中岡慎太郎の生涯年表
1838年 – 0歳「中岡慎太郎生まれる」
土佐藩の大庄屋の息子として生まれる
中岡慎太郎は土佐藩の領地であった土佐国安芸郡北川郷柏木村(高知県安芸郡北川村)の大庄屋の長男として1838年に生まれました。
大庄屋というのは中小の庄屋を一括に管轄している身分であり、中岡家は武士ではないものの、武士の特権である名字帯刀が許されるいわゆる郷士身分だったそうです。
しかし、土佐藩は身分制度が激しく分離しており、郷士は下士として上層部から蔑まれる身分でもありました。
田野学館にて学問を学ぶ
1854年。中岡慎太郎が16歳の時に土佐藩の藩校として前年に創設された田野学館に入学。教鞭をとっていた間崎哲馬から学問を学んでいました。
その翌年には同じく庄屋出身であった兼と結婚。ここまでは順風満帆な人生でしたが、とある人との出会いによって人生は大きく動かされることになります。
1861年 – 24歳「土佐勤王党に加盟する」
武市瑞山に師事する
土佐勤王党が結成する6年前の1855年。この年武市瑞山が田野学館の剣術指南役として派遣され、慎太郎ら生徒の指南を行い始めます。
瑞山は小野一刀流の免許皆伝を得ており、その性格も相まって慎太郎と同じ下士身分の憧れの対象となっていました。慎太郎も瑞山に憧れを抱くようになり、瑞山の道場に入門。
瑞山が藩の命によって江戸にて剣術修行を行った時には慎太郎も瑞山の供回りとして江戸に向かいました。
土佐勤王党に参加する
江戸に向かうことになった瑞山でしたが、この頃の日本はとんでもない難局に突入していました。
1853年にペリーが来航して以来、幕府では外国との通商や関係を巡って対立。さらには将軍の後継者問題が起こりその反動で安政の大獄が起こるなど混乱続き。
さらに、外国人が安い商品を輸入してきたこともあって日本の産業が壊滅状態に陥り始めるといわゆる尊王攘夷を唱える武士たちが現れ始め京都では「天誅」という形で武士の暗殺事件が横行したり、ヒュースケン襲撃事件のように外国人をターゲットとした襲撃事件も起こるなど政情が一気に怪しくなり始めていました。
そんな時勢において慎太郎の師範である瑞山はかなり過激な尊王攘夷思想を持っており、世の中を大きく変えるために尊王攘夷を達成するために組織を結成。それがいわゆる土佐勤王党だったのです。
慎太郎は結成したばかりである土佐勤王党に加盟し、これ以降尊王攘夷運動に身を投じることになるのでした。
土佐勤王党における慎太郎
土佐勤王党に加盟した慎太郎。
土佐勤王党は結成してから早速、前藩主であった山内豊重(山内容堂)のために、天誅と称して尊王攘夷運動を邪魔するような人を次々と暗殺していくようになります。
1862年に土佐藩の家老であり、著名な思想家であった吉田東洋を暗殺したり、安政の大獄の時に井伊直弼側についた武士たちを根こそぎ斬り捨てたりしていきました。
そんな中、慎太郎は土佐勤王党の一員として、熱心に活動しています。
1862年には郷士身分を中心とした五十人組の伍長として江戸に出向。江戸にて尊王攘夷運動の代表格として知られていた長州藩の久坂玄瑞と出会い、松代藩の著名な学者であった佐久間象山も訪問しています。
ちなみに、土佐勤王党に加盟した慎太郎でしたが、この時同じく加盟していたのが坂本龍馬でした。
龍馬と慎太郎は薩長同盟や近江屋事件などもあり後世では深い仲として描かれることが多いのですが、龍馬と慎太郎が出会ったのはこの頃でした。
しかし、土佐勤王党の活動は過激と言わざるおえないような状態で、龍馬はこの状態を見て大変疑問に思っていたそうです。
1863年 – 26歳「土佐藩から脱藩する」
八月十八日の政変の勃発
尊王攘夷運動に身を投じていた慎太郎でしたが、その仕えているとしていた天皇や土佐藩の反応はあまり良いものではありませんでした。
この当時の天皇である孝明天皇は外国人嫌いとして知られており、安政の大獄の時には勝手に日米修好通商条約を結んだ幕府と対立していましたが、倒幕に関しては全く思っておらず、公武合体といい、朝廷と幕府が連携して難局を乗り越えようと考えていました。
そのため、尊王攘夷運動を行って幕府側の武士たちを次々と暗殺していた志士たちは孝明天皇からしたら邪魔で仕方なかったのです。
土佐勤王党はこれが天皇のためになると思っての行動だったのですが、この認識のズレがやがて大きなものとなり、そして八月十八日の政変という一大クーデターとなってしまうのでした。
この八月十八日の政変にて三条実美をはじめとした尊王攘夷派の公卿は京都から追放。
さらに尊王攘夷運動を主導していた長州藩の武士もそれに伴って京都から追放され、土佐勤王党もやがて睨まれ始めることになるのです。
土佐勤王党の獄
尊王攘夷が高まっていた頃には土佐勤王党の行動はある程度目をつむってもらえましたが、八月十八日の政変が勃発して一気に公武合体派の武士が台頭し始めていくようになるとその行動の邪魔となる尊王攘夷派の志士たちは徹底的に弾圧を受けることになります。
1863年4月に山内容堂は土佐勤王党のメンバーであった人を切腹に追い込むと、土佐勤王党によって暗殺された吉田東洋の弟子であった後藤象二郎の指揮の元で土佐勤王党は弾圧を受け始めることになります。
瑞山は政変が起こる前は山内容堂の護衛を行なっていたこともあり、投獄だけで済んだのですが、そのほかのメンバーには苛烈な拷問が繰り返され自白の強要を求め始めていくようになります。
そして、メンバーの一人であった岡田以蔵が京都における幕府派要人の暗殺を自白が決定打となり、瑞山は切腹。
捕縛されたメンバーはことごとく斬首となり、リーダーとメンバーの大半を失った土佐勤王党は事実上の壊滅に追い込まれることになりました。
土佐藩からの脱藩
土佐勤王党が弾圧されていくようになるとメンバーの一人であった慎太郎は土佐藩からでていかなければならないようになってしまいます。
しかし、この当時武士身分が藩主の許可なしに藩を出るというのは言語道断。見つかった段階で処刑されることなんて当たり前でした。
しかし、そんなことを言っている暇がない慎太郎は土佐藩の郷士の身分を捨てて、尊王攘夷運動の本拠地である長州藩に脱出。ここからしばらくの間長州藩に身を隠すことになりました。
1866年 – 29歳「薩長同盟の立役者となる」
長州藩での活動
無事長州藩に隠れることができた慎太郎でしたが、こんなことで慎太郎が尊王攘夷を諦めるはずもなく、長州藩の尊王攘夷志士との交流を深めていくことになります。
しかし、そんな状態でも慎太郎の立場は危うくなるばかりでした。1864年には逆クーデターを狙った長州藩が薩摩藩・会津藩と衝突し、いわゆる禁門の変が勃発。
慎太郎は脱藩浪士とともに長州藩側で参戦するのですが、長州藩はこの禁門の変で敗北し、それどころか逆賊として幕府によって討伐対象としてみられることになります。
慎太郎はこの現実を見て、単なる尊王攘夷ではなく、幕府を倒して雄藩による政治体制を新しく構築しなければならないと考え始めるようになり、雄藩同士の同盟を模索し始めることになります。
坂本龍馬との連携
慎太郎が同盟の締結に模索している頃、同じく元土佐勤王党のメンバーであった坂本龍馬が亀山社中を創設し、武器弾薬を各地に売買している情報を入手します。
慎太郎は幕府を倒すためには長州藩と薩摩藩が同盟を結ぶことが必要不可欠と考えていましたが、長州藩と薩摩藩の関係は八月十八日の政変と禁門の変によって最悪なものとなっていました。
この関係をなんとかするためには土佐藩の誰かが仲立ちを行なって関係を修復するしかないと坂本龍馬を説き伏せてなんとか協力体制を整えていき、同盟の締結に奔走していくことになります。
苦難の末の締結
京都と長州藩を往復し、長州藩と薩摩藩の仲立ちをおこなっていましたが、恨みが深い長州藩この同盟に立ち会ってくれません。
長州藩の関わりが深かった慎太郎のツテもあり、ようやく下関にて1回目の会談が行われることになりましたからこれも不発に終わってしまいます。
しかし、慎太郎は長州藩の重鎮にも薩摩藩の重鎮にも同盟の締結の必要性を説いていき、これに動かされた薩摩藩と長州藩はついに同盟を決断。
1868年1月21日に京都の薩摩藩邸にて薩長同盟が成立することになりました。
1866年 – 29歳「薩土協約の立役者となる」
慎太郎脱藩を赦免される
こうして薩摩藩と長州藩は同盟を締結して倒幕へ一歩前進することができましたが、慎太郎の次の課題は故郷である土佐藩をどう巻き込むのかということでした。
土佐藩にはツテがあるため仲介ができるのですが、慎太郎は土佐藩を脱藩した身。帰ったら脱藩の罪で処刑されかねない状態でもあったのです。
さらに、この当時土佐藩の重鎮として活躍していた後藤象二郎はかつて土佐勤王党によって暗殺された吉田東洋の愛弟子。土佐勤王党の元メンバーであった慎太郎からしたら帰ろうにも帰れない状態だったのでした。
しかし、運がいいのかどうなのか後藤象二郎はこのままいけば後々大きな戦争が起こると察知しており、長崎において武器弾薬を大量に購入して軍備の近代化に勤めていました。
そのため、航海や商売の専門技術があった龍馬は土佐藩においてはなくてはならない存在であり、龍馬や協力していた慎太郎の赦免に乗り出すことになります。
そして、後藤と龍馬が会談した結果慎太郎と龍馬の脱藩の罪は赦免。これによって慎太郎は堂々と土佐藩における活動を再開することができるようになったのでした。
薩土協約の締結
赦免されたことによって土佐藩にて堂々と活動が行えるようになった慎太郎は早速薩摩藩と土佐藩の同盟に奔走。
土佐藩と薩摩藩の間で結んだ薩土密約をさらに発展させるために京都の三本木料亭「吉田屋」において、薩摩の小松帯刀・大久保利通と土佐の後藤象二郎・中岡慎太郎・坂本龍馬との間で、倒幕・王政復古実現のための薩土盟約が締結されました。
さらに、6月には安芸広島藩との同盟にも発展し、王政復古に向かって着々と進んでいくようになります。
陸援隊の結成
こうして外交上では倒幕に向かって一直線となっていましたが、土佐藩ではこの時点でも旧体制にしがみついている人が多くおり、土佐藩の軍備の改革が急務でした。
そこで慎太郎は薩摩藩や長州藩にも勝るような軍備を整えるために、近代武器の調達を行いつつ、京都にて奇兵隊を元にした集団を結成しました。
これがいわゆる陸援隊であり、洋式の軍備を整えながら倒幕を目指していきました。
1867年 – 30歳「近江屋事件で横死」
突然の暗殺
陸援隊の組織後、中岡慎太郎は次のビジョンを定め、倒幕と大攘夷を目指すことを説いた『時勢論』を表し、坂本龍馬や土佐藩の志士たちとこれからについて話をしていました。
そして1867年11月15日、ついに運命の日を迎えることになります。
この日、慎太郎は坂本龍馬と共に京都四条の醤油屋であった近江屋にて宿泊していました。龍馬と中岡は火鉢を囲み話込んでいた所、十津川郷士を名乗る客が訪れます。
この客が実は龍馬を暗殺しようとしている刺客だと気づいた藩士は急いで龍馬と慎太郎に襲撃があると伝えようと2階に上がりますが、背後から斬りつけられ、その物音に対して龍馬は「ほたえな!」と怒鳴ったと言います。
その瞬間、2階に上がり込んだ刺客3人がふすまを開けて部屋に侵入。座していた龍馬と中岡を襲い、龍馬は額を斬られ即死。慎太郎も瀕死状態となってしまいました。
立て直そうとするが死去
瀕死の重傷を負った慎太郎でしたが、慎太郎はなんとか防戦し即死することはなかったため襲撃を聞きつけた土佐藩士の谷干城に事件の詳細を伝えることができました。
慎太郎は「人をたくさん斬っている新選組の仕業だろう」「犯人は『コナクソ』と言った」という証言をなんとか絞り出し、さらに大好物であった焼き飯を食べれるまでに回復しましたが、傷があまりにも深くこれ以上回復することはありませんでした。
近江屋事件が起こってから2日後に慎太郎は死去。
龍馬と慎太郎という二大巨頭を失ったことは谷干城ら藩士からしたらショック以外の何者でもなく、谷干城による近藤勇の処刑主張や、天満屋事件といった龍馬と対立した人を襲撃するようになっていくのでした。
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中岡慎太郎
この本は中岡慎太郎の生涯を描いた作品で脱藩して尊皇攘夷運動に身を投じ、維新回天の熱き思いを抱いて薩長同盟実現に東奔西走した彼の業績を記した面白い本となっています。
中岡慎太郎―維新の周旋家
この本は国民的ヒーロー坂本龍馬の陰に隠れがちな陸援隊隊長中岡慎太郎の伝記。薩摩の支援を背後にした龍馬とは異なり、終始長州の共闘者兼交渉窓口として振舞ってきた中岡慎太郎の小うがいを追った作品となっています。
ぜひ手に取ってみたらいかがでしょうか?
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竜馬を切った男
この作品は中岡慎太郎が亡くなった近江屋事件に焦点を当てた作品となっています。
なぜ、竜馬と慎太郎は暗殺されることになったのかについて調べたい人にはおすすめの作品となっています。
関連外部リンク
中岡慎太郎についてのまとめ
土佐藩の主力として大車輪の活躍をした中岡慎太郎。
彼は残念なことに近江屋事件によって暗殺されてしまいましたが、彼がいたからこそ薩長土肥の一員として入れたのではないかと考えています。
なにかと龍馬の影に隠れてあまり目立つことがない中岡慎太郎ですが、彼こそが本当の維新の立役者だったのかもしれません。