ヘミングウェイの功績
功績1「『老人と海』でノーベル文学賞を受賞」
ヘミングウェイの一番の功績と言えば、やはりノーベル文学賞受賞でしょう。
ヘミングウェイ著の『老人と海』は世界的なベストセラーとなりました。『老人と海』の内容について、簡単に紹介したいと思います。漁師としての腕前が衰え、魚一匹釣れない不漁続きのサンチャゴ。
追い詰められた彼は、漁場を変えて勝負に出ました。そんなサンチャゴの前に現れたのは巨大なカジキです。サンチャゴはカジキと3日に及ぶ死闘を繰り広げ、見事勝利を手にしました。
しかし、そのカジキはサメの群れに食いちぎられてしまいーーという話です。自然の美しさ、非情さ、そしてなにより人間の強さについて描かれている熱い作品です。特に、魚との語らいは手に汗握ります。
ヘミングウェイの人生で得たすべてが詰め込まれている一冊と言っても過言ではないでしょう。臨場感たっぷりの、まさにノーベル文学賞にふさわしい作品です。
功績2「ハードボイルド文学の原点」
ハードボイルドとは、暴力的・反道徳的な内容を個人の感情を交えずに客観的かつシンプルに描写する文体のことです。
ヘミングウェイは、このハードボイルドな文体を初めて完成させた作家として文芸界に影響を与えました。また、男らしい冒険的な生活なども人々を魅了しました。その功績から、現在、彼の作品はアメリカ文学の古典の一つに数えられています。
もし彼がいなかったら、今日の私たちはサスペンス小説やハードボイルドな作品を楽しめなかったかもしれません。
ヘミングウェイの名言
この世は素晴らしい。戦う価値がある
この言葉は『誰がために鐘は鳴る』に出てくる言葉です。生きていると、理不尽なことや辛いことが山ほどあります。果たして、自分に生きる価値はあるのだろうかと思い悩むこともあるでしょう。
しかし、思い悩んでいるだけでは何も変わりません。行動して初めて、人は何かを見出せるのではないでしょうか。まずは精一杯行動してみなさい、と背中を押してくれる言葉ですね。
男はしばしば一人になりたいと思う。女も一人になりたいと思う。そしてその二人が愛し合っているときは、そういう思いを互いに嫉妬するものだ
大切な人と一緒にいるのは苦痛ではないが、たまには1人で伸び伸びと過ごしたい、そう思うこともあれば逆に1人になりたいと言われてショックを受けることもあります。そんな、複雑な思いを言葉にしたのがこの名言です。
人間、誰しも1人になりたい瞬間があります。そんなときは恋人に「1人の時間がほしい」と伝えてみるのもいいかもしれませんね。
人生について書きたいなら、まず生きなくてはならない
自身の体験を小説に落とし込むことが得意な、行動派作家ヘミングウェイらしい言葉です。言葉というのは、自分が見聞きしたものを形にする手段と言えます。もっと言って終えば、自分の中にあるものしか言葉にできないのです。
人生について書きたいなら、「生きる」ことについて真剣に向き合う必要があります。なぜそうしたのか、そのとき何を思ったのか、どう感じたのか、作家を目指すならこれらについて真剣に考えてみると物語や文章が飛躍するかもしれませんね。
ヘミングウェイにまつわる逸話
逸話1「怪魚・カジキとの格闘!」
アウトドア好きだったヘミングウェイは、魚釣りを愛したことでも知られています。しかし、そこは「パパ・ヘミングウェイ」、釣り上げる魚も規格外でした。よく狙っていた獲物はマカジキだったそうで、大きいものだと全長3m、体重100kgを遥かに超える巨大魚です。マカジキ釣りの最中にサメを釣り上げたこともあったそう…!
さらに、釣り好きが高じて、1950年にカジキ釣り大会を自ら創設しました。「ヘミングウェイ・カップ」と呼ばれるこの大会は、現在も毎年6月に開催され、世界中の釣り好きが集う国際的なイベントとなっています。
4日間でどれだけ多くのカジキを釣り上げられるか競うというものですが、彼の小説『老人と海』にちなんで「カジキを船に寄せるまで、サポートなしで1対1で勝負する」という特別ルールが設けられています。ちなみに、ヘミングウェイ自身も2度の優勝経験があります。
逸話2「2度の飛行機事故から生還!」
彼は命を落としかねない飛行機事故で2度も生還を果たしています。
夫婦でアフリカ・コンゴを観光していた時、乗っていた飛行機が電線に接触し墜落してしまいます。新聞には死亡記事が出たそうですが、2人は九死に一生を得ます。
しかし、翌日、別の飛行機でエンテベという町に向かう途中、その飛行機で火災が発生してしまいます。ヘミングウェイは頭突きでコックピットのガラスを割り、全身に重傷を負いながらも命からがら脱出に成功します。凄い生命力ですね…。
しかし、飛行機事故の重症のために1954年のノーベル文学賞の授与式を欠席しています。その後も、事故の後遺症に苦しみ、思うような活動ができなくなってしまいました。
逸話3「ヘミングウェイはスパイだった?」
文豪として有名なヘミングウェイですが、実は彼にはスパイという別の顔がありました。
第二次世界大戦中、ヘミングウェイは駐キューバ米国大使と協力し、スパイ団を組織。ナチス・ドイツのスパイを探しました。また、船にバズーカ砲や手榴弾を積み込み、漁に偽装してナチスの潜水艦を見つけ次第攻撃しようとしていました。
また、元KGB(ソ連の情報機関)幹部の暴露により、KGBにも協力していたことが近年明らかになりました。
当時のソ連は社会主義国(平等な社会を目指す思想を方針に運営している国)だったため、ヘミングウェイは社会主義者だったのかと勘違いしてしまいそうです。しかし、そうではなく、反ナチスのための協力であったと言われています。
文豪の印象が強いだけに、驚きですね。とはいえ、スパイとしての成果はほとんどありませんでした。
ヘミングウェイの略歴年表
ヘミングウェイはシカゴ郊外のオークパークで誕生します。父クラレンスは医者、母グレースは元オペラ歌手の声楽家でした。
地元の公立高校に入学したヘミングウェイ。このころから小説を書き始め、校内雑誌に短編小説が3本掲載されています
高校を卒業したヘミングウェイは、大学には進学せずに新聞記者になりました。地元紙『キャンザス・シティ・スター』に就職し、社会部の記者の見習いになっています。彼の明瞭簡潔な文章は、この時代に磨かれたものでした
第一次世界大戦が勃発すると、アメリカでは多くの若者が兵士に志願し戦場に向かいました。ヘミングウェイは赤十字の傷病兵運搬車の運転手として、イタリアに赴きます。これがヘミングウェイにとって初めての戦場でした
22歳のとき、ヘミングウェイは8歳年上の女性ハドリーと結婚します。そして、ピカソをはじめ多くの芸術家が集っていたパリでの新生活をスタートさせました。
24歳の時、初めての作品集『三つの短編と十の詩』を出版します。この頃に、新聞記者をやめて作家一本で生きてゆく決意を固めます。妻ハドリーには親から相続した多額の財産があったため、記者をやめても生活には困らなかったといいます。
27歳の時、初めての長編小説『日はまた昇る』を出版します。この作品は若者を中心にヒットし、作家として名をあげました。
最初の妻ハドリーと離婚していたヘミングウェイは、アメリカのリゾート地キーウエストに移住します。そこで、自らの戦争体験をもとに『武器よさらば』を発表します。この小説は大ヒットを記録し、彼は時代の寵児となります。
1937年にスペイン内戦が勃発すると、ヘミングウェイは従軍記者としてこの戦争に参加しました。この経験を元に1940年に長編小説『誰がために鐘は鳴る』を書いています。
ヘミングウェイは3番目の妻マーサとともにキューバに移住しました。人生の3分の1にあたる22年もの歳月をキューバで過ごすことになります。
1939年にナチスドイツがポーランドに侵攻したことを引き金に、第二次世界大戦が勃発します。ヘミングウェイも従軍記者としてこの戦争に参加しました。
長らく作品の発表がなかったヘミングウェイですが、1952年に『老人と海』を発表しました。世界的なベストセラーとなり、ピュリッツァー賞とノーベル文学賞を受賞することになります。
ヘミングウェイはアフリカを旅行中に、2度も飛行機事故に遭います。瀕死の重傷を負い、死ぬまで後遺症に苦しみました。
愛用の猟銃で自ら命を絶ちました。61年の生涯でした。
老人と海を読みました。
読後感がいいです。人生ってこんなものではないでしょうか?大抵の人は大成功しません。せいぜいプチ成功をいくらか。大成功の影には結構な犠牲や苦労があります。
それでも人は希望や夢を抱いて毎日を送るのだと思います。
> なおみさん
コメントありがとうございます!
老人と海の「読後感がいい」という感想、とても共感します。