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ヘンデルの生涯・年表【音楽性や名言、代表曲についても解説】

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは、神聖ローマ帝国のハレ(現在のドイツ)で生まれ、グレートブリテン王国(現在のイギリス)に渡って活躍しました。バロック音楽を代表する作曲家の一人であり、特にオペラやオラトリオを精力的に作曲しました。

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル

ヘンデルは当時はヨーロッパで一番有名な作曲家でしたが、現在はヘンデル作のオペラを上演することは難しいとされています。作中のアリアなどが演奏会で歌われることはあっても、オペラそのものの上演の機会は、実はそう多くないのです。

どうして現在はヘンデルのオペラはなかなか上演できないのでしょうか?その理由にも触れながら、豪華絢爛でちょっぴり闇が深い?バロック時代のオペラのお話と一緒に、現役の声楽家である筆者が浅学ながらご説明します。

ヘンデルとはどんな人物か

名前ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
誕生日1685年2月23日
生地神聖ローマ帝国、ハレ・アン・デア・ザーレ
没日1759年4月14日(74歳没)
没地グレートブリテン王国、ロンドン
配偶者なし
埋葬場所イギリス ロンドン ウェストミンスター寺院
その他1727年にグレートブリテン王国に帰化

ヘンデルが活躍した時代・バロック時代の特徴とは?

ヘンデルが生きていた時代は音楽史でいうと「バロック時代(バロック音楽)」と分類されます。西洋史でいえば王侯貴族に権力が集中した「絶対王政」の全盛期とほぼ同じです。

ルネサンス時代までは、教会と宮廷で権力がほぼ拮抗していましたが、バロック時代になると宮廷の力の方が強くなっていきます。美術や音楽もその流れに従って、世俗の権力者である王侯貴族の好みに寄せた作品の需要が増えていきます。

バロック時代にはオペラが流行

特に音楽では、エンターテインメント作品であるオペラが流行し、目覚ましい発展を遂げていくのが一つの特徴です。また様々な楽器も改良され、器楽曲もこの時代に大きな発展を遂げました。

因みに「バロック」というのは当時の人々が自称していた言葉ではなく、後の18世紀の人々がこの時代の装飾過剰な一面を指して言った意地悪な言葉でした。「バロック」は「いびつな真珠」という意味をもつポルトガル語で、この時代の一種の奇怪さ、派手さを指した悪口なのです。フランス革命直後はこのように旧時代の王侯貴族的な趣味は敬遠されましたが、19世紀以降になるとバロック時代の美意識は、16-17世紀特有のエネルギッシュな美として再び評価されるようになりました。

カストラートのその後とヘンデルのオペラの現在は?

多くのオペラ曲が製作された

その後はカストラートの登用を重視しないグルックやモーツァルトなどの作曲家が登場し、歌手の技量や人気のみに頼らない総合芸術的なオペラ作品が生みだされました。カストラートは華やかな劇場から徐々に姿を消し、再び教会でその美しい声を響かせることになりました。

1903年にカストラートのための手術が法律で禁止され、最後のカストラート歌手も亡くなっています。そのため現在ヘンデルの時代のオペラを上演する際はカストラートの役をメゾ・ソプラノ歌手が男装で演じたり、カウンターテナーやソプラニスタなど、声質が違う高音の男性歌手が担当したりと、形を変えて上演せざるを得ません。バロック時代のオペラはその固有の美が再評価されており復興されつつありますが、このような事情によって再現が難しい一面があります。

しかし、ヘンデルのオペラの上演が難しくなった今でも、そのオペラ劇中のアリアは時代を超えて愛されています。「木陰の下で(ヘンデルのラルゴ)」や「私を泣かせてください」などの美しい小曲は、老若男女問わず演奏会などでよく歌われているだけではなく、様々なジャンルの歌手やアーティストによってアレンジされ、親しまれています。

オラトリオ作曲家としてのヘンデルは?

オラトリオ作曲家として活躍

ヘンデルは現在のドイツで生まれましたが、イタリアで音楽留学後、音楽の消費国であったイギリスに渡ってそのままイギリスに帰化します。そのためヘンデルは英語のオラトリオもいくつか作曲しました。「ハレルヤ・コーラス」で有名な「メサイア」も英語で書かれていますね。

オラトリオというのは元々聖書の内容などを表現するための音楽劇をいいます。オペラとの違いは、歌手が舞台上で演技をしたり動き回ったりすることはなく、朗読のように物語を語る歌を歌います。衣装や小道具・大道具などの装置もありません。また作品の題材も宗教的(キリスト教的)な内容に限定されます。

ヘンデルはそのオラトリオの幕間に、自らが演奏するためのオルガン協奏曲も作曲しました。ヘンデルのオルガン演奏は本編のオラトリオよりも人気があったようです。現在でもヘンデルのオラトリオは各地で演奏されています。

ヘンデルの名言は?

Learn all there is to learn, and then choose your own path.
約:学ぶべきことの全てを学び、それからあなた自身の道を選ぶのです。

夜の昼を継ぐ如く、悲しみ我が喜びに継ぐ

(オラトリオ「イェフタ」の譜面の最後に書かれた言葉)

ヘンデルの代表曲・代表作品

  • 歌劇「アグリッピナ」(1709年)
  • 水上の音楽(1710年)
  • 歌劇「リナルド」(1711年)(「愛しい妻よ」「私を泣かせてください」などのアリアが有名)
  • ハープシコード組曲集ホ長調 HWV 430 (1720年)(「愉快な鍛冶屋」の呼称で有名)
  • ハープシコード組曲集ト短調 HWV 432(1720年)(パッサカリアが有名)
  • 歌劇「エジプトのジュリアス・シーザー」(1734年)
  • 歌劇「セルセ(クセルクセス)」(冒頭のアリア「木陰に寄せて(オン・ブラ・マイ・フ」が有名)(1738年)
  • オラトリオ「エジプトのイスラエル人」(1739年)
  • オラトリオ「メサイア」(1742年)(「ハレルヤ・コーラス」が有名1739年)
  • オラトリオ「ヨシュア」(1748年) (合唱曲「見よ、勇者は帰る」の旋律が有名)

ヘンデルの音楽の特徴

ヘンデルのオペラの特徴1:オペラ・セリア

ヘンデル

ヘンデルはオペラ作品を多く残しました。晩年は歌手や劇場とのトラブルや、流行が廃れたことなどからオペラ制作の情熱を失ってオラトリオ作曲家へと転向しますが、それでもオペラ無しではヘンデルの音楽は説明不可能でしょう。

ヘンデルは「オペラ・セリア」(正歌劇)という形式のオペラを制作しました。「セリア」というのは英語に訳するとシリアスという意味で、つまりはまじめな、真剣な内容のオペラという意味になります。

オペラ・セリアの特徴をまとめると、

  • 神話上・歴史上の英雄や皇帝を題材にした勧善懲悪のストーリーである
  • 上演する国にかかわらず、イタリア語で歌われる
  • カストラートという男性歌手が主人公の英雄役をつとめる


というようなものになります。

カストラートというのは去勢手術を施した高音の男性歌手のことをいい、オペラ・セリアには欠かせない存在でした。男性歌手らしいスタミナと、女性歌手にも劣らない繊細な声色を兼ね備え、更には変幻自在の音域を持ち、歌手としては完全無欠の存在とされていました。人気のあるカストラートは当時のアイドル的な存在で、彼らに派手な技巧のアリアを歌わせれば観客が喜び、オペラは大ヒットしました。

ヘンデルのオペラの特徴2:カストラートとは?

ヘンデルのオペラでは欠かせないカストラートについて、もう少し詳しく説明します。発祥については諸説ありますが、事故で睾丸を除去せざるを得なくなった歌手が美しい声を維持していたためその後人為的に去勢された歌手を登用することになった、という説が有力です。

変声期前のボーイソプラノの少年に手術を施したカストラートは、はじめ教会の歌手として活躍しましたが、時代の変化と共に教会から世俗の劇場へと活躍の場を変えていきました。カストラートとして成功した歌手は富と名声が手に入ったため、貧しい庶民の家がこぞって我が子をカストラートにする、ということもあったようです。

バロック時代のオペラ

ところが当時の不衛生で危険な外科手術では亡くなる少年も多く、手術に耐えることが出来たとしても今度は親元を離れて音楽院(当時は孤児院のような要素の方が強かった)で厳しい教育に堪えなければいけませんでした。ただ美しい声のためと大人の私利私欲のために、子ども時代に人生を決められてしまうカストラートの存在は、まさしくバロック音楽の光と影といえるでしょう。

そしてカストラートの流行はそこまで長いものではありませんでした。彼らの美声と高音がもてはやされるあまり、人気歌手による「のど自慢」のためのつまらないオペラが量産され、「オペラ・セリア」は観客に飽きられてしまうのでした。更には歌手同士のポジション争いや劇場とのトラブルなども頻発して、ヘンデルもオペラへの情熱を失っていきます。

ヘンデルにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「富と成功の代償?ヘンデルは肥満だった?」

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル

たっぷりとした二重あごのヘンデルの肖像画は、皆さんもどこかで見たことがあるかと思います。ヘンデルはよく食べる上に美食好きで、お酒も沢山飲んだようです。若い頃から仕事は順調で、生涯独身でしたのでお金も好きなように使えたのでしょう。

若い頃のヘンデルの肖像画は端正な顔立ちの青年でしたが、30歳過ぎ頃から太りはじめ、35歳頃の肖像画はすっかり中年太りをしています。これらの肖像画が現すように、ヘンデルは肥満だったと伝わっています。

肥満のせいもあり病気に苦しめられた

晩年にはオペラの人気低迷や借金、劇場とのトラブルなどのストレスが蓄積し、50歳過ぎ頃に脳卒中で倒れて半身不随になりました。その後オラトリオの成功でヘンデルの人気は復活しますが、健康面では血栓症などの影響による視力障害に悩まされます。

その後もヘンデルは高血圧症や狭心症などの肥満による健康障害に苦しめられましたが、満ち足りていた栄養分のおかげか当時蔓延していた感染症などとは無縁だったようで、74歳まで生きました。不思議なことに当時としては長生きだったようです。

都市伝説・武勇伝2「J.S.バッハとの関係①こんなにも正反対だった?」

「バロック音楽」と聞くと、日本ではJ.S.バッハを思い浮かべる人も多いでしょう。ヘンデルとJ.S.バッハは同い年で、2人とも1685年にドイツで生まれました。同じ国で生まれた同い年の2人ですが、性格や生涯は正反対だったようです。少し面白いので比べてみたいと思います。

 ヘンデルバッハ
性格・行動的、屈託がなく明るい、物怖じしない
・躁鬱が激しい一面があった
・厳格で敬虔、真面目
・物静かだが頑固で怒りっぽい一面もあった
家柄父親は公爵付きの外科医、一家に音楽家はいない代々続く辻音楽師の一族
作曲ジャンルオペラ、オラトリオ、オルガン曲などオペラ以外ほぼ全て
来歴・国際派。イタリア留学後、イギリス出張を繰り返し、イギリスに帰化。
・劇場で活躍し、聴衆のためにエンターテインメントのための作品を作曲した
・地元密着主義。生涯ドイツから出なかった
・教会や宮廷からの依頼のために大量の楽曲を作曲した
結婚・生涯独身
・晩年まで浮名を流し、女優などとスキャンダルをおこした
・二度結婚(最初の妻は死別・遺児のために再婚)
・愛妻家でどちらの妻とも夫婦仲は良かった。子だくさんであった
知名度当時世界的に一番有名な音楽家・作曲家息子が有名になったため、そこそこの知名度。地元では教会の偉い先生
ファン貴族から庶民まで幅広い聴衆に人気現代でも演奏家、作曲家にファンが多い

バッハは死後あらゆる作曲家たちに音楽的な天啓を与えたため、日本では「音楽の父」と呼ばれています。また、ヘンデルがバッハに匹敵する巨匠であることを示すためにヘンデルのことを「音楽の母」などと呼ぶこともありますが、これらの呼び方は日本独自の現象であり、実はあまり一般的ではありません。

都市伝説・武勇伝3「J.S.バッハとの関係②不運な共通点も?」

同じ女性に縁談を持ちかけられる

正反対だった2人ですが、降りかかった不運は共通しています。これもまた悲しくも興味深いのでご紹介したいと思います。

まずは若い頃のお話です。2人ともブクステフーデというオルガンの先生に師事し、彼から娘との結婚を持ち掛けられました。当時バッハとヘンデルが若干20歳過ぎくらいなのに対し、ブクステフーデの娘は30歳を超えていたといわれています。

当時68歳と高齢だったブクステフーデは娘のことが気がかりだったようで、娘との結婚の見返りに聖マリア教会のオルガニストという若い2人にとっては破格の地位を交換条件にしたようですが、バッハ、ヘンデルともに、この突然すぎる縁談にはさすがに驚いて逃げ出してしまったようです。

また、2人は性格は正反対でしたが体型はそっくりでした。ヘンデルも太っていましたが、バッハも超、が付くほどの大食漢(一食の摂取カロリーは約2800kcalほど)で、肥満体型だったという噂です。更には2人とも過労気味でストレス要因も多かったのか、高血圧・脳卒中という病歴が共通しているところも何とも言えません。

二人とも晩年は視力を失ってしまった

晩年のバッハは白内障(おそらく糖尿病による症状)に悩み、ジョン・テイラーというイギリス人の医師の手術を受けます。ヘンデルもバッハの手術と同じ年にこのテイラー医師の手術を受けたようですが結果は2人とも大失敗、この手術によって視力を完全に失ってしまいました。

ヘンデルとバッハは、対照的な個性を持ちながらも同じ苦労をしていたようです。更にこの2人は運命のいたずらによって生涯のうち一度も会うことはなく、お互いの音楽に影響を与え合うこともありませんでした。

ヘンデルの簡単年表

1685年
ヘンデル誕生
ヘンデルは神聖ローマ帝国のハレで生まれました。ヘンデルの父は代々の公爵に仕える従僕兼外科医で、息子には法律家になって欲しかったようです。しかしヘンデルは幼い頃より音楽の才能をあらわしており、父が仕えていたヴァイセンフェルス公爵の支援によって音楽教育を受けていました。
1702年
ハレ大学に入学
ヘンデルは父の望み通り法律の勉強をするために進学しますが、音楽への情熱は捨てきれず同時期にハレ大聖堂のオルガニストとしても活動をはじめます。この頃にテレマンという作曲家と知り合い、生涯を通じて親交を深めることになります。
1703年
リューベック、そしてハンブルクへ
ヘンデルは作曲家・オルガン演奏家のブクステフーデにオルガンを習いにリューベックに行き、一時はブクステフーデの後任を目指しますが、ブクステフーデが自らの地位と娘との結婚を交換条件にしたために辞退しました。また同年ヘンデルはハンブルクへに出て初めてのオペラ作品「アルミーラ」を作曲しました。
1706年
イタリア留学
ヘンデルは当時音楽の最先進国であったイタリアに留学しました。ローマではコレッリやドメニコ・スカルラッティなどバロック時代を代表する作曲家達と知り合い、共に切磋琢磨していたようです。
1709年
イタリアでオペラの成功
ヴェネツィアで上演されたオペラ「アグリッピナ」が成功し、20回を超えるロングラン上演を達成しました。イタリアオペラの中心地のひとつであったヴェネツィアで、外国人の作曲家がここまで受け入れられるのは異例だったようです。この成功でヘンデルは一躍ヨーロッパで有名になります。
1710年
ロンドンへ初めての出張
帰国したヘンデルはハノーファー選帝侯の宮廷楽長に命じられますが、ロンドンへの出張中に発表したオペラ「リナルド」がまたしても15回というロングラン上演を達成し大ヒットしました。しかし数年後にロンドンのイタリア・オペラの流行は一時下火になります。
1720年
アカデミー設立
王立音楽アカデミーというオペラの運営会社が貴族たちによって設立され、ヘンデルは中心人物の一人となりました。しかしアカデミーの経営が杜撰だった上に歌手同士のポジション争い、更にはイタリア・オペラの衰退とあって17年後にアカデミーは倒産します。
1737年
アカデミー倒産、病に倒れる
アカデミーが倒産し、同年ヘンデルも脳卒中で倒れてしまいました。1730年代になるとヘンデルのオペラも流行遅れのものとなり、以後ヘンデルがオペラを作曲することはありませんでした。
1741年
オラトリオ作曲家として復活・「メサイア」の大ヒット
オペラの作曲をやめた2年後あたりからヘンデルはオラトリオを精力的に作曲します。今日も「ハレルヤ・コーラス」で有名な「メサイア」がこの年に発表され好評を博しました。
1751年
両目を失明、作曲活動を断念
両目の視力を失ったことにより、ヘンデルがこの年以降に作曲することはありませんでした。しかしその後も演奏活動は続けていたようです。
1759年
ヘンデル没
ジョン・テイラーによる眼科手術に失敗し、73歳と高齢だったヘンデルの体力はその後急激に落ちました。そのまま1759年に74歳で死去、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。

ヘンデルの年表

1685年 – 0歳「ヘンデル誕生」

音楽家がいない家系に生まれる

ヘンデルの父親は公爵に仕えており(従僕兼外科医)、また祖父は細工職人で、音楽に関係する仕事をしている人が一人としていない家系でした。当時音楽家が育つ環境としては珍しいものでしたが、他にヘンデルのような家庭に生まれた有名な作曲家は、「椿姫」などのオペラで有名なヴェルディや、映画「アマデウス」に登場するサリエリなどがいます。

バロック時代の副業事情

ヘンデルの父親は公爵に仕える外科医でしたが、副業で理髪師をしていました。また同じ時代の作曲家・ヴィヴァルディはカトリックの司祭を務める傍ら、理髪師の副業をしていたようです。理髪師の仕事は当時定番の副業だったことが伺えますね。

1709年 – 24歳「斬新なオペラ・セリア「アグリッピナ」の大ヒット」

実は反骨精神の強いオペラ作品

アグリッピナの胸像

「アグリッピナ」は2世紀頃のローマを舞台にした皇帝ネロの母親・アグリッピナの権謀術数を描いたドラマで、音楽の格調高さと生々しい人間ドラマとのコントラストが魅力の作品です。ヘンデルは当時イタリア・オペラの中心地であったヴェネツィア上演を成功させ、27回のロングラン・ヒットを記録しました。

オペラ・セリア(英雄もの)でありながら権謀術数を弄する悪女が活躍し、その企みに翻弄される正義のヒーローや可憐なヒロインも実はなかなか腹黒く、皇帝や皇太子は無知で間抜けな人物として描かれました。この斬新な人物描写が物議を醸しながらもヒットの要因だったようです。意外にも若い頃のヘンデルの作品は、「オペラ・セリア」の枠に嵌らない攻めの作品が多いのです。

現代でも比較的上演される作品

この作品はヘンデルのオペラの中では比較的現代でも観ることができるオペラです。カストラート役が皇太子役や皇帝・父役と女性歌手やカウンターテナーに比較的代わりやすいことも関係しているかも知れません。また前衛的な演出を施されることも多く、何かと話題になる作品でもあります。

1712年 – 27歳「ハノーファーからロンドンへ」

宮廷楽長に任命されるも、出張先に住み着いてしまう

イタリア・オペラの本場で「アグリッピナ」を成功させたヘンデルは一躍有名になり、帰国後は25歳の若さでハノーファー選帝侯の宮廷楽長に任命されます。しかしヘンデルは出張を命じられたロンドンに住み着いてしまいました。当時イギリスでは海外のオペラなどは人気が高く、音楽の「輸入国」「消費国」でした。ヘンデルもそのことを感じたのかハノーファーよりもロンドンで仕事をすることを望んでいたようです。

ジョージ一世との関係

イギリス王ジョージ1世

ヘンデルが勝手に出張先のイギリスに住み着いてしまった後、ハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ一世として渡英し、ヘンデルを追う形で雇い主がイギリスに来てしまいました。しかしジョージ一世は何も思うことが無かったのか(音楽に興味がなかったという説もあります)ヘンデルを咎める事もなく、その後も良好な関係を保ったとのことです。

1720年 – 35歳「ヘンデルのライバルは貴族たち?華やかでドロドロしたバロック音楽の世界」

貴族たちによる「王室音楽アカデミー」の設立

イギリス王室音楽アカデミー

バロック音楽は王侯貴族による社会の全盛期であり、王や貴族たちはオペラを楽しむだけではなく、自ら作曲したりステージに立つこともありました。彼らの音楽への造詣は深く、移り気でミーハーながらも相当に耳が肥えた注文の多い聴衆だったのです。1720年になると貴族たちがオペラの制作会社・王室音楽アカデミーを設立し、ヘンデルはその中心人物となりますが、貴族たちの熱意に反してアカデミーの経営はいい加減なものでした。

いつの時代も同じ?ポジション争いで衰退する音楽業界

アカデミーの作曲家たちは貴族でもあったため、オペラの成功を競うだけではなく政治的に対立するなど厄介な問題も起きていました。ヘンデルもボノンチーニというイタリア出身の作曲家とライバル関係にあり、互いに陰湿で熾烈なポジション争いを繰り広げていたようです。

ヘンデルとライバル関係にあったボノンチーニ

更に人気歌手をめぐる契約のトラブルなどが絶えず、アカデミーの杜撰な経営も相まってロンドンのイタリア・オペラブームは衰退していきました。1727年にロンドンで「乞食オペラ」という作品が大ヒットするとオペラ・セリア全盛時代の終焉は決定的なものとなり、ヘンデルは早々に見切りをつけてオラトリオ作曲家へと転向します。この点ヘンデルは時代の流れを読み取る力に長けていたと言えるでしょう。

1724年 -39 歳「風刺画に描かれてしまったヘンデル」

「音楽の消費国」を表したカリカチュア

カリカチュア(風刺画)

この絵はイギリスの国民的画家でカリカチュアの大家・ウィリアム・ホガースが描いた絵です。この絵では外国人であったヘンデルのオペラと、人気のあった国内の道化師の劇に行列が出来ており、ドライデンやシェイクスピアの作品が紙くずとして捨てられています。

この絵を現代の日本で例えれば、話題の洋画や国内のお笑い芸人のライブに行列が出来ていて、夏目漱石や紫式部の作品がごみのように捨てられているというような意味の絵になります。当時のイギリスは世界的に著名な作曲家や画家はいませんでしたが、最先端の外国のオペラや仮面劇は庶民にも人気でした。

イギリス国内にはドライデンやシェイクスピアなどの優れた文化人は存在しているのにも関わらず、自らを後進国と勝手に位置付けして外国の最先端のカルチャーに飛びついているのを一人の画家が冷ややかな目でとらえていました。このような図は、現在の日本人である私たちにも何か思う当たるところがありませんか。

ともあれこのような社会現象になるほど、1720年代においてヘンデルのオペラは一世を風靡したのでした。

1729年 -44 歳「運命のいたずら?出会うことがなかった2人の巨匠」

ヘンデルに会いたかったバッハ

著名なヘンデルに会うことは叶わなかった

1729年にヘンデルが故郷のハレ滞在中にJ.S.バッハが面会を申し出ましたが互いに行き違いがあり、会うことはできませんでした。その後もバッハは何度かヘンデルに会えないかと手を尽くしましたが、結局生涯この2人が顔を合わせることはありませんでした。当時ヨーロッパにおいてはヘンデルの方が圧倒的に有名であり、彼にとってJ.S.バッハは特に気にかかる存在ではなかったようです。

お互いに「友達の友達」だった?

しかしテレマンやヨハン・マッテゾンなどの作曲家はバッハ・ヘンデルともに交流を持っており、お互いに全く接点が無かったわけではありませんでした。顔を合わせることがなかったのはまさに運命のいたずらだったのかもしれません。

2019年 -没後260 歳「ジミ・ヘンドリックスとご近所さんだった?ヘンデル・ヘンドリックス博物館について」

偶然同じ場所に住んでいた音楽家たち

ジミ・ヘンドリックス

ヘンデルはロンドンのメイフェア・ブルックストリートの23番地に住んでいました。偶然その隣の24番地で20世紀のミュージシャン・ジミ・ヘンドリックスが1年間暮らしていたようです。現在その地はヘンデル・ヘンドリックス博物館として2人の部屋を再現したユニークな博物館となっています。

その偶然を知ってからジミ・ヘンドリックスがヘンデルに興味を持ったという逸話がありますが、本当なのでしょうか。私営のため有料の博物館ですが、ロンドンに旅行の際は是非足を運んでみてください。

ヘンデルの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

バロックの光と闇  高階 秀爾著

ヘンデルが活躍したバロック時代の特色がよくわかる本です。美術史的な内容が多いですが、社会的な背景も理解できるためまずは押さえておきたい内容が書かれています。

ヘンデル《メサイア》研究──楽曲分析と解釈 中内幸雄著

ON BOOKS(138)近現代英国音楽入門 山尾 敦史 著

「クラシック音楽」といえばドイツ・イタリア・フランスなどの音楽家の名前が思い浮かびますが、現代の音楽界をけん引しているのはイギリスやアメリカの音楽家たちです。まだあまり知られていないながらも、現代へと繋がるイギリスの音楽史について知ることができる一冊です。

おすすめ動画

Handel: Da tempeste (Julia Lezhneva, Helsinki Baroque Orchestra)

ヘンデルのオペラ「エジプトのジュリアス・シーザー」よりクレオパトラのアリア「嵐で木の船は砕け」(Da tempeste)を歌うロシアの可憐なソプラノ歌手、ユリア・レージネヴァの動画です。安定したテクニックと美しい声を堪能できます。

(FULL ALBUM) Handel – Water Music – Consort Of London – Robert Haydon Clark

有名な「水上の音楽」全曲です。宮廷で水遊びをする際に作曲された華やかな器楽曲となります。約一時間という再生時間ですので、少し優雅な気分になれる作業用BGMとしていかがでしょうか。

おすすめ映画

「カストラート」(字幕版)

実在したカストラート歌手で、稀代の大スターであった「ファリネッリ」の伝記映画です。作中ではヘンデルも登場し、オランダの俳優ジェローン・クラッベがヘンデル役を演じました。もちろんヘンデルの楽曲やオペラも存分に堪能することができます。

オペラ上演シーンでは当時の「オペラ・セリア」の様式を再現しており、豪華すぎてどこか大仰な、独特の雰囲気を味わえます。ファリネッリの歌唱シーンはソプラノ歌手とカウンターテナー歌手の声を合成したとのことで、とても美しく神秘的な歌唱シーンでした。「カストラート」は、実は隠れた名作映画として、ファンの多い作品のようです。

関連外部リンク

ヘンデルについてのまとめ

いかがでしょうか?筆者個人的にヘンデルはとても馴染み深い作曲家なのですが、「ヘンデル」というと「メサイア」や「ハレルヤコーラス」のイメージばかりあることにもどかしい気持ちでいます。

明るく、華やかで、聴きやすい曲が多く、意外に破天荒なオペラの作風も面白いと思います。この機会に興味を持っていただけると嬉しいです。

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