源頼光(みなもとのよりみつ)は、平安時代の中ごろに活躍した貴族であり武将です。姓の「源」が示す通り、後に鎌倉幕府を開く源頼朝や、源義経から見ると、遠縁ではありますが先祖に当たる人物でもあります。
頼朝や義経と比べると、合戦での活躍などは残されていないマイナーな人物ではありますが、大江山の鬼・酒呑童子(しゅてんどうじ)退治や、大妖怪・土蜘蛛退治などの怪異退治の逸話が数多く残されており、オカルト方面に興味を持っている方からは有名な人物でした。
怪異退治のエピソードの他には、「頼光四天王」という頼光配下の武将たちの通称も有名であり、その四天王の中には、あの昔話である『きんたろう』のモデルとなった坂田金時(さかたきんとき)や、「鬼の腕を切り落とした」とされる渡辺綱(わたなべつな)などの豪傑が名を連ねています。
人VS人の合戦ではなく、鬼や妖怪と戦った武将というエピソードの特殊性や「四天王」という字面のカッコよさから、創作のキャラクターとしても人気は高く、最近では『Fate/Grand Order』や『討鬼伝』などのゲーム作品から、頼光の名前を知る人も増えてきていると言えるでしょう。
この記事では、上記のゲームから源頼光という人物の実像に興味を持った筆者が、頼光四天王などのエピソードも交えて執筆させていただきます。最後までお読みいただけると嬉しいです。
この記事を書いた人
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フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。
源頼光とはどんな人物か?
名前 | 源頼光 |
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誕生日 | 948年 |
没日 | 1021年8月29日(享年73歳) |
生地 | 不明 摂津国・多田 もしくは平安京・左京一条とされる |
没地 | 不明 |
配偶者 | 藤原元平の娘 平惟仲の養女 慶滋保章の娘など |
埋葬場所 | 兵庫県川西市多田神社 |
愛刀 | 童子切安綱 膝丸など |
源頼光の生まれは?
源頼光は、清和源氏の頭領である源満仲(みなもとのみつなか)と、佐賀源氏であった源俊(みなもとのすぐる)の娘の間に、嫡男として生まれました。
生年は948年とわかっていますが、生地については諸説が存在しています。一般的には、清和源氏の本拠地である摂津国・多田で生まれた、もしくは父である満仲の屋敷があった、平安京の左京一条で生まれたとする説が一般的です。
幼年期の人物像についても記録は全く残っておらず、幼い頃の頼光がどんな人物だったのかについては、完全に謎に包まれていると言えます。そのため、頼光の名前が歴史の中に登場し始めるのは、20代になって朝廷と藤原氏に出仕しだしたころからとなっています。
頼光の生家である清和源氏は、代々東北方面の守りを司る鎮守府将軍に任じられる家系だったため、頼光も家系としては武士(当時の言い方では”兵”)の一族だったと言えます。しかし頼光が活躍する平安時代中期には、大規模な戦など、武力が必要な事件はほとんど起こっておらず、頼光も藤原氏の臣下として出仕した後しばらくは、主に財力を蓄える形で勢力を拡大していったようです。
「頼光四天王」とは?
源頼光は多くの郎党を従えていたとされ、中でも後世に名前を残した4人の強者は「頼光四天王」という通称で親しまれています。
「頼光四天王」とは、一条戻橋の説話で有名な渡辺綱を筆頭に、『金太郎』のモデルである坂田金時、四万温泉の由来となったエピソードが有名な碓井貞光(うすいさだみつ)、『滝夜叉姫』など多くの妖怪退治の説話に名を残す卜部季武(うらべすえたけ)の4人のことを指した通称です。
実際に彼らが怪異と戦ったのかは定かではありませんが、頼光がまだ未開の地域が多かった東北地域を監視する役職についていたことや、”鬼”という存在のモデルが、未開地域の朝廷に対する反抗勢力や、盗賊や山賊などの悪漢であったことなどから、彼らが当時の価値観で言うところの”鬼”と呼ばれる者たちと戦っていたことについては、信ぴょう性の高い記録であるように思えます。
源頼光の酒呑童子退治とは?
源頼光のエピソードの中でも、四天王の名前と並ぶほど有名なのは、酒呑童子という鬼の名前です。
酒呑童子は大江山に住む鬼のボスのような存在であり、都に降りては女性をさらって食い殺すなど、死して悪霊となった崇徳上皇(すとくじょうこう)、中国の妲己(だっき)とも同一視される白面金毛九尾の狐(玉藻の前)と並び、日本三大悪妖怪とも謳われる凶悪な鬼でした。
朝廷から酒呑童子の退治を依頼された頼光と配下の四天王は、山伏に変装して大江山に潜入。酒呑童子に謁見した頼光たちは、手土産として「神便鬼毒酒(しんぺんきどくしゅ)」という鬼にとって毒となる酒を渡し、鬼たちを泥酔させます。そうして酔いつぶれ、寝てしまった酒呑童子の首を、頼光は刀で刎ねたのです。
首を刎ねられた酒呑童子は、「鬼にも劣る卑怯者め!」と頼光を罵り、首だけになっても頼光を食い殺そうと襲い掛かってきましたが、頼光の被っていた兜が、その攻撃を阻んだというエピソードも残っています。
また、この時酒呑童子の首を刎ねた刀は「童子切安綱」と呼ばれ、現在も国宝として、東京国立博物館に本物が所蔵されています。
源頼光と頼朝・義経の関係は?
”源”という苗字を聞いて、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、源頼朝か源義経のどちらかであるだろうと思います。当然頼光と頼朝・義経兄弟に血縁としての関係はあるのですが、実は彼らの関係性はさほど濃いものではありません。
頼朝と義経は、正確には頼光の弟に当たる源頼信(みなもとのよりのぶ)が始祖となった源氏の一派・河内源氏の系譜を継ぐ人物であり、頼光が開いた摂津源氏の系譜とは、同門ではありますが少しばかり遠縁となっています。その上、頼光たちが活躍していた時代と、頼朝たちが活躍した時代には100年ほどの隔たりがあるため、彼らの血縁はとても薄いものだと言わざるを得ないでしょう。
とはいえ、平家との戦で多くの武功を挙げた義経などは、”鬼”を相手に渡り合ったとされる頼光と、どこかしら通じるものがあったのかもしれません。
源頼光は一体何がすごいのか?功績は?
すごさ1「日本最強の”怪異殺し”」
日本における妖怪退治の逸話は意外と多く、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の『近江三上山の大百足退治』、安倍晴明の『白面金毛九尾の狐退治』等があります。しかしその中でも、頼光の妖怪退治の逸話は、群を抜いて多く残されています。
先述した『酒呑童子討伐』を筆頭に、『土蜘蛛退治』『関東(浅草寺)の牛鬼退治』の逸話の他、四天王の面々の逸話も含めると、『一条戻橋の戦い』『羅生門の茨木童子(いばらきどうじ)との対決』など、主に京都周辺を中心に頼光と怪異の戦いのエピソードが残されています。また、それらのエピソードは能や謡曲などの題材にも用いられ、現在に至るまで親しまれているのです。
それらの怪異との戦いが実際にあった戦いなのかは疑問が残るところではありますが、「火のない所に煙は立たぬ」というように、頼光たちが貴族中心のその時代にそぐわない武力を持っていたことは、疑う余地のないところでしょう。
すごさ2.「内政にも優れた手腕を発揮していた」
主に怪異との戦いのエピソードがフィーチャーされる頼光ですが、内政方面にも優れた手腕を発揮していたことが記録されています。むしろ正式な歴史書とされるものには、彼の戦上手を示すエピソードよりも、彼の内政を褒めるエピソードの方が多く残っているほどです。
実際に頼光は、正四位下や春宮権大進、あるいは美濃守や備前守など、多くの高い役職に任命されており、蓄えられた財力は相当のものになっていたとも伝わっています。
また、蓄えられた財力をもって、その時代の実質的な支配者だった藤原氏にも多額の寄付を行っていたようです。その寄付によって藤原氏から源氏への覚えも良くなったらしく、藤原氏は頼光のことを「朝家の守護」と綽名し、おおいに重用したとされています。
そういった意味では、後の源氏による武家政権樹立の礎を作ったのは、頼光であると言えるかもしれません。
すごさ3.「文化人であったとも伝わる」
怪異との戦いや内政など、公的な部分での活躍が多い頼光ですが、平安時代中期の貴族らしく、文化的な方面への高い教養も持ち合わせた、文化人であったことも伝えられています。
とりわけ和歌の腕はそれなりに評判であったようで、『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集の中に、頼光が詠んだとされる3本の和歌が収録されているようです。一般公開されている資料などは少ないですが、『拾遺和歌集』の現代語訳をまとめた書籍などは存在していますので、興味のある方はそちらにも手を出してみてはいかがでしょうか?
源頼光にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「怪異退治のエキスパート」源頼光と「怪異の専門家」安倍晴明の関係性
源頼光が怪異退治のエキスパートだったことは、ここまでこの記事を読んでいただければわかっていただけると思います。しかし頼光と同じ時代には、おそらく頼光以上に有名な「怪異の専門家」がいることを、皆さんもご存じでしょう。
平安でも特に有名な怪異の専門家――つまり安倍晴明と源頼光は、実は同じ時代に生き、同じく朝廷に仕えた人物だったのです。頼光と晴明に直接的な関係性があったという記録は歴史書には存在していませんが、一説では彼らの屋敷は近所に存在し、頼光は度々清明に相談事を持ち掛けていたとも言われています。
武人の側面が強い頼光と、陰陽師としてオカルティックな側面が強い清明。それだけ見ると合わなそうな二人ですが、怪異に携わる者同士、何かしらの関わりがあったと考えても、決して不思議なことではないように思えます。
都市伝説・武勇伝2「現実的に見て」怪異退治は本当にあったのか?
おそらく頼光のエピソードを見てきて、皆さんが一番疑問に思うのはここだと思います。現実的に考えて、平安時代の日本に鬼や土蜘蛛といった怪異が存在し、頼光たちはそれらと戦ったのか?という点です
これは筆者の解釈ですが、頼光と怪異の戦いは、本当にあったことであると考えられると思います。ただしこれは、”鬼”という”言葉”の問題による話でもあり、我々が一般的に考える”鬼”や”妖怪”などとは別の、朝廷から見た”敵”(=”鬼”)と戦ったのだと考えられそうです。
歴史書からも、朝廷に反抗する勢力を「土蜘蛛」と呼んでいる事や、後の世で西洋人のことを「赤鬼」と見間違えている事が読み取れるため、少なくとも頼光の『鬼退治』や『土蜘蛛退治』は、そういった「朝廷にとっての異分子」との戦いを表した物語なのではないかと考えることができると思います。
源頼光の略歴年表
頼光は948年、清和源氏の頭領である源満仲、嵯峨源氏の源俊の娘の下に嫡子として生まれます。生地については諸説がありますが、清和源氏の本拠地の摂津国・多田か、父の本拠があった平安京の左京一条だとする説が一般的です。
頼光は20歳ごろになると、当時の日本を実質的に支配していた藤原氏に臣下として出仕を始めます。そこで官職を得た頼光は、着々と財を集め、清和源氏の勢力を拡大していったようです。
足柄山にて、後の頼光四天王の一人である坂田金時と出会った頼光は、金時の武勇に惹かれて彼を家臣として取り立てたとされています。頼光四天王の他の3人との出会いについては、記録がないためわかっていません。しかし金時と頼光の出会いよりも早く、他の3人は頼光に付き従っていたようです。
後の三条天皇に当たる居貞親王(おきさだしんのう)が皇太子になったのと同時に、頼光は朝廷の内政に携わる春宮権大進に任命されたことが記録されています。この時点で清和源氏の勢力はかなり拡大していたとみられるでしょう。
この年、当時の関白であり頼光の主君でもあった藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が死去。その葬儀の最中、藤原道長と出会った頼光は、道長の堂々とした姿に感服し、以降は道長の側近として仕えることを決めたようです。
この年、頼光は現在の岡山県にあたる備前守に任命を受けることになります。しかし彼は、代理人を派遣する形で備前守の職務を遂行していたらしく、頼光自身は平安京に留まっていたと記録されています。
備前守に続いて美濃守の任命を受けた頼光は、この時は現地に赴いて自ら統治に当たっていたようです。また、この任命から数年の間に正四位下の任官も受けており、昇殿も許されるようになっていました。
「朝家の守護」と綽名されるほどに、藤原家や朝廷からの信頼を得た頼光は、天皇から「大江山の蝦夷討伐」の勅命を受け、四天王を引き連れて大江山へ向かいます。確たる証拠はありませんが、『大江山の酒呑童子退治』は、この蝦夷討伐が元となっているのではないでしょうか。
1021年8月29日に、源頼光はこの世を去ったと記録されています。死因の記録や辞世の句などは残されて入ませんが、73歳という当時としてはかなり長寿だったこともあり、死因は単純な老衰であったと考えるのが一般的かと思われます。
源頼光の具体年表
948年 – 0歳「清和源氏の嫡男として生を受ける」
源頼光の誕生
頼光は948年、清和源氏の2代目頭領である源満仲、嵯峨源氏の源俊の娘の下に嫡子として生まれました。父である満仲は、朝廷に敵対的な東北方面を警戒する鎮守府将軍という役職についており、現在の我々がイメージする”武士”の元祖のような存在でした。
そのような父の家系に嫡男として生まれた頼光も、後にその役職を引き継ぐ事が決定づけられていましたが、そのことについて幼い頼光が何を思っていたのか、あるいは幼い頼光が武芸に長けていたのかどうかについても、全く記録には残されていません。しかし、後に残るエピソードを見るに、頼光が武芸の才能を持っていたことは、疑いようがないように思えます。
ともかく、謎に包まれた幼少期を過ごした頼光が歴史の表舞台に姿を見せ始めるのは、彼が20歳を過ぎたころからでした。
960年代後半 – 20歳ごろ「朝廷への出仕を開始」
朝廷と藤原氏への出仕を始める
20歳を過ぎた頃、頼光は朝廷への出仕を開始。年齢としては早くも遅くもない出仕であり、当時の中旧貴族の慣例に乗る形での行動だったようです。
そうして朝廷に仕え始めた頼光は、上級貴族の中でもとりわけ強い権力を持ち、父である満仲の上司でもある藤原氏に仕えることになりました。藤原氏に臣従を果たした頼光は、官職を得て着々と財力を蓄えていったらしく、その財は後に清和源氏が大いに発展するための礎として、藤原氏への寄付や軍備などの、様々な費用に活用されることとなります。
堅実な経済的なテクニックがあったとも、先見の明があったとも取れるエピソードですが、少なくとも頼光は武芸一本の猪武者なのではなく、集団を率いる頭領として様々な物事に精通している人物だったと言えるエピソードだと思われます。
976年 – 28歳「坂田金時との出会い」
足柄山の坂田金時を配下に加える
この年、朝廷から勅命を受けた頼光は、目的を果たすために平安京を出発。その道中に立ち寄った足柄山で、頼光は坂田金時という若者と出会います。
金時は何を隠そう、昔話『きんたろう』のモデルとなった人物であり、実際にクマと相撲を取り、母に孝行をして暮らす「機は優しくて力持ち」な青年であったそうです。そんな彼の性根と力量を気に入った頼光は、金時を自身の部下として勧誘。その勧誘を金時が受けたことで、後の「頼光四天王」が勢揃いすることとなりました。
足柄山の坂田金時を配下に加える(異説)
頼光による直々の勧誘で頼光の配下に加わり、頼光四天王として多くの怪異と戦った金時ですが、その加入については様々な異説が存在しています。
割合あり得そうなものとしては、頼光四天王の一人である碓井貞光が、足柄山の豪傑の噂を聞きつけて勧誘に向かったとする説。トンデモ説の中では、金太郎の母親は実は人食いの山姥(やまんば)であり、それを討伐した頼光が、山姥の子として育てられていた金時を引き取ったとする説も存在しています。
挙句「実は坂田金時は実在していなかった」という説も出てくるなど、金時周辺の歴史的な記録は混在し、現在も確かなことが何もわかっていない状況のようです。
986年 – 38歳「春宮権大進に任命を受ける」
春宮権大進に任命を受ける
この年、後の三条天皇となる居貞親王が皇太子となり、頼光はそれと同時に”春宮権大進”と呼ばれる役職に任命されています。
春宮権大進とは、簡単に言えば皇太子の御所において内政を行う役職の一つです。居貞親王の皇太子就任と同時にこの役職に任じられているという事から、頼光が親王から強い信頼を得ていたことが伝わります。
春宮権大進時代の頼光
皇太子からの強い信頼を得ていることで、相対的に藤原氏からも高い評価を得るようになった頼光。この頃の彼は、朝廷や他の貴族たちが催す様々な行事に顔を出し、周囲の貴族たちと積極的な交流を図っていたようです。
特に主家であり、実質的なときの最高権力者である藤原氏との交流は深く、藤原道長の開催した競馬への参加や、時の関白である藤原兼家の引っ越しに際して、馬を30頭贈っているなど、藤原氏に献身的に尽くしていることがわかる記録が残されています。
少々打算的に映るエピソードではありますが、それによって清和源氏に対する藤原氏からの覚えが良くなり、その時に積み上げた信頼や財産が巡り巡って武家政権の樹立につながったと考えると、頼光の政治的な巧みさが窺えるようにも思えます。
990年 – 42歳「藤原道長の側近となる」
藤原道長の側近に
990年7月に、当時の関白であった藤原兼家が死去。その兼家の葬儀に参加した頼光は、兼家の息子だった藤原道長が、父の死に際しても堂々と振る舞っている様子を目撃します。
そんな道長にいたく感銘を受けた頼光は、これ以降道長の側近として仕えることを決めたそうです。道長も頼光のことを信頼していたらしく、道長によって藤原氏の権勢が昇り詰めるのと同時に、清和源氏の名声も高まっていったことが歴史書からも読み取れます。
大江山の酒呑童子退治?
一説では、大江山の酒呑童子退治はこの年に行われたとされています。決行の年月日についても「 永祚2年3月26日(990年4月28日)」と詳細に記録が残されており、酒呑童子討伐がこの年にあったことを示す証拠となっています。
しかし、現実的な観点で”鬼”と同一視される”夷敵”の討伐が行われたなどの記録は残っておらず、確定的にこの年に討伐があったとは言い切れない状態です。
ただ、簡易年表に記したとおり、「1018年の大江山の蝦夷討伐」と「酒呑童子討伐」を同一視するにしても、「70歳ほどの頼光が、本当に戦に出られるのか?」という疑問が生じることは免れません。
どちらにせよ「990年説」にも「1018年説」にも疑問が生じる余地がある以上、「『酒呑童子討伐』はあった」と仮定したうえで、「いつ」あったのかについては正確には不明とするのが妥当であるように思えます。
992年 – 44歳「備前守に任命を受ける」
備前守に任命を受ける
この年の頼光は、現在の岡山県に当たる備前国のトップ・備前守に任官を受けています。しかし頼光は備前には赴いておらず、代理人である目代を備前に赴かせて、自身は平安京に留まっていたようです。
この頃の頼光の様子については、あまり記録が残っておらず、彼が備前をどのように統治していたのかについては、多くの謎が残されていると言えそうです。
1001年 – 53歳「美濃守に任命を受ける」
美濃守として現地に赴任し、統治にあたる
父の代からの摂津国や、992年に統治を命じられた備前国など、多くの地域のトップとして統治に当たっていた頼光は、この年になると美濃国のトップである美濃守の任官も受けることになります。
この時の頼光は、目代による間接統治ではなく、自ら美濃へ赴いて実際に統治に当たっていたようです。また、同じ時期に但馬国と伊予国の統治も命じられており、頼光はこの時、5つの地域の統治を任じられていたということになります。朝廷からの頼光への信頼が窺えるエピソードと言えるでしょう。
また、この時美濃の隣国である尾張国を治めていた大江匡衡(おおえのまさひら)とは、隣国に赴任が決定したことについて書状でやり取りしていたことが明らかになっており、彼らがそれなりに親しく交流していたことが明らかになっています。
正四位下に任官。昇殿を許される
美濃守の兼任を命じられてから数年の間に、頼光は正四位下という位に任官を受け、朝廷への昇殿が許されることになります。この任官は「後一条天皇の即位に際して」とされているため、1008年に行われたと見られますが、正確な記録が残っているわけではないため、本記事では年号表記無しとさせていただきます。
この正四位下への任官を受けた頼光は、これまでの様々な働きで蓄えた財を用い、藤原氏への多額の寄付を行うなど、清和源氏の発展のために一層力を尽くすようになったことが記録されています。
そんな頼光の目論見通り、藤原道長は頼光たち清和源氏を重用。清和源氏と、その頭領である頼光を「朝家の守護」と綽名して奉り上げました。この道長の発言は、清和源氏の武家としての立ち位置を着々と高めていくきっかけとなるのです。
1018年 – 70歳「「大江山の夷敵討伐」の勅命を受ける」
大江山の夷敵討伐
大江山を支配する夷敵討伐の勅命を受けた頼光は、頼光四天王を引き連れ、6人で大江山へと乗り込み、夷敵討伐を行いました。
頼光と四天王以外の”6人目”については記録に残っておらず、詳細は分かっていませんが、もしもこの大江山の夷敵討伐が、酒呑童子討伐のエピソードに変化したと仮定した場合、6人目は頼光のライバルであり、『酒呑童子討伐』のエピソードでは頼光と並ぶ大将と位置付けられた、藤原保昌(ふじわらのやすまさ)であると考えるのが自然であるように思えます。
しかし前述した通り、1018年の段階で頼光も保昌も相当の高齢であるため、鬼退治のエピソードとするには少々現実味が欠ける点があるのも事実です。ともあれ、実際のところがどのようなものであったかは、想像するしかないというのが現状となっています。
1021年 – 73歳「この世を去る」
頼光、この世を去る
この年の8月29日に、源頼光はこの世を去ったと伝えられています。辞世の句や死因についての記録はなく、彼がどこでどのように息を引き取ったのかについては、全くと言っていい程わかっていません。
しかし、彼が73歳とそれなりに高齢となるまで生きていたことから、死因は単純な老衰だと考えるのが一般的なようにも思えます。
彼の遺体は清和源氏の本拠であった多田に埋葬されたらしく、兵庫県川西市の多田神社には、頼光の墓所が存在しています、
源頼光の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
源頼光 (人物叢書)
源頼光について纏められた、数少ない本の一つです。かなり古い本であるため、若干読みにくい部分はありますが、源頼光という人物について詳しく知るには、この本を読み込むことが一番の近道になるかと思います。
源満仲・頼光:殺生放逸 朝家の守護
「朝家の守護」と謳われた頼光率いる清和源氏が、どのような役職として活動していたのかについて纏められた一冊です。
頼光について、というよりは清和源氏という一族について纏められた本であるため、頼光についてというよりも源氏について深く知りたい方にお勧めしたい書籍となっています。
関連外部リンク
源頼光についてのまとめ
いかがでしたでしょうか?ゲームやアニメによく登場する「日本最強の怪異殺し」・源頼光について、なるべく史実に則して解説させていただきました。
ここまでこの記事をお読みいただければわかるように、「~でしょう」「~と思います」など、断定できない部分が多い人物である源頼光。鬼や妖怪といった、ある種フィクションの領域の者たちと深く関わる人物である以上、「歴史を紹介するサイトに載せるべきではない!」と思った方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、頼光のこういう「史実なのかフィクションなのかわからない」部分こそが、歴史の面白さを最も表している部分なんじゃないかと、筆者は思います。
歴史というのは記録であり、記録者がある以上、その人物の主観が入ることは避けられません。そのような主観によって「その人物は周囲からどのように思われていたのか」「後の世にどんな影響を与えたのか」を考察できることこそが、過去の記録である歴史を学ぶことの楽しさであるのではないかと、無学ながら筆者はそう考えています。
そう言った点で、中々に面白い描かれ方をしている人物の源頼光。皆さまも是非、彼の生涯を自らの目と時間を使って追ってみて、「想像する歴史」の面白さを体験してみてほしいと思います。
それでは、この記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。