知らないと恥ずかしい現代アーティストTOP90

【年表付】エーリッヒ・ケストナーの生涯を徹底解説!代表作品や名言まとめ

エーリッヒ・ケストナーは、ドイツ生まれの作家です。主に児童文学や詩集を発表しています。

大学卒業後は詩人として活動していたケストナーでしたが、1928年に『エーミールと探偵たち』を発表し、児童文学作家としての地位を確立します。その後は次々と子供のための小説を発表していき、やがてその名を世界に知らしめていきます。

エーリッヒ・ケストナー

ケストナーが作家として活動をしていた当初、ドイツはナチスの支配下にありました。ケストナーはナチスによって執筆活動を禁じられ、更には自身の著作を焚書されるという経験をします。

それでもケストナーは亡命をせず、時代の目撃者としてドイツに留まり続けました。ナチスがドイツ政権を握っていた12年もの間、何度となく命の危機に晒される場面があったことでしょう。

1945年にナチス政権が失脚し、ケストナーは積極的に作家としての活動を再開します。1949年に発表した児童文学『ふたりのロッテ』は大ベストセラーとなり、映画、アニメ、ミュージカルになっています。

ケストナーの作品にはユーモアと軽妙なシニカルさがたっぷりと詰まっています。ケストナーの生涯を振り返ってみると、彼の人生そのものにユーモアや皮肉、そして知恵と勇気が詰まっていることが分かります。

大学時代にドイツ文学を専攻し、ケストナー作品の研究をした私がケストナーの魅力をお伝えします。

ケストナーとはどんな人物か

名前エーリッヒ・ケストナー
誕生日1899年2月23日
生地ドイツ帝国、ドレスデン
没日1974年7月29日
没地西ドイツ、ミュンヘン
配偶者ルイーゼロッテ・エンダーレ(内縁)
埋葬場所西ドイツ、ミュンヘン、ボーゲンハウゼン墓地

ケストナーの幼少期

現在のドレスデン

ケストナーはドイツ帝国のドレスデンに生まれました。父親は工業に従事し、母親は理容師の仕事をしていました。兄弟はおらず、一人っ子だったそうです。母親と父親は不仲で、ケストナーは二人の間で板挟みにされていたといいます。

ケストナーの家庭は決して裕福とは言えませんでした。父親の少ない賃金を補うために母親のイーダは理容師の技術を身につけ、ケストナーの教育費を稼いでいたという話があります。

7歳の頃、ケストナーは教師に憧れを抱き、自身も教師を志すようになります。13歳の頃に教員の養成学校に入学するものの、自分には教師の仕事は合っていないと感じ、教師になるのを諦めます。

ケストナーの作家デビュー

岩波少年文庫『エーミールと探偵たち』

ケストナーは大学に進学後、学業の傍らで詩を発表し続けました。そして大学を卒業した後、ベルリンで詩人として認められ、1928年に『腰の上の心臓』という詩集を初めて出版します。第一詩集は15,000部を超えるベストセラーとなりました。

これまで詩を中心に発表を続けていたケストナーでしたが、出版関係者の勧めで子供のための物語を書くようになります。1929年に発表した児童文学『エーミールと探偵たち』は大ヒットとなり、ドイツに住む多くの子供たちに親しまれました。

『エーミールと探偵たち』の発表後は、詩人としてだけでなく、児童文学作家として広く知られるようになりました。

ケストナーの代表作品一覧は?

  • 1929年:エーミールと探偵たち
  • 1931年:点子ちゃんとアントン
  • 1933年:飛ぶ教室
  • 1934年:雪の中の三人男
  • 1935年:エーミールと三人のふたご
  • 1949年:ふたりのロッテ
  • 1949年:動物会議
  • 1957年:わたしが子どもだったころ

ケストナーの名言は?

賢さを伴わない勇気は野蛮であり、勇気を伴わぬ賢さなどなんの役にも立たない。

実行しなければ善は存在しない。

理想を持つ者は、それに到達しないように気をつけるがよい。さもないと、いつか彼は自分に似る代わりに他人に似るだろう。

言うことを持っている者は、急がない。時間をかけて一行で言う。

人生を愛せよ、死を思え、時が来たら、誇りをもって、わきへどけ。

ケストナーにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「自身の著書が燃やされる焚書に立ち会った」

25,000冊もの本が燃やされた

1933年5月10日、ドイツの各地で25,000冊にも上る「非ドイツ的な」書物が燃やされました。その中にはケストナーが発表した著作もありました。

ケストナーは、自身の著作が焚書にされる現場に立ち会ったそうです。自らの著作が燃やされる現場を見に行くという豪胆な行動を起こした作家は、ケストナーだけだったといいます。

ケストナーの児童文学作品は子供たちに配慮して焚書の対象にはならなかったため、主に大人向けの詩集や脚本などが焚書の憂き目にあいました。自身の本が燃やされる瞬間を、ケストナーはどのような気持ちで見つめていたのでしょうか。

都市伝説・武勇伝2「内縁の妻と愛人との二重生活?」

ケストナーとルイーゼロッテ・エンダーレ

ケストナーは生涯結婚することはありませんでしたが、ルイーゼロッテ・エンダーレという女性が生涯にわたってケストナーを支え続けました。彼女はケストナーの内縁の妻だったそうです。

ロッテとの関係を続けながら、ケストナーは50歳の頃に27歳も年下の愛人を作ります。ロッテには内密に交際を続け、58歳の頃に愛人との間に息子のトーマスをもうけました。しかし、トーマスを正式に息子として認知したのは、トーマスが生まれてから6年ほど経った後だったそうです。

ロッテはそれでもケストナーを支え続け、ケストナーが食道癌で息を引き取るのを看取りました。

ケストナーの早見年表

1899年
ドイツ帝国で生まれる
ケストナーは1899年2月23日に、ドイツ帝国のドレスデンで生まれました。父親は工業労働者で、母親は理容師の仕事をしていました。
1912年
教育養成所の予備クラスに合格
教師を志していたケストナーは、教育養成所の予備クラスにトップの成績で合格します。
1917年
兵士として召集される
18歳になったケストナーは、第一次世界大戦に兵士として召集されます。しかし訓練中に心臓を患い、除隊となります。
1919年
大学に進学する
勉強の楽しさを知ったケストナーは、ライプツィヒ大学で文学、演劇史、哲学などを専攻します。この頃から本格的に詩を書き始めました。
1928年
第一詩集を出版する
大学卒業後、ベルリンで活動を始めたケストナーは世間に詩人として認知され始めます。そして1928年に処女作『腰の上の心臓』という第一詩集を出版しました。
1929年
児童文学を出版する
初の子供向け作品『エーミールと探偵たち』を出版します。
1933年
焚書の現場に立ち会う
1933年5月10日、ドイツ各地で焚書が起きます。ケストナーは自身の書物が燃やされた現場に立ち会いました。
1974年
75歳で死去
内縁の妻であるロッテに看取られながら、ケストナーは食道癌で息を引き取ります。享年75歳でした。

ケストナーの具体年表

1899年 – 0歳「ドイツ帝国で生まれる」

ケストナー生誕の碑

ドレスデンで生を受ける

ケストナーは、父エミール・ケストナーと母イーダの間に生まれました。本当の父親はユダヤ人の医者エミール・ツィンマーマンだと言われていますが、ケストナーの口から真相は語られていません。

父親は工業労働者で収入が少なかったため、母親は理容師の資格を取り自宅で理容室を開業します。両親は仲が悪く、また兄弟もいなかったため、ケストナーは二人の間で板挟みにされていました。

1906年 – 7歳「教師を志す」

幼少期に志したのは教師

下宿人の教師に憧れを抱く

ケストナーの家庭は貧しかったため、下宿人を置くようになります。下宿人の大半は教師でした。ケストナーは下宿人の先生に憧れを抱き、自身も教師を志すようになります。

1912年 – 13歳「教員養成所の予備クラスに合格」

教師の在り方に懐疑的だったケストナー

教師の在り方に疑問を抱く

教員養成所の予備クラスにトップの成績で合格したケストナーは、在学中もトップの成績をおさめ続けます。しかし、彼は規律の厳しい学校の制度を嫌っていました。

ある日、母が病気になり、見舞いをするためにケストナーは全寮制の学校を抜け出します。校則を破ったことでケストナーは処罰を受けました。このことから、教師の在り方に疑問を抱くようになります。

1917年 – 18歳「徴兵される」

第一次世界大戦

第一次世界大戦の兵士として召集を受ける

戦争が始まったことでケストナーの学校は教員不足に陥ります。そこでケストナーは実習生として教壇に立つのですが、自分が教師に向いていないということを自覚します。

やがてケストナーにも召集令状が来ます。軍隊に入隊したケストナーは訓練で心臓を痛め、除隊されます。その後ドイツは敗戦しました。

1919年 – 20歳「大学に進学する」

現在のライプツィヒ大学

勉強の楽しさを知る

ケストナーは教員養成所からギムナジウムに転校します。ギムナジウムの自由な校風を気に入ったケストナーは、以前よりも勉学に励みました。更に勉強をしたいと思ったケストナーは大学に進学することを決めます。

大学で学業の傍ら詩を作る

ライプツィヒ大学へ進学したケストナーは、ドイツ文学・哲学・演劇史などを専攻します。この頃から本格的に詩を書き始め、「ライプツィヒ学生詩集」に3作品を掲載しました。

1928年 – 29歳「初めての詩集を出版する」

『腰の上の心臓』原書

第一詩集の出版

大学卒業後も詩を中心に文学作品を発表し続けたケストナーは、ベルリンで詩人として認められます。初めての詩集『腰の上の心臓』を出版し、15,000部を超えるベストセラーになりました。

1929年 – 30歳「初めての児童文学を出版する」

『エーミールと探偵たち』原書

『エーミールと探偵たち』がベストセラーに

ケストナーは、出版社の人に子供向けの本を書くことを勧められ『エーミールと探偵たち』を書き上げます。初めての児童文学は子供たちからの人気を集め、更に大人たちからも絶賛されました。

1933年 – 34歳「ドイツ各地で焚書」

ナチス・ドイツの焚書

焚書の現場を見に行く

ナチスが政権を握ると「非ドイツ的な」思想は弾圧され、多くの本が燃やされることになりました。子供たちに配慮して児童文学は焚書の対象外になりましたが、ケストナーが発表した児童文学以外の書物は全て焚書の対象でした。

焚書はドイツの各地で行われ、ケストナーの本はベルリンのオペラ広場で燃やされました。ケストナーは焚書の現場に立ち合い、自身の本が燃やされる瞬間を見ていました。亡命を勧められたケストナーですが、時代の目撃者としてドイツに留まることを選択します。

1945年 – 46歳「空襲を受ける」

オーストリア・マイヤーホーフェン

ドレスデンの空襲、ドイツの敗北

第二次世界大戦の最中、ケストナーの故郷であるドレスデンが空襲で破壊されます。ベルリンにソ連軍が迫り、ケストナー危機的な状況に陥っていました。友人の助けでベルリンを脱出したケストナーはマイヤーホーフェンに行くことに成功します。そして5月、ドイツの敗北で戦争は終結しました。

1949年 – 50歳「子供のための本を書く」

岩波少年文庫『ふたりのロッテ』

児童文学が世界的なベストセラーに

敗戦と共にナチス政権は失脚し、ケストナーは執筆活動を再開します。1949年に発表した子供向けの作品『動物会議』『ふたりのロッテ』はたちまち人気を集め、世界的なベストセラーになります。その後もケストナーは詩や児童文学の発表を続けました。

1974年 – 75歳「ケストナー75歳で逝去」

ケストナーの墓

食道癌で息を引き取る

1974年7月29日、食堂癌のためミュンヘンの病院に入院していたケストナーは、ルイーゼロッテに看取られながら息を引き取ります。享年75歳でした。ケストナーの遺体はボーゲンハウゼン墓地に埋葬されました。

ケストナーの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

飛ぶ教室

寄宿学校で毎日を過ごす5人の少年たちが、勇気と知恵で様々な問題を解決していく物語です。主人公である5人の少年たちと、少年たちに知恵を授ける大人たちのやり取りが素敵です。

エーミールと探偵たち

ベルリンの街を舞台に、主人公エーミールを始めとする子供たちが泥棒を捕まえる物語です。子供が愚かな大人をこらしめるという痛快なストーリー展開で、読みやすい児童文学です。大人にもおすすめです。

人生処方詩集

児童文学で有名なケストナーの、大人に向けた作品です。ケストナーならではのユーモアたっぷりの詩が詰まっています。人生でつまずいてしまったときに開きたくなる一冊です。

おすすめ映画

映画「エーミールと探偵たち」予告編RE2

こちらの予告動画はドイツ語ですが、ベルリンの街並みや原作の雰囲気を楽しめます。映画の内容は、原作の通りにエーミールと街の少年たちが泥棒を追い詰めていく様子が面白く描かれています。

関連外部リンク

ケストナーについてのまとめ

エーリッヒ・ケストナーの生涯と作品について紹介をさせてもらいました。

ケストナーの児童文学作品は、子供だけでなく大人も楽しめる内容になっています。ドイツ文学は暗い内容の作品が多いですが、ケストナーの描く物語にはユーモアがたっぷり詰まっていて読んでいて楽しいです。

この記事をきっかけに、ケストナーの作品を読んでもらえたら幸いです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。