ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは、神聖ローマ帝国のハレ(現在のドイツ)で生まれ、グレートブリテン王国(現在のイギリス)に渡って活躍しました。バロック音楽を代表する作曲家の一人であり、特にオペラやオラトリオを精力的に作曲しました。
ヘンデルは当時はヨーロッパで一番有名な作曲家でしたが、現在はヘンデル作のオペラを上演することは難しいとされています。作中のアリアなどが演奏会で歌われることはあっても、オペラそのものの上演の機会は、実はそう多くないのです。
どうして現在はヘンデルのオペラはなかなか上演できないのでしょうか?その理由にも触れながら、豪華絢爛でちょっぴり闇が深い?バロック時代のオペラのお話と一緒に、現役の声楽家である筆者が浅学ながらご説明します。
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ヘンデルとはどんな人物か
名前 | ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル |
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誕生日 | 1685年2月23日 |
生地 | 神聖ローマ帝国、ハレ・アン・デア・ザーレ |
没日 | 1759年4月14日(74歳没) |
没地 | グレートブリテン王国、ロンドン |
配偶者 | なし |
埋葬場所 | イギリス ロンドン ウェストミンスター寺院 |
その他 | 1727年にグレートブリテン王国に帰化 |
ヘンデルの生涯ダイジェスト
ヘンデルは1685年2月23日に神聖ローマ帝国・ブランデンブルク=プロイセン領(現在のドイツ・ザクセン=アンハルト州)のハレに生まれました。1685年はヨハン・セバスティアン・バッハとドメニコ・スカルラッティ、そしてヘンデルと、バロック音楽を代表する音楽家の誕生年です。彼らは3人とも同い年ということになります。
ヘンデルの父は、ザクセン=ヴァイセンフェルス公爵・アウグストの従僕として仕えていました。当時音楽家が育つ環境としては珍しく、ヘンデルの家族に音楽に携わる仕事をしていた人はいませんでした。しかし父親の雇い主であったヴァイセンフェルス公爵はヘンデルのオルガン演奏をとても気に入り、才能を認めて音楽教育を施すなどしていたようです。
1702年・17歳でハレ大学に入学。これはヘンデルを法律家にしたかった父親の意向でしたが、ヘンデル本人はこの頃から既に音楽の道を志すことを固く決めていました。テレマンやヨハン・マッテゾンなどの音楽家たちと交流を持ちながらオルガン奏者として活躍し始め、オペラの作曲などにも取り掛かるようになります。
1705年、ドイツのハンブルクでオペラ「アルミーラ」を成功させたヘンデルは、オペラの本場・イタリアへ留学します。イタリアではコレッリやドメニコ・スカルラッティなどの後期バロック音楽を代表する作曲家たちと交流し、影響を与え合いました。そして1710年にヴェネツィアでオペラ「アグリッピナ」が大ヒットし、27回のロングラン公演となりました。
本場イタリアで作品が認められたヘンデルは、25歳の若さで人気の作曲家となります。その後もイギリス等の劇場などで作品を発表し1727年にイギリス帰化。しかしその頃になるとロンドンではイタリア・オペラの流行が衰退し、ヘンデルはオラトリオという宗教曲を中心に作曲するようになります。
1739年にオラトリオ「メサイア」初演、1749年にはオーストリア継承戦争の終結を祝う祝典のために『王宮の花火の音楽』を作曲するなど活躍しますが、徐々に体調が悪化し、1751年・ヘンデル66歳の頃に失明しまいます。失明後も鍵盤演奏などを続けていましたが、1759年体調悪化により死亡。当時の音楽家は死後急速に存在を忘れられることが常でしたが、ヘンデルは死後翌年には伝記が発行されるなどその存在感を示しました。
ヘンデルの性格は?~数少ない資料などから考察
こんなにも生前活躍したヘンデルはどのような性格だったのでしょうか?実はヘンデルの発言や手紙などはあまり残っていません。そのためはっきりとしたことはわからないのですが、わかっていることや作品からヘンデルの性格について簡単に考察してみたいと思います。もしよろしければ、皆さんも一緒に想像していただけると嬉しいです。
1.物怖じしない性格だった?
ヘンデルは父親の選んだ大学に進学しながらも、音楽の道を志し自らの人脈を広げていっています。またイタリアに留学した点から見ても行動力があることがわかりますね。ヘンデルはきっと物怖じせずグイグイと物事を進める性格だったのではないでしょうか。
またイタリアでも、20歳以上年上のコレッリのヴァイオリンを奪っていきなり演奏するなど怖いもの知らずな行動をとっていたようです。余談ですが、このコレッリという作曲家の周辺はなかなか個性的な人物が多かったようで、この失礼なヘンデルの行動にもコレッリ本人は何一つ気にすることもなく、不問になりました。
2.カッとなりやすいが根に持たない?
しかしこのような配慮のない行動がトラブルの元となったのは間違いありません。1704年・ヘンデルが19歳の頃ヨハン・マッテゾンという作曲家と喧嘩をして大騒ぎになったことがあるのです。
マッテゾン作のオペラ「クレオパトラ」の上演中に2人が口論を始めて争いがエスカレート、最終的になんとマッテゾンは刃物でヘンデルに襲い掛かったとのことでした。しかしこの2人はその後あっさりと仲直りし、大親友として生涯交流を続けたといいます。
このような気持ちの切り替えの早さを象徴するお話はもう一つあります。ヘンデルはイタリア語のオペラ作曲家として人気を博しましたが、そのジャンルの流行が過ぎるときっぱりと方向転換し、今度はオラトリオ作曲家として人気を取り戻しました。このような点から見ても、ヘンデルはさっぱりとした性格で根に持つことがなく、頭の回転も早い人物だったのかも知れません。
死因は脳卒中の再発?
ヘンデルの死因は脳卒中の再発なのではないかと言われています。50代の頃に一度脳卒中の発作を起こし、一時期創作活動がまったくできないほど体調が悪化していたこともあるようです。
また60代の半ば頃から老人性白内障で失明しており、その目の手術には失敗、更には載っていた馬車が横転して大怪我をするなど、ヘンデルは健康面での苦労がなかなか多かったようです。ヘンデルの健康事情については本稿後編でも詳しく触れておりますので、もしよろしければそちらもお読みください。
ヘンデルの音楽の特徴は?
ヘンデルが活躍した時代・バロック時代の特徴とは?
ヘンデルが生きていた時代は音楽史でいうと「バロック時代(バロック音楽)」と分類されます。西洋史でいえば王侯貴族に権力が集中した「絶対王政」の全盛期とほぼ同じです。
ルネサンス時代までは、教会と宮廷で権力がほぼ拮抗していましたが、バロック時代になると宮廷の力の方が強くなっていきます。美術や音楽もその流れに従って、世俗の権力者である王侯貴族の好みに寄せた作品の需要が増えていきます。
特に音楽では、エンターテインメント作品であるオペラが流行し、目覚ましい発展を遂げていくのが一つの特徴です。また様々な楽器も改良され、器楽曲もこの時代に大きな発展を遂げました。
因みに「バロック」というのは当時の人々が自称していた言葉ではなく、後の18世紀の人々がこの時代の装飾過剰な一面を指して言った意地悪な言葉でした。「バロック」は「いびつな真珠」という意味をもつポルトガル語で、この時代の一種の奇怪さ、派手さを指した悪口なのです。フランス革命直後はこのように旧時代の王侯貴族的な趣味は敬遠されましたが、19世紀以降になるとバロック時代の美意識は、16-17世紀特有のエネルギッシュな美として再び評価されるようになりました。
ヘンデルのオペラの特徴1:オペラ・セリア
ヘンデルはオペラ作品を多く残しました。晩年は歌手や劇場とのトラブルや、流行が廃れたことなどからオペラ制作の情熱を失ってオラトリオ作曲家へと転向しますが、それでもオペラ無しではヘンデルの音楽は説明不可能でしょう。
ヘンデルは「オペラ・セリア」(正歌劇)という形式のオペラを制作しました。「セリア」というのは英語に訳するとシリアスという意味で、つまりはまじめな、真剣な内容のオペラという意味になります。
オペラ・セリアの特徴をまとめると、
- 神話上・歴史上の英雄や皇帝を題材にした勧善懲悪のストーリーである
- 上演する国にかかわらず、イタリア語で歌われる
- カストラートという男性歌手が主人公の英雄役をつとめる
というようなものになります。
カストラートというのは去勢手術を施した高音の男性歌手のことをいい、オペラ・セリアには欠かせない存在でした。男性歌手らしいスタミナと、女性歌手にも劣らない繊細な声色を兼ね備え、更には変幻自在の音域を持ち、歌手としては完全無欠の存在とされていました。人気のあるカストラートは当時のアイドル的な存在で、彼らに派手な技巧のアリアを歌わせれば観客が喜び、オペラは大ヒットしました。
ヘンデルのオペラの特徴2:カストラートとは?
ヘンデルのオペラでは欠かせないカストラートについて、もう少し詳しく説明します。発祥については諸説ありますが、事故で睾丸を除去せざるを得なくなった歌手が美しい声を維持していたためその後人為的に去勢された歌手を登用することになった、という説が有力です。
変声期前のボーイソプラノの少年に手術を施したカストラートは、はじめ教会の歌手として活躍しましたが、時代の変化と共に教会から世俗の劇場へと活躍の場を変えていきました。カストラートとして成功した歌手は富と名声が手に入ったため、貧しい庶民の家がこぞって我が子をカストラートにする、ということもあったようです。
ところが当時の不衛生で危険な外科手術では亡くなる少年も多く、手術に耐えることが出来たとしても今度は親元を離れて音楽院(当時は孤児院のような要素の方が強かった)で厳しい教育に堪えなければいけませんでした。ただ美しい声のためと大人の私利私欲のために、子ども時代に人生を決められてしまうカストラートの存在は、まさしくバロック音楽の光と影といえるでしょう。
そしてカストラートの流行はそこまで長いものではありませんでした。彼らの美声と高音がもてはやされるあまり、人気歌手による「のど自慢」のためのつまらないオペラが量産され、「オペラ・セリア」は観客に飽きられてしまうのでした。更には歌手同士のポジション争いや劇場とのトラブルなども頻発して、ヘンデルもオペラへの情熱を失っていきます。
カストラートのその後とヘンデルのオペラの現在は?
その後はカストラートの登用を重視しないグルックやモーツァルトなどの作曲家が登場し、歌手の技量や人気のみに頼らない総合芸術的なオペラ作品が生みだされました。カストラートは華やかな劇場から徐々に姿を消し、再び教会でその美しい声を響かせることになりました。
1903年にカストラートのための手術が法律で禁止され、最後のカストラート歌手も亡くなっています。そのため現在ヘンデルの時代のオペラを上演する際はカストラートの役をメゾ・ソプラノ歌手が男装で演じたり、カウンターテナーやソプラニスタなど、声質が違う高音の男性歌手が担当したりと、形を変えて上演せざるを得ません。バロック時代のオペラはその固有の美が再評価されており復興されつつありますが、このような事情によって再現が難しい一面があります。
しかし、ヘンデルのオペラの上演が難しくなった今でも、そのオペラ劇中のアリアは時代を超えて愛されています。「木陰の下で(ヘンデルのラルゴ)」や「私を泣かせてください」などの美しい小曲は、老若男女問わず演奏会などでよく歌われているだけではなく、様々なジャンルの歌手やアーティストによってアレンジされ、親しまれています。
オラトリオ作曲家としてのヘンデルは?
ヘンデルは現在のドイツで生まれましたが、イタリアで音楽留学後、音楽の消費国であったイギリスに渡ってそのままイギリスに帰化します。そのためヘンデルは英語のオラトリオもいくつか作曲しました。「ハレルヤ・コーラス」で有名な「メサイア」も英語で書かれていますね。
オラトリオというのは元々聖書の内容などを表現するための音楽劇をいいます。オペラとの違いは、歌手が舞台上で演技をしたり動き回ったりすることはなく、朗読のように物語を語る歌を歌います。衣装や小道具・大道具などの装置もありません。また作品の題材も宗教的(キリスト教的)な内容に限定されます。
ヘンデルはそのオラトリオの幕間に、自らが演奏するためのオルガン協奏曲も作曲しました。ヘンデルのオルガン演奏は本編のオラトリオよりも人気があったようです。現在でもヘンデルのオラトリオは各地で演奏されています。
ヘンデルの功績
功績1.「作曲家たちの国際的な活躍の礎になった」
ドイツ出身のヘンデルが海を渡ったイギリスで大成功を収めたことは、後の音楽家たちが国際的に活躍できる基礎となったともいわれています。そのため、19世紀以降はメンデルスゾーンなども渡英し演奏旅行を成功させています。
18,19世紀の頃はイギリスにはそこまで著名な作曲家はいませんでした。電話の保留音などでよく聞かれる「愛の挨拶」のエルガーや「惑星」を作曲したホルストなどがいますが、イタリアやドイツほど有名人がいるわけではありません。しかし19世紀のイギリスで起こった産業革命は、ピアノの大発展など音楽界にとても大きな影響を与えました。このように技術の行き来があったのも、人の行き来が歴史的に続いていたからかも知れませんね。
功績2.オラトリオの傑作『メサイア』誕生、絵画のようにわかりやすく聖書を解説した
「ハレルヤ・コーラス」で有名なヘンデルの「メサイア」は、新約聖書の内容をダイジェストで体感できるオラトリオの傑作として、発表当時から現在に至るまで人気の作品です。救世主イエスの誕生から受難を経て復活、神の国の勝利と栄光を讃えてフィナーレとなるこの作品は、クリスマスや復活祭(イースター)シーズンなどで演奏される機会も多く、皆さんもどこかで耳にしたことがあるでしょう。
この「メサイア」は英語で書かれており、当時のイギリスの聴衆にもわかりやすく作られました。また宗教曲は新約聖書の言葉をそのまま引用することが多いですが、この作品は旧約聖書の予言の言葉なども引用しており、聖書を学ぶ人にとってもとても勉強になる作品なのです。
ヘンデルの代表曲・代表作品
- 歌劇「アグリッピナ」(1709年)
- 水上の音楽(1710年)
- 歌劇「リナルド」(1711年)(「愛しい妻よ」「私を泣かせてください」などのアリアが有名)
- ハープシコード組曲集ホ長調 HWV 430 (1720年)(「愉快な鍛冶屋」の呼称で有名)
- ハープシコード組曲集ト短調 HWV 432(1720年)(パッサカリアが有名)
- 歌劇「エジプトのジュリアス・シーザー」(1734年)
- 歌劇「セルセ(クセルクセス)」(冒頭のアリア「木陰に寄せて(オン・ブラ・マイ・フ」が有名)(1738年)
- オラトリオ「エジプトのイスラエル人」(1739年)
- オラトリオ「メサイア」(1742年)(「ハレルヤ・コーラス」が有名1739年)
- オラトリオ「ヨシュア」(1748年) (合唱曲「見よ、勇者は帰る」の旋律が有名)
多くの情報が載ってあり良かったです