中岡慎太郎とはどんな人?龍馬と歩んだ生涯・年表まとめ【性格や死因も紹介】

中岡慎太郎は土佐藩(高知県)に1838年に生まれ、尊王攘夷運動を行なっていき、薩長同盟の締結や薩土協約などの締結に尽力した志士です。

中岡慎太郎

一般的には坂本龍馬の方が有名なので、彼の事をあまり深く知らない!という人も多いのではないでしょうか?

しかし慎太郎は龍馬とは別のルートで薩長同盟や薩土協約の締結に尽力しており、歴史家の間では実は龍馬よりも彼の方が薩長同盟に貢献したと言われているのです。

龍馬が有名すぎるが故にあまり着目されない人物かもしれませんが、今回は中岡慎太郎にスポットライトを当て、その生涯を詳しく解説していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

中岡慎太郎とはどんな人か?

名前中岡慎太郎(中岡道正)
誕生日1838年5月6日
生地土佐国安芸郡北川郷柏木村
没日1867年12月12日
没地京都
配偶者中岡兼
埋葬場所京都霊山護国神社・靖国神社

中岡慎太郎の生涯をハイライト

亡くなる1年前に京都の祇園で撮影されたと言われている中岡慎太郎の写真

中岡慎太郎は、幕末において幕府を倒そうという運動の中心となった尊王攘夷派の志士です。土佐藩の大庄屋の息子で、若いうちは病で倒れた父を助け、村の特産品を作るなど民政家として活躍します。1855年、武市瑞山(半平太)の道場に通い、剣術を習い始めたことがきっかけで、政治活動に目覚めます。

1861年には武市の結成した尊王攘夷を目指す土佐勤王党に参加しますが、幕府が尊王攘夷派を取り締まるようになり、慎太郎も身の危険を感じて脱藩し、浪人の身となりました。

薩長連合は薩摩藩家老・小松帯刀の京都の屋敷で締結された。

しばらくは長州藩のもとで活動を続けていましたが、力を持っていた薩摩と長州が手を結ぶことで幕府を倒し、新しい政府を作ることが必要と考えた慎太郎は、同じ考えを持つ坂本龍馬とともに、薩摩と長州の有力志士たちを説得にあたります。そして1866年に薩長連合が締結されるのです。

さらに土佐藩もこの流れに乗せようと慎太郎は働きかけ、薩土盟約を結ぶに至りました。1867年には武力で幕府を倒すために陸援隊を作り、慎太郎は隊長となります。このように倒幕への道筋を作っていた慎太郎でしたが、坂本龍馬と共に突然襲われ、暗殺されるのです。誰が襲ったのか、いまだに真相は明らかではありません。

中岡慎太郎が作った陸援隊とは?

慎太郎が作った組織である陸援隊。一見すると龍馬が作った海援隊の模倣のように見えますが、この二つの組織は役割が全く違う代物でした。

陸援隊は簡単に言うと土佐藩士による精鋭部隊であり、この当時あまり軍備の近代化が進んでいなかった土佐藩の貴重な戦力となりましたが、陸援隊は結成から5ヶ月後に慎太郎が横死したことによって解散の危機に追い込まれました。

その後は谷干城が指導し、戊辰戦争の時には幕府側の紀州藩の牽制に勤め、御一新によって陸援隊は御親兵に吸収し、わずか4年間で陸援隊の活動は終焉しました。

中岡慎太郎の思想は?

中岡慎太郎はいわゆる尊王攘夷を主張していましたが、長州藩の滞在中に禁門の変や下関戦争を受けてこの考えを転換。藩がまとまって幕府を潰し、その後日本を発展させた後に外国を追い払おうという「倒幕・大攘夷」となります。

禁門の変の様子

その後は倒幕・大攘夷を目指すことを目的として薩長同盟や薩土協約を締結し、倒幕へと向かう運動に一役買うことになりました。

中岡慎太郎が暗殺された時の状況は?

1867年12月10日、この日坂本龍馬と中岡慎太郎は土佐藩御用達の醤油屋であった近江屋で宿泊し、これからの日本のことなどを含めた雑談話をしていました。

近江屋の現在の様子。慎太郎もここで襲われ、この世をさることに。

話をしているうちに夜になり、腹が減った龍馬が仲間の人に大好物である軍鶏を買いに行かせた時、いきなり襲撃犯が近江屋に乱入。十津川郷士と名乗り、龍馬に会いたいと言い出してきました。

仲間が龍馬に対して十津川郷士と名乗る客が来たというと十津川郷士と名乗るものはいきなり彼を斬りつけ、龍馬と慎太郎がいる二階に向かいます。

一方、そのことを全く知らない龍馬は彼が斬りつけられた後に「ほたえな!」と叫んだそうですが、その直後襲撃犯は龍馬と慎太郎を斬りつけ、龍馬は前頭部を斬りつけられ瀕死。慎太郎も両手両足に深い傷を負ってしまいました。

額を斬られた龍馬は「慎太、俺は脳をやられたからダメだ」と言い残しその後死亡。慎太郎は傷を負ったものの、なんとか谷干城などの土佐藩士に助けられましたが、その後出欠多量でこの世を去りました。

中岡慎太郎の名言は?

『君子小人人にあり。家に在らず』

『謙虚とは堂々として過信しないことだ。それは断じて卑屈であることではない。』

『大君の辺にこそ死なめ大丈夫 都はなれて何か帰らん』

中岡慎太郎の功績

功績1「薩長連合を実現させる」

薩長連合の内容が正しいものであることを、坂本龍馬が朱字で書き加えている手紙

中岡慎太郎の功績として真っ先に挙がるのは、薩長連合を実現させたことです。尊王攘夷論者であった慎太郎ですが、幕府に追われて長州藩で過ごすうちに、長州藩士に対する弾圧が将来の日本にとってなんの得もないと感じ始めます。そして雄藩が手を取り、幕府を倒すことが必要だと考えるに至りました。

この考えに同調した坂本龍馬と共に、慎太郎は活動を始めます。薩摩藩に関係が深かった龍馬は薩摩藩を、長州藩に知り合いの多い慎太郎が長州藩を主に説得し、薩長連合を実現させるのです。

禁門の変とは、長州藩の急進派と薩摩・会津・桑名の藩兵が皇居内外で交戦した事件

1864年の禁門の変で敵味方に分かれていた薩摩藩と長州藩が、1866年には薩長連合を締結して手を組むというアクロバティックな発想は、当時の幕府側の人々を大いに驚かせました。実際、これによって夢物語と思われていた討幕が現実味を帯び始め、日本の歴史は大きく動いていくのです。

功績2「薩土密約を締結する」

薩土密約では、板垣退助が戦になったら兵を率いて必ず薩摩藩に合流すると決意を述べた。

薩土密約とは、慎太郎と板垣退助が中心となり、土佐藩と薩摩藩とが武力をもって幕府を倒そうと結んだものです。「密約」という名の通り、土佐藩の政治を仕切っていた前藩主である山内容堂の許可なく締結されました。この薩土密約こそが、のちに土佐藩を救う条約になるのです。

1867年に結ばれた薩土盟約の約定書

実は薩土盟約というものもあります。こちらは大政奉還を目的に、雄藩同士をさらに結びつけるためのものでした。慎太郎は薩土盟約にも絡んでいますが、土佐藩の中心となっていたのは坂本龍馬と後藤象二郎です。

土佐藩を治めていた山内家は、藩祖が徳川家に恩があるため、幕府を倒すことに積極的ではありませんでした。こうした事情から、土佐と薩摩という同じ藩同士の約束にも関わらず、薩土密約と薩土盟約という2つの条約が締結されたのです。

結局、薩土盟約は2ヶ月ほどで解消されてしまいますが、大政奉還は実現しました。また、薩土密約はそのまま残ったため、土佐藩も討幕軍として戊辰戦争に参加することになります。そのおかげで土佐藩は明治時代になっても「新しい政府のために尽力した藩」として評価されるに至るのです。

功績3「土佐出身者が明治時代に活躍する下地を作る 」

戊辰戦争に参加した土佐藩の主力部隊「迅衝隊」

慎太郎の尽力で締結した薩土密約は、明治時代の土佐藩出身者の出世にも繋がる重要な条約でした。慎太郎は締結したその年に暗殺されてしまいますが、この一手は、土佐藩の若者たちの将来を大きく変えるものだったのです。

薩土密約には、土佐藩は藩論に関係なく戦争が始まれば討幕軍に参加するという項目がありました。そのため、徳川家に遠慮していた山内容堂の意向を気にせず、土佐藩は戊辰戦争の最初から討幕に参戦することになったのです。

板垣退助はもともと乾退助と名乗っていたが、1868年に「板垣」と改姓した。

その結果、土佐藩を含めた討幕軍は、旧幕府軍を追い詰め、新政府を打ち立てることに成功しました。のちに明治天皇からは、土佐藩の働きが素晴らしいとお褒めの言葉をもらっているほどです。そして明治政府内でも土佐藩出身者の発言力は大きいものになりました。

板垣退助は、この薩土密約の働きも評価され、明治政府で取り立てられたと言われています。

1 2 3

コメントを残す