チャールズ・バベッジの名言
この機械を使って結果を求めるときはいつでも、1つの問いが生じる。最短で結果を得るためには、どのような計算方法を用いればよいかという問いだ。
不十分なデータを使ったために生じた誤りは、まったくデータを使わないために生じた誤りほど大きくはない。
一度でいい、五百年後の世界を見てみたい。それが叶うのなら、いつ死んだってかまわない。
チャールズ・バベッジにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「階差機関の生みの親は、チャールズ・バベッジではない?」
前述までのトピックを否定するような見出しですが、これは真実だとも言え、そうでないとも言えるでしょう。実際に、チャールズよりも先に「自動で計算を行う機械」を考案した人物は存在しています。
その人物は、ドイツの軍人であり技術者であるヨハン・ヘルフリッヒ・フォン・ミュラー。
彼はバベッジが階差機関を発送する40年ほど前に、自身が執筆した本の中で「自動で計算を行う機械」について言及。そのアイディアを公表しています。
しかしヨハンが出来たのは、その発想と公表まで。資金が集まらないという純粋な経済的問題により、ヨハンの事業は実行に移されることはありませんでした。
そのようなことを考えるに、「計算機械」の発想の生みの親はヨハン。「階差機関」としての技術や制作の親はチャールズと考えるのが、厳密に考えると正しいと言えそうです。
都市伝説・武勇伝2「数学と科学だけじゃない!チャールズ・バベッジが『文学』に与えた影響」
「コンピューターの元祖」を開発したチャールズ・バベッジは、主に数学や科学の分野に大きな影響を与えた人物として知られています。しかし、彼が世界に与えた影響はそれだけではなく、それどころか、一見関わりのなさそうな文学の分野にも、大きな影響を与えていることをご存じでしょうか?
文学のジャンルの一つに「スチームパンク」と呼ばれるものがあります。その分野の作品は、主に「蒸気機関が発達した世界」や、そこから派生した「現実とは別の技術を核とする世界」を舞台としており、それ故にチャールズ・バベッジの「蒸気機関による計算機」とは、切っても切れない関係にあるのです。
「スチームパンク」ジャンルの文学作品としては、ウィリアム・ギブスン、ブルース・スターリングの共著による『ディファレンス・エンジン』や、伊藤計劃、円城塔の共著による『屍者の帝国』があげられます。他には『鋼鉄城のカバネリ』や『鋼の錬金術師』、ジブリ作品の『天空の城ラピュタ』も、広い意味ではスチームパンク作品に当たると言えるでしょう。
チャールズの功績は現在の社会の根底だけでなく、意外と身近な娯楽の分野にも存在していると言えそうです。
チャールズ・バベッジの略歴年表
チャールズ・バベッジは、この年の12月26日にロンドンに生を受けました。裕福な銀行家である父の下に生まれたため、幼い頃から英才教育を受けていたらしく、幼いながらに機械工学分野に関心を示す子供だったと伝わっています。
この年、チャールズは命が危ぶまれるほどの発熱を経験。彼を心配した両親は、彼を田舎の学校に通学させることにします。しかし当のチャールズは「こんなに暇だと馬鹿になってしまうかもしれない」と、田舎の学校の授業に退屈さを覚えていたようです。
正確な時期は不明ですが、チャールズはホルムウッド・アカデミーに入学し、そこで数学と科学に対する興味を抱くようになったとされています。
難関学府として知られるケンブリッジ大学に入学したチャールズでしたが、そこで行われていた数学教育の質の低さに愕然としたようです。チャールズは当時のケンブリッジの数学教育について「ニュートンの時代から何も進歩していない」と痛烈な言葉を残しています。
ケンブリッジの数学教育に失望したチャールズは、数人の友人たちと共に「解析数学学会」を設立し、個人として数学研究を開始します。この頃のチャールズは、数学や化学だけでなく、多くの分野に関心を持っていたようで、超常現象の研究なども行っていたようです。
この年、チャールズは無試験で名誉学位を与えられ、大学を出ています。そのため、チャールズはケンブリッジ大学を”卒業”したわけではありません。大学を出たバベッジは、ジョージアナ・ホイットモアという女性と結婚。農村部へ移住しますが、後に再びロンドンへと引っ越すことになります。
計算手による間違いだらけの対数表に危機感を覚えたチャールズは、「蒸気機関による自動計算機械」を構想。世界初のコンピューターの原型である「階差機関」の制作に着手します。
この年には、チャールズの家族が相次いで死去。妻、父、次男、末の子を相次いで喪ったチャールズは、以降1年ほどヨーロッパ中を旅行し、悲しみを癒すことに終始していたそうです。
階差機関の制作を手伝っていたエンジニアとチャールズが不仲になり、階差機関の制作が一時中断されてしまいます。これにより階差機関の制作には明確な遅れが見え始め、政府からの資金援助も打ち切りが示唆され始めてしまいます。
とん挫していた階差機関の制作が、この年には完全にストップ。イギリス政府からの資金提供も打ち切られ、チャールズは失意によって、少しの間研究への情熱を失ってしまいます。
エイダ・ラブレスとの出会いによって研究への情熱を取り戻したチャールズは、階差機関の改良系である「蒸気機関による半自動の計算機械」である「解析機関」の制作に着手します。現在のプログラミングによる機械の原型であるそれを、チャールズは死の直前まで改良し続けていました。
30年ほどにわたって解析機関を改良し続けたチャールズでしたが、この年の10月18日に帰らぬ人となってしまいました。享年は79歳。死因は腎臓を患ったことによる、膀胱炎だったとされています。
ロンドン・サイエンスミュージアムの事業によって、チャールズの設計書通りの階差機関が完成。正常な動作が確認され、チャールズの設計の正しさが証明されました。
イギリスのプログラマー、ジョン・グラハム・カミングによって、2010年より解析機関の再現プロジェクトが始動。現在クラウドファンディングによる資金を資本として、制作が行われています。完成は2021年予定とされているようです。
チャールズ・バベッジの具体年表
1791年 – 0歳「イギリス・ロンドンの銀行家の下に生まれる」
チャールズ・バベッジの誕生
1791年の年の瀬に当たる、12月26日。ロンドンの銀行家、ベンジャミン・バベッジと、その妻であるベツィー・バベッジの間に、チャールズ・バベッジは生を受けました。
正確な生誕地については議論がありますが、44 Crosby Row, Walworth Road の生まれであるという説が最も有力であり、イギリスによく見られるブルー・プラーク(著名人の生誕地などを示す看板)も、ウォルワース・ロードの交差点付近に存在しています。
神童「チャールズ・バベッジ」
裕福で教育熱心な両親のもとに生まれたチャールズは、幼い頃から何人もの家庭教師による英才教育を受けてきたことが伝わっています。
チャールズ自身も、その英才教育を苦にしてはいなかったようで、特に機械工学の分野や、機械の仕組みなどについては自ら熱心に調査を行うほどの強い興味を抱いていたようです。後の「コンピューターの父」の片鱗が窺えるエピソードだと言えるでしょう。
1801年 – 10歳「療養のために田舎の学校に通学」
発熱により命の危機に
この年、チャールズは高熱に倒れることになってしまいます。
その病名や原因については分かっていませんが、チャールズは生死の境をさまようほどの状態だったようです。なんとか彼が回復した後も両親の心配は解けず、チャールズは両親の計らいで、田舎の学校に通学させられることになりました。
田舎の学校にて
チャールズを心配する両親の計らいで、田舎の学校に通うことになった彼ですが、彼自身はその学校生活に、大いに不満を持っていたようです。
両親はチャールズの高熱を、脳のオーバーヒートのようなものだと考えていたのか「あまり脳に負担を掛けないようにしてください」と学校に依頼していました。しかしチャールズ自身はそのような退屈な授業が不満であったようで「こんなに暇だと馬鹿になってしまうかもしれないと思った」と、後に自分の幼少期を振り返った言葉を残しています。
180?年 – ??歳「ホルムウッド・アカデミー」
数学との出会い
正確な年代は不明ですが、大学に入学する1810年までの間に、チャールズはホルムウッド・アカデミーに入学しています。
そこでチャールズはスティーブン・フリーマン牧師から指導を受け、数学と科学の分野に強い興味を抱くことになるのです。ホルムウッド・アカデミーには、数学や化学分野に関する数多くの蔵書があったことも手伝って、チャールズ少年は理数分野への興味をめきめきと伸ばしていくこととなりました。
2人の家庭教師
ホルムウッド・アカデミーを離れたバベッジには、2人の家庭教師が付けられました。しかし二人はチャールズに教えられるほどの数学知識がなかったため、この頃のチャールズは書物を用いてほぼ独学で数学を研究していたようです。
当時に付けられていた二人の家庭教師について、バベッジは「一方の聖職者からは、何も学ぶべきところがなかった」「もう一方の家庭教師からは、ケンブリッジに入学できるだけの古典を学んだ」と回顧して記しています。
理数分野に熱を上げるチャールズからすると、2人の家庭教師から学ぶべきところは少なかったのでしょうが、それと同時に、バベッジの若干自己中心的な性格を示した言葉だとも受け取ることができるでしょう。
1810年 – 19歳「ケンブリッジ大学に入学」
ケンブリッジ大学に入学
この年の10月に、チャールズはケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学します。
そこでチャールズはゴットフリート・ライプニッツ、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ、トーマス・シンプソンら、偉大な数学者たちの著作を読みふけり、それらの数学者たちが残した知識をどんどんと吸収していったようです。
その一方、大学の講義はチャールズの知識欲を満足させるものではなかったらしく、その数学教育の質の低さに対して、チャールズは「ニュートンの時代から何も進歩していない」と痛烈な言葉を残しています。
1812年 – 21歳「友人たちと共に「解析数学学会」を設立」
「解析数学学会」
ケンブリッジ大学の数学教育の質の低さに見切りをつけたチャールズは、この年に友人たちと共に「解析数学学会」を設立。個人として数学研究を開始します。
学会の設立メンバーには、後に数学者として有名を轟かせることになるジョン・ハーシェルやジョージ・ピーコックがおり、チャールズの解析数学学会設立が、どれだけ数学界に影響を与えたかが分かります。
また、学会のメンバーではありませんでしたが、後に裁判官となるエドワード・ライアンとも親しく交流していたことが伝わっています。エドワードは後にチャールズの後援者ともなっているほか、チャールズとエドワードは、それぞれ互いの姉妹と結婚し、義兄弟ともなっていたという記録が残っています。
「The Ghost Club」
この頃のチャールズの関心は、数学や化学分野だけではなく、オカルトなどの超常現象にも向いていたようです。超常現象を研究する団体である「The Ghost Club」の名簿に、チャールズの名前が残っています。
数学や科学とオカルトというと、噛み合わないものの筆頭のように思えますが、当時はまだ技術が未発達だった時代。もしかするとチャールズは「オカルトとして存在しているものを、科学によって解明してやろう」と考えたのかもしれません。
1814年 – 23歳「名誉学位の授与により大学を出る。そして結婚」
名誉学位の授与を受け、大学を出る
ケンブリッジ大学の中でもトップの数学者となったチャールズでしたが、彼は大学を卒業することはできませんでした。その理由についてはわかっていませんが、大学の数学教育の質に失望していたチャールズが、単に講義に出ていなかったからではないかと思われます。
チャールズはその代わりに、試験無しで名誉学位を与えられて大学を出ています。このように、チャールズの頭脳は多くの人に認められていたようですが、彼は厳密には大学を卒業した、いわゆる「大卒」というわけではないと言えそうです。
ジョージアナ・ホイットモアとの結婚
この年の7月に、チャールズはジョージアナ・ホイットモアという女性と結婚します。このジョージアナが、前述のエドワードの姉妹かどうかは不明ですが、記録に残っている限りではチャールズの妻は彼女しかいません。
チャールズはこの結婚を機に、シュロップシャーのダッドマストン・ホールという邸宅に移住。邸宅のセントラル・ヒーティング・システムを自ら設計しますが、後にロンドンに再び移住しています。
チャールズとジョージアナの夫婦仲について、記録に記述は存在していませんが、二人の間には8人の子供がいたことがわかっているため、決して夫婦仲が悪かったわけではなさそうです。