大山巌にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「大山巌の銅像だけが撤去を免れる」
太平洋戦争時代の日本は資源が枯渇していたので、多くの銅像を潰して資源としていました。また潰されずに資源から逃れた銅像もGHQが日本を占領したとき「軍人の銅像は軍国主義の象徴である」との理由から潰されてしまいます。
しかし大山巌の銅像だけは潰されずに残りました。GHQの最高司令官であるダグラス・マッカーサーが彼を尊敬していたことが理由だそうです。こうして大山巌の銅像は残り、その後有志によって再建されることになります。
都市伝説・武勇伝2「君が代の制定に関わっていた」
さまざまなスポーツの試合や催しで歌われている国歌「君が代」。実はこの歌の制定に大山巌が関わっていたとされる説が残っています。
明治時代初期の日本には、国歌と呼べる歌がありませんでした。そのことを知ったイギリス軍楽隊の隊長は「近代国家において国歌がないのはよくない。私が作ってあげよう」と明治政府へ進言します。このことを知った大山巌は薩摩琵琶歌の「蓬莱山」の中にある歌詞を明治政府へ提案したのです。
この大山案が君が代の原型となり、現在の君が代になったとされています。
大山巌の生涯歴史年表
大山巌の早見年表
大山巌は天保13年(1842年)に薩摩藩の下士大山家で生まれます。三人兄弟の次男として生まれます。
薩摩藩は長州藩と同盟して幕府を討伐する作戦を開始。薩長連合軍と幕府軍は鳥羽伏見でぶつかり合うことになります。この時、大山巌は砲隊長として戦に参加して活躍します。大山巌は鳥羽伏見の戦い以降に続く戊辰戦争でも功績を残していきます。
薩摩藩は長州藩と同盟して幕府を討伐する作戦を開始。薩長連合軍と幕府軍は鳥羽伏見でぶつかり合うことになります。この時、大山巌は砲隊長として戦に参加して活躍。大山巌は鳥羽伏見の戦い以降に続く戊辰戦争にも従軍し、活躍します。
大山巌は自分を幼少期から育ててくれた西郷隆盛が鹿児島の地で反乱を起こしたため、彼を討伐するため、出陣します。
1894年清国と日本との間で戦争が勃発。この時大山巌は第2軍を率いて出陣して旅順等を一日で攻略する手柄を立てます。
当時世界最強の国家として恐れられていたロシア帝国と日本は1904年に戦争状態に陥ります。大山巌は総司令官として朝鮮半島へ出陣してロシア陸軍に勝利します。同じ時期に活躍した連合艦隊総司令官東郷平八郎と共に讃えられることになります。
大山巌は胆嚢炎が原因で1916年自宅で亡くなります。享年75歳でした。
大山巌の具体年表
1842年 – 0歳「薩摩で生を受ける」
1842年薩摩で誕生
大山巌は天保13年10月10日に薩摩藩の下士・大山家に誕生しました。3兄弟の次男として誕生し、家族構成は次のとおりです。
- 父:大山 綱昌
- 母:競子
- 長男:(書籍に記載なし)
- 次男:大山巌
- 三男:大山誠之助
幼少期の大山巌は腕っぷしの強いワンパク小僧として知られ、戦ごっこや示現流の剣術などに明け暮れてあまり学問に力を入れませんでした。しかし成長していくにつれて学問にも興味を示していくようになります。
大山巌に学問を教えたのは、維新三傑の1人として知られる西郷隆盛です。また西郷隆盛から当時の日本が置かれていた状況や幕府に関する考え方などを聞き、時勢に関する考え方も育っていきます。
ちなみに、明治日本の陸軍を改造して近代の軍隊へ進化させたクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルも同じ年に誕生しています。大山巌が誕生した時期は明治日本の礎に大きく関与した人物が生まれた時期といえるかもしれません。
1862年 – 20 歳「倒幕運動に加わる」
倒幕運動に参加
大山巌は恩師であるいとこ・西郷隆盛が幕府を倒すためにクーデターを企てていたことを知り、倒幕運動に参加します。大山巌は薩摩藩の藩士と一緒に京都にある寺田屋で幕府を倒すための計画を練っていました。
しかし薩摩藩主・島津久光が差し向けた使者の説得を受けて、寺田屋を後にして自宅謹慎することになります。大山巌の自宅謹慎が解かれたころ、薩摩藩とイギリス艦隊との間で戦いが勃発。彼は後に「薩英戦争」と呼ばれる戦いに参加しました。
大山巌は大砲でイギリス艦隊に立ち向かいますが、大砲が艦隊に届かないことにショックを受けてしまいます。このとき受けたショックは、彼の人生に大きな転機を与えることになりました。
江戸で砲術を学ぶ
大山巌は薩英戦争が終結した後、江戸の江川太郎左衛門が開いている蘭学を中心とした兵学の塾へ通います。この塾で大山巌は兵学だけでなく弾道術や小銃などの砲術をしっかりと学び、薩摩藩随一の砲術の専門家としてその名を知られていくことになります。
そのおかげで大山巌は西郷隆盛から信頼されるようになりました。小銃などの兵器購入や西郷隆盛から密命を受けた任務などを命じられることになり、西郷隆盛の片腕として頭角を現していきます。他藩の志士からもその名を知られていくことになりました。
1868年 – 26歳「鳥羽伏見の戦いに参加」
砲術の専門家としての冴えを見せた鳥羽伏見の戦い
薩摩藩と長州藩は同盟を結び、幕府討伐作戦が開始されることになります。大山巌も薩摩藩の二番隊隊長に任命されて出陣していきます。
当初、大山巌は伏見に駐屯している幕府軍の基地・伏見奉行所を襲撃して勝利しますが、すぐに鳥羽方面へと転戦を命じられます。鳥羽方面での戦いでは幕府軍が優勢であり、大山巌も左耳を負傷する苦戦を強いられますが、幕府軍を撃退することに成功します。
この戦いで大山巌は砲兵隊に弱点があることに気づき、砲兵隊を援護する部隊を設立します。砲兵隊を援護する部隊は当時の先進諸国では常識として確立された考え方でしたが、日本ではまだ浸透していませんでした。
大山巌がこの砲兵を援護する部隊について、どこで学んだのかは分かりません。けれども大山巌が新しい考え方をためらうことなく兵学に用いることができたのは事実です。
戊辰戦争で各地を転戦
江戸幕府は鳥羽伏見の戦いの後、江戸城を開城し将軍・徳川慶喜が降伏します。けれども、各地に割拠する旧幕府軍は薩長に降伏することなく戦いを継続しました。大山巌は旧幕府軍を討伐するため、各地を転戦することになります。
大山巌は宇都宮城攻略戦で大鳥圭介率いる旧幕府軍を撃破した後、会津藩を討伐するために進軍を開始します。大山巌は会津藩の藩主・松平容保が籠っている会津若松城を攻略するため、自慢の砲兵隊を率いて大手門を攻撃しますが、左腿に銃弾を受けて倒れ、鹿児島で療養することになります。
1877年‐35 歳「西郷隆盛の反乱『西南戦争』鎮圧戦に参加」
尊敬していた西郷隆盛を倒す
大山巌は明治政府が誕生した後、フランスなどの西欧諸国へ渡って大砲などの勉学に励みます。しかし、明治政府から緊急帰国要請が入ったためやむなく帰国することになりました。
彼が帰国することになったのは、西郷隆盛らが官職を辞職してしまったためでした。明治政府は西郷からの信頼が厚い大山に、西郷を説得させて官職に復帰させようと目論んだのです。
大山巌は西郷隆盛と会見し、彼を説得するため言葉を尽くしました。けれども説得は失敗、その後西郷隆盛は明治政府に対して反乱を起こします。
大山巌は政府軍の司令官として反乱を起こした西郷軍と戦い、西郷隆盛が立てこもった城山に対して攻撃を行い西郷隆盛を倒して反乱を鎮圧します。この城山の戦いのとき、大山巌は西郷隆盛が亡くなったことが悲しくて馬上で涙を流していたそうです。
大山巌はこの戦いで西郷隆盛を倒してしまったことを亡くなるまで気にして、この戦い以降故郷である鹿児島へ帰ることをしなくなったそうです。故郷と縁を切るほど大山巌にとって西郷隆盛は大事な存在で、深く尊敬していたため心に深い傷を負ってしまったと考えられます。
1883年 -41 歳「捨松と結婚」
捨松との結婚
大山巌はヨーロッパ各地へ留学した後、帰国してからは政府要職へ就くことになり、忙しい毎日を送っていました。そんななか、愛する妻・沢子が亡くなってしまいます。彼は奥さんが亡くなったことを知って大いに気落ちしていました。
落ち込んでいた大山巌ですが、あるパーティに出席したとき、きれいな女性に一目惚れします。その女性は名前を捨松といい、大山巌は彼女を大変気に入って人脈をフルに使って捨松の実家へ縁談の申し込みをします。
捨松の実家では最初、縁談を断っていたのですが、いとこで軍人政治家の西郷従道が説得にあたると断り切れなくなり「本人が了承すれば縁談を進める」と返答してきます。捨松は大山巌の事をよく知らないため、彼にデートを申し込みます。
大山巌は捨松の提案にOKを出しますが、薩摩弁で話す大山巌の言葉の意味がさっぱり分からず、捨松も困ってしまいます。そこで捨松は英語で彼とコミュニケーションを図るとスムーズに進み、以降何回かのデートを重ねてゴールイン。
武士の考え方が色濃く残る明治時代において、デートを重ねてから結婚するのは珍しいことです。
1894年 – 52歳「日清戦争へ従軍」
司令官として日清戦争へ
大山巌は1894年、日本と清国が開戦すると日本軍の第2軍司令官として出陣します。この第2軍は清国が主力軍を率いて参戦したときに第1軍と合流して決戦する、日本軍の切り札的な存在の部隊でした。
そのため大山巌率いる第2軍は主力の戦いに参加しませんでしたが、旅順や金州などの副次的な軍事拠点を1日で攻略する功績を残しています。
この功績によって、大山巌は日清戦争が終わって数か月後に陸軍大臣の要職に加えて、貴族院議員、侯爵の位を与えられています。彼が脇役であってもしっかりと功績を残して、高い評価を与えられていたのがうかがえますね。
1904年 – 62歳「満州軍総司令官として日露戦争を戦い抜く」
総司令官として勝利へ導く
大山巌は62歳のとき、日本との兵力差約16倍、歳入額で約10倍、人口においても約3倍以上の超巨大国家ロシアと戦うことになります。
日露戦争の原因は色々ありますが、ざっくり説明するとロシアは朝鮮半島を入手して南下する国土拡張政策を考えていました。日本は自国の領土に近い朝鮮半島を防衛するため、上記で紹介した国力差を省みずに戦いを挑みます。
大山巌は満州軍総司令官として陸軍全軍を指揮して、大国ロシアとの戦いに参加しました。このとき彼はほとんど全軍の指揮に関して命令を下すことなく、総参謀長で信頼する児玉源太郎の作戦の計画を一任し、全ての責任を自分がとるスタンスで望みます。
けれども、大山巌は言うべきときはしっかりと発言して全軍の気を引き締めていました。例えば大山巌が奉天会戦直前に司令官クラスの人物を集めて「来るべき会戦は日露戦争の関ヶ原である。ここに全戦役の戦勝を期す」と激励しています。
最終決戦である奉天会戦ではロシア軍を破って勝利を飾ることに成功しました。また日本海軍がバルチック艦隊を壊滅させる大勝利を得たことがきっかけで、日露戦争は日本の勝利で終結します。
批評を禁じる
満州軍総司令官として日露戦争で勝利を飾った大山巌。しかし彼は大きな失敗をしてしまいます。それは日露戦争における反省を禁じてしまったことです。
そのため、日露戦争において失敗した出来事などについての経験を反省しませんでした。そしてこの日露戦争における反省を禁じてしまった為、日本陸軍は陸軍が解体されるまで反省することはありませんでした。
1916年 – 76歳「名将死す」
胆のう炎で亡くなる
大山巌は日露戦争における活躍によって、明治政府の重鎮として元老職で活躍します。しかし1916年胃病からが発病し胆嚢炎を併発した事によって亡くなりました。享年76歳でした。
幕末から明治、大正と生き抜いた大山巌。彼は多くの人々から慕われていました。大山巌が亡くなったとき、山縣有朋や日露戦争で共に戦った黒木為楨など明治政府の重鎮と言われる人々が押し寄せてきたそうです。
更に大山巌は日露戦争で戦った敵国であるロシアの人々からも慕われ、彼のお葬式にはロシア陸軍の代表が冥福を祈りに来ています。
明治日本を支えた大山巌は、幕末から明治に起きたほとんどの戦役に参加した名将でありながら、ご紹介したように多くの人々に慕われた人でもありました。
大山巌の関連作品
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西郷家の人びと
この本は大山巌に関する情報が載っているだけでなく、大山巌の従兄弟である西郷隆盛や彼の家族についても色々と知ることが出来る本です。大山巌や西郷隆盛、西郷隆盛の家族についてしっかりと理解したい方向けの一冊です。
大日本帝国軍人の言葉―かつて日本を導いた男たちに学ぶ
大山巌が日露戦争に述べた名言が乗せられている書籍です。大山巌がどうして名言を述べたのかその背景についても簡潔に述べられており、文章が得意でない方でも簡単に読める一冊になっています。また大山巌の名言だけでなく、日本陸軍の将官たちの名言が記載されていますので、気になる方はぜひ読んでみてください。
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おすすめドラマ
坂の上の雲
明治日本を知る上で一番有名な小説司馬遼太郎の「坂の上の雲の」ドラマ版となります。この作品には日露戦争で活躍した大山巌や児玉源太郎などの軍人たちが登場。キャスティングも素晴らしく絵師や絵本作家でも活躍している米倉斉加年さんが大山巌を演出しています。他にも主人公である秋山真之を本木雅弘。秋山好古を阿部寛が出演しており、見ごたえばっちりなドラマに仕上がっています。
関連外部リンク
大山巌についてのまとめ
大山巌の人生を、年表とともにご紹介してきました。筆者は大山巌を『坂の上の雲』で知ったのですが、彼に関する書籍を読んで人柄などを調べ上げていくと色々と情報が錯綜し、いざ記事を書こうとするとどの情報が正しいのかの取捨選択に悩みっぱなしでした。
しかし1つ言えることは、大山巌は幕末から明治、大正で起こった戦のほとんどに参加した名将であることは間違いないでしょう。この記事がきっかけとなって大山巌について興味をもってくれれば幸いです。