケンブリッジに入学できるだけの古典を学んだ」と回顧して記しています。
理数分野に熱を上げるチャールズからすると、2人の家庭教師から学ぶべきところは少なかったのでしょうが、それと同時に、バベッジの若干自己中心的な性格を示した言葉だとも受け取ることができるでしょう。
1810年 – 19歳「ケンブリッジ大学に入学」
ケンブリッジ大学に入学

この年の10月に、チャールズはケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学します。
そこでチャールズはゴットフリート・ライプニッツ、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ、トーマス・シンプソンら、偉大な数学者たちの著作を読みふけり、それらの数学者たちが残した知識をどんどんと吸収していったようです。
その一方、大学の講義はチャールズの知識欲を満足させるものではなかったらしく、その数学教育の質の低さに対して、チャールズは「ニュートンの時代から何も進歩していない」と痛烈な言葉を残しています。
1812年 – 21歳「友人たちと共に「解析数学学会」を設立」
「解析数学学会」
ケンブリッジ大学の数学教育の質の低さに見切りをつけたチャールズは、この年に友人たちと共に「解析数学学会」を設立。個人として数学研究を開始します。
学会の設立メンバーには、後に数学者として有名を轟かせることになるジョン・ハーシェルやジョージ・ピーコックがおり、チャールズの解析数学学会設立が、どれだけ数学界に影響を与えたかが分かります。

また、学会のメンバーではありませんでしたが、後に裁判官となるエドワード・ライアンとも親しく交流していたことが伝わっています。エドワードは後にチャールズの後援者ともなっているほか、チャールズとエドワードは、それぞれ互いの姉妹と結婚し、義兄弟ともなっていたという記録が残っています。
「The Ghost Club」

この頃のチャールズの関心は、数学や化学分野だけではなく、オカルトなどの超常現象にも向いていたようです。超常現象を研究する団体である「The Ghost Club」の名簿に、チャールズの名前が残っています。
数学や科学とオカルトというと、噛み合わないものの筆頭のように思えますが、当時はまだ技術が未発達だった時代。もしかするとチャールズは「オカルトとして存在しているものを、科学によって解明してやろう」と考えたのかもしれません。
1814年 – 23歳「名誉学位の授与により大学を出る。そして結婚」
名誉学位の授与を受け、大学を出る

ケンブリッジ大学の中でもトップの数学者となったチャールズでしたが、彼は大学を卒業することはできませんでした。その理由についてはわかっていませんが、大学の数学教育の質に失望していたチャールズが、単に講義に出ていなかったからではないかと思われます。
チャールズはその代わりに、試験無しで名誉学位を与えられて大学を出ています。このように、チャールズの頭脳は多くの人に認められていたようですが、彼は厳密には大学を卒業した、いわゆる「大卒」というわけではないと言えそうです。
ジョージアナ・ホイットモアとの結婚

この年の7月に、チャールズはジョージアナ・ホイットモアという女性と結婚します。このジョージアナが、前述のエドワードの姉妹かどうかは不明ですが、記録に残っている限りではチャールズの妻は彼女しかいません。
チャールズはこの結婚を機に、シュロップシャーのダッドマストン・ホールという邸宅に移住。邸宅のセントラル・ヒーティング・システムを自ら設計しますが、後にロンドンに再び移住しています。
チャールズとジョージアナの夫婦仲について、記録に記述は存在していませんが、二人の間には8人の子供がいたことがわかっているため、決して夫婦仲が悪かったわけではなさそうです。
1822年 – 31歳「蒸気機関計算機「階差機関」の制作に着手」
「自動計算器」の発想を得る
大学を出て以降も数学研究に携わっていたチャールズは、今度は数表の精度の低さに危機感を覚えます。
数表は、実験や統計の基礎として使われる数列のことで、当然ながらこれが間違っていると後の全ての計算に影響が出てしまう重要なものでした。しかし当時の数表は、計算手と呼ばれる労働者たちが流れ作業的に単純計算をこなすことで作られていたため、ケアレスミスが多発。信用ならない数表が数多く存在することとなっていたのです。

この現状に危機感を覚えたチャールズは「こんな単純計算は、蒸気機関に行わせればいい」と発想。数日にわたって「自動計算器」の設計を行いました。以降チャールズは「蒸気機関に計算を行わせる」という発想に魅了され、頑なに「蒸気機関による」計算機の開発に没頭するようになるのです。
なお、チャールズが「自動計算機」という発想に至った年代については諸説が存在しており、厳密には分かっていません。このトピックでは1822年の「制作着手」に被せていますが、それ以前のどこでチャールズがその発想に至ったのかについては、今も議論の種となっています。
「階差機関」の制作に着手
チャールズはこの年に、蒸気機関による自動計算器として「階差機関」の制作に取り掛かりました。
「階差機関」とは、簡単に言うと「ダイヤル式の巨大計算機」のこと。現在一般的に使われている電卓よりも複雑な計算が可能な代わりに、巨大な据え置き型で、操作も若干複雑なものでした。しかし、計算手のようなミスが起こる可能性がほとんどなく、何より操作に慣れてしまえば簡単に扱えるという事で、イギリス政府からも資金提供を受けるほど、階差機関の制作には期待が持たれていたようです。
1827年 – 36歳「相次ぐ死別」
妻子や父との死別

この年のチャールズは、相次いで不幸に見舞われています。チャールズ・バベッジという天才の原型を育てた父、ベンジャミン・バベッジの死去や、妻であるジョージアナも病に倒れて帰らぬ人に。さらに次男と末の子も病によって失いました。
チャールズは相次いだ死別に相当参ってしまったらしく、4人との別れを済ませた後に、1年ほどの間ヨーロッパ中を旅行して傷を癒していたようです。そのため、1年ほどの間、階差機関の開発はストップしてしまいました。
1832年 – 41歳「「階差機関」制作が滞り始める」
「階差機関」制作に暗雲が見え始める
死別の悲しみを乗り越えて、階差機関の制作に尽力するチャールズでしたが、制作に携わっていたエンジニアとの行き違いから起こった仲違いによって、制作が一時ストップするという事態に直面します。
これによりイギリス政府からも、予算の減額や打ち切りを示唆される事態になってしまい、階差機関の制作には暗雲が立ち込めることとなってしまうのです。
1842年 – 51歳「「階差機関」の制作失敗と、「解析機関」への着手」
「階差機関」への金銭サポートが断たれる
この年、徐々に減額されていた階差機関の制作に関する政府からの金銭サポートが完全に打ち切りに。これにより「階差機関」の制作は失敗に終わってしまうこととなりました。この失敗により、チャールズは少しの間研究への情熱を失ってしまうことになります。

そんなチャールズを再び研究へと誘ったのは、エイダ・ラブレスという女性でした。エイダは、偏屈なチャールズも認めるほどに高い数学への適性を持つ、頭の良い聡明な女性だったと伝わっています。エイダはチャールズの思考をよく理解していたらしく、解析機関に関する書物を出版しています。
エイダとの出会いによって新たな研究を行うことを決意したチャールズは、「階差機関」をより簡単かつ自動的に扱えるシステムを考案。この発想が後のコンピューターの原型である「解析機関」でした。
「解析機関」の設計と制作
エイダとの出会いによって研究へのモチベーションを取り戻したチャールズは、新たに考案した「解析機関」の制作に取り掛かります。
解析機関は、計算に必要な数を人の手で入力しなくてはならない階差機関とは異なり、計算式や数列を記録したパンチカードを機関に読み込ませることで、半自動的に計算による数列を出力できるというもの。階差機関の上位互換とも言える機械であり、現在のプログラミングの原型となった機械でもあります。
これの制作にはエイダも関わっていたらしく、解析機関に読み込ませるパンチカードや、チャールズにバグを報告している文書などが残されています。また、エイダはチャールズも気付いていなかった解析機関の使用法にも言及しているなど、時折開発者のチャールズを上回る理解をもって、研究に当たっていたようです。
チャールズの解析機関設計は、文字通り死の間際まで続けられていたようで、結局チャールズ自身は解析機関の完成を見ることなくこの世を去っています。エイダも若くしてガンによってこの世を去っているため、コンピューターの原型を作った二人が、その夢の始まりを見ることは、残念ながらできなかったと言えそうです。
1871年 – 79歳「膀胱炎により死去」
道半ばで病により死去

20年以上もの間、解析機関の設計と改良に心血を注いできたチャールズでしたが、この年の10月18日に、病によって帰らぬ人となりました。死因は腎臓を患ったことで併発した膀胱炎であると言われています。遺体はロンドンのケンサル・グリーン墓地に葬られ、現在も観光客が訪れることが可能なスポットとなっています。
彼が改良を続けた解析機関は、1910年に彼の息子、ヘンリー・バベッジによって発表されましたが、それはチャールズの設計したものの一部を転用した別の機械であり、厳密な「チャールズの設計に基づく」解析機関は、未だ未完成な状態だと言えます。
チャールズの”脳”

こうして、道半ばでその生涯を終えたチャールズ・バベッジでしたが、彼の脳は現在も標本として保管されています。
彼の脳は二つに分割され、一方はイングランド王立外科医師会に保管され、もう一方はロンドンのサイエンス・ミュージアムに、なんと一般公開されています。倫理的に考えると少々微妙な気分になる展示ではありますが、筆者個人としては一見の価値のある展示です。ロンドン観光に行く際は、サイエンス・ミュージアムにも一度お立ち寄りください。
1991年 – ー歳「チャールズの設計書による「階差機関」の動作が確認」
「階差機関」の動作が確認

ロンドン、サイエンス・ミュージアムの「バベッジ生誕200周年記念事業」により、チャールズの設計書に基づく階差機関が完成。その正常な動作が確認されたことで、細かなミスを除いてはバベッジの設計の正しさが証明されることとなりました。
この階差機関は、チャールズが階差機関を制作していた当時の技術に基づいて行われたため、階差機関が完成しなかったのは、当時の工学技術の不足ではなく、チャールズと技術者たちの間の経済的な確執が原因であった事が証明される形となりました。
2021年 – ー歳「チャールズの設計書による「解析機関」が完成予定」
「解析機関」の完成予定
2010年10月に、イギリスのプログラマーであるジョン・グラハム・カミングによる解析機関制作プロジェクトが開始。「Plan 28」と名付けられたその計画は、2021年までの完成を目標にして現在も解析機関の制作に取り組んでいます。
また、チャールズが設計した計算機は、現在でも一定の評価を受けており、広報車環境や高温環境で動作する点を特に高く評価されているようです。
チャールズ・バベッジの関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
完成しなかった蒸気式コンピューター: チャールズ・バベッジと階差機関 レトロハッカーズ
「階差機関」や「解析機関」についての詳細も含めた、チャールズ・バベッジの人生を描いた書籍です。
既にコンピューター知識があり、それらの分野について詳しく知りたい方には物足りないと思いますが、これからそのような分野について学びたい方にピッタリの書籍であると思います。
ディファレンス・エンジン
チャールズ・バベッジの業績が根底にある、「スチームパンク」ジャンルの元祖とも言うべき作品です。文庫で上下2巻。
”もしも”の世界を一から描いているため、かなり難しい作品ではありますが、その分再読性も高く、ハマる人にはとことんハマる作品です。チャールズ・バベッジの思い描いた世界を想像したい方は、まずはこの作品を読むことをお勧めします。
関連外部リンク
チャールズ・バベッジについてのまとめ
「コンピューターの父」であり「スチームパンクの父」であるチャールズ・バベッジ。様々な分野に影響を与えながら、日本ではあまりなじみのない人物でもある彼について、この記事では纏めさせていただきました。
彼の遺した功績は、理系でも文系でもあるため、彼の功績全てを理解するためには、おそらく膨大な量の知識が必要となっています。ガチ文系の筆者は、階差機関や解析機関については未だに理解しきれていません(情報不足でしたら申し訳ありません!)。
しかし、幅広い分野にその名を轟かせる彼が、歴史に名を残す偉大な人物であることは間違いありません。皆さまがこの記事を通じて、身の回りに存在するコンピューターの歴史に興味を持っていただければ幸いに思います。
それでは、この記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。