大山巌とはどんな人だった?子孫や捨松との関係性は?墓所や銅像も紹介

大山巌(おおやま いわお)は天保13年10月10日(1842年11月12日)~大正5年(1916年12月10日)は薩摩藩(現在の鹿児島県)に生まれました。

大山巌を一言で表すと「リーダーとしての器量を発揮して、明治日本の礎を築いた人物」といえるでしょう。大山巌は当時「世界最強」として恐れられていたロシア帝国と戦った日露戦争で、満州軍総司令官として一癖も二癖もある日本軍の将軍たちを率いて出陣し、見事に勝利を飾ります。

大山巌

もし大山巌ではなく誰か違う人が総司令官として出陣したら、癖のある将軍たちをまとめることができず、日露戦争で日本が勝つのは難しかったでしょう。また日露戦争に勝利することができなければ、明治日本も建国から数十年で終わりを告げ、日本の歴史も大きく変わっていたかもしれません。

大山巌は、いとこで名リーダーとして明治維新を成し遂げた偉人として知られる西郷隆盛からさまざまな教えを受けていました。そのため西郷隆盛がどのようにして人を統率しているのかを間近で見て、リーダーとしてどのように人を率いていけばいいか、心構えを受け継いでいたかもしれません。

その一例として、大山巌は非常に優れた統率力を持った人物でした。大山巌の人材統率法は全ての仕事を部下へ任せ、自分は一切口出ししないと言う方針で仕事をしていました。なぜこのようなスタンスを取っていたのでしょうか?

それは、自分が部下へ指示をすれば、部下がトップの指示を待つだけの人になってしまうと考えていたからです。そのため大山巌は自分が知っていることでも、部下に口を出さずに自分で考えて行動してほしいとの願いを込め、このような方針で部下を統率し、リーダーとしての力を発揮していました。

「坂の上の雲」という小説で大山巌を知り、その人間性に魅了されて彼に関する書籍を隅から隅まで読みあさった筆者が彼の人物像を骨の髄まで詳しくお伝えいたします。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

大山巌とはどんな人か?

名前大山巌
生地薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通
誕生日1842年11月12日
没日1916年12月10日
没地東京(自宅)
配偶者先妻:沢、後妻:捨松
埋葬場所栃木県那須塩原

名将・大山巌の生涯をハイライト

大山巌

大山巌は天保13年10月10日(1842年11月12日)、鹿児島県に大山家の次男として生まれました。幼いころからいとこの西郷隆盛に学問を習っていましたがあまり勉強が得意ではなく、戦ごっこや武道に熱中している子供だったといいます。

若いころは過激な倒幕運動に参加していたのですが、薩英戦争でイギリスとの実力の差を見せつけられたことから兵学をしっかり学ぶようになり、20代前半で西郷隆盛の右腕と認められるようになります。薩摩藩・長州藩と幕府が戦った「鳥羽伏見の戦い」では、2番隊の隊長として活躍しました。

1877年には、尊敬する西郷隆盛が起こした西南戦争を鎮圧する側として戦いました。このことは生涯を通して心の傷となっていて、西郷が亡くなった後は故郷の鹿児島に帰らなかったといいます。その後、第一次伊藤内閣で初めての陸軍大臣となるなど政府の要職に就き、私生活では1883年、41歳のときに山川捨松と再婚しました。

昌円陣地を視察中の大山巌
(右から4人目)

52歳で日清戦争に第2軍司令官として従軍、旅順などの清国の副次的な軍事拠点を1日で攻略するなどの活躍を見せました。10年後の日露戦争には総司令官として参加、大国ロシアを相手に勝利を収めます。

その後も明治政府の「元老」として活躍しましたが、1916年に胆のう炎で亡くなりました。彼の墓所は栃木県那須塩原市にあります。

血気盛んな薩摩生まれ

佐々木源氏の家紋を使う家に生まれた

大山巌は天保13年10月10日(1842年11月12日)に名家として知られる佐々木源氏の家紋を用いる大山家の次男として生まれました。

大山巌は一言でいえば血気盛んな人でした。幼いころから学問などを西郷隆盛に教わりましたが学問があまり得意ではなく、示現流の武道に熱中し、近所の人々からワンパク小僧として知られていました。

また大山巌は青年期になると江戸幕府を倒す過激な運動に参加しますが、失敗に終わり自宅謹慎を命じられることになります。このように大山巌は激しい性格の持ち主でしたが、自分の興味がある砲術については真剣に学び、薩摩藩随一の実力の持ち主として知られていきます。

多くの人の尊敬を集めた名リーダー

ダグラス・マッカーサー

大山巌は多くの人々から尊敬されていました。例えば彼の葬儀のときには、日露戦争で敵国であったロシアの将官がわざわざ大山巌の墓前にひときわ目立つお花を供えたそうです。

また連合国最高司令官であったダグラス・マッカーサーも彼を尊敬していました。マッカーサーは若い頃、軍人であった父の副官として一緒に日本へ旅行したときに日露戦争で活躍した大山巌と直接会って語り合い、感銘を受けたそうです。その後、昭和天皇と会見したときにも「大山元帥と直接お会いしたことがあります」と回顧したことからも、彼が大山巌を敬っていたことがうかがえます。

優れたリーダーの大失敗

日露戦争への批評を許さなかった

大山巌は先ほどご紹介したように、優れた指導力を持った人です。日露戦争では優れた指導力を持って組織を動かしロシアに勝利します。

しかし、彼はこの日露戦争で最大の失敗を犯していました。それは日露戦争についての批評を許さなかったことです。

そのため日露戦争での失敗を次にいかせず、反省することなく次に進みました。その組織体制は太平洋戦争後、日本陸軍が解体されるまで続くことになります。

大山巌の家族構成

次男・柏は考古学者で軍人だった
  • 父:綱昌
  • 母:競子
  • 先妻:沢(死別)
  • 長女:信子
  • 次女:美津子(夭折)
  • 三女:芙蓉子
  • 四女:留子
  • 後妻:捨松
  • 五女:久子
  • 長男:高
  • 六女:永子
  • 次男:柏
  • 孫:梓
  • 孫:桂

帰国子女・山川捨松を後妻にとる

大山巌と後妻:捨松

大山巌は美人好みで、最初の奥さんであった沢子を非常に気に入っていました。そのため沢子が亡くなったときには大きなショックを受けましたが、パーティー会場で出会った捨松という女性に一目惚れ。その後結婚することになったのですが、2人の間に面白いエピソードが残っているのでご紹介しましょう。

大山巌は捨松に誘われてデートをしたことがありました。しかし捨松は彼が何を話しているのかまったくわかりませんでした。捨松は津田梅子などとともに10年以上アメリカに留学していたため、彼の話す薩摩弁交じりの日本語がよくわからなかったのです。

そこで捨松が大山巌へ英語で話しかけました。するとスムーズにコミュニケーションが取れ、会話を交わすにつれて彼の心の広さにひかれていき、結婚を決めたそうです。

大山巌と捨松は2男6女を授かります。また孫には生物学者として有名な大山桂や歴史学者・大山梓がいます。

都内には大山巌の銅像が2つ

那須塩原市にある大山巌の墓

大山巌のお墓は栃木県那須塩原市にあります。彼の銅像は現在東京に2か所設置されています。

1つ目は東京芸術大学内にあったのですが、太平洋戦争が終戦したときに校内で倒れているところを発見され、現在は同じ場所に立て直されています。また東京・千代田区九段坂には大山巌が馬に乗っている姿の銅像が立てられています。

興味のある方は訪れてみてはいかがでしょうか。

大山巌の名言は?

「若い者に心配させまいと思って、知っとることも知らん顔しておらねばならなかった。」

「来るべき会戦は日露戦争の関ヶ原なり。ここに全戦役の決勝を期す」

「児玉どんが善処してくれるけん。俺はじっと待つのが仕事じゃ」

大山巌の功績

功績1「戊辰戦争で砲隊長として活躍」

そのころ使われていた大砲

1868年、新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争の初戦・鳥羽伏見の戦いが始まると、大山巌は2番砲兵隊長として会津藩を相手に戦いました。江戸で学んだ砲術を存分にいかした作戦をとって、新政府軍の勝利に大きく貢献しました。

続く会津戦争では右の内ももを銃弾が貫通する重傷を負ったものの、彼の指揮する砲兵隊は土佐藩とともに戦い、鶴ヶ城攻めを援護しています。この怪我のため、大山巌は1度鹿児島へ帰って療養に入ったのですが、鹿児島でも砲隊塾を開きながら大砲の研究に取り組んでいます。ヨーロッパの大砲を改良して通称「弥助砲」と呼ばれる大砲なども考案しました。

功績2「日清戦争で第2軍司令塔として勝利に導いた」

日清戦争旅順口砲台乗取之図

1894年の日清戦争では、第2軍司令官として従軍しました。「第2軍」というのは、相手の清国が主力軍を使って参戦してきたときに第1軍と合流して戦うために組織された軍です。

第2軍は主力軍と戦うことはなかったのですが、金州・旅順を1日で攻略するなど目覚ましい成果を上げました。この日清戦争で日本は勝利を収め、大山巌は終戦から数か月後にそれまでの陸軍大臣に加え貴族院議員、侯爵などの地位を与えられています。

功績3「総司令官として日露戦争で勝利を収めた」

旅順水師営で降伏したステッセル将軍

1904年の日露戦争で大山巌は満州軍総司令官として陸軍のすべてを統括、指揮して大国ロシアとの戦いに臨みました。

彼は命令を下すことはしませんでした。作戦の計画は信頼する総参謀長・児玉源太郎に一任し、彼は起こったことのすべての責任をとるというスタンスで参戦しました。それが大山巌のリーダーとしての在り方だったのです。

日露戦争でも日本は勝利を収めました。海軍では同じ薩摩藩出身の東郷平八郎が活躍し、大山巌と合わせて「陸の大山、海の東郷」と呼ばれました。

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